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秀吉、歌を学ぶ  作者: 灰神楽ねこ


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不破の夕霧

天正七年六月、播磨国《はりまのくに》三木(みき)。


「おぬし、また痩せたのではないか」

秀吉がそう言うと、竹中半兵衛は布団の上で小さく笑った。

「もとより肉のついておらぬ身体にて」

「笑い事ではないわ。飯は食うておるか」

「食べております」

「何を」

「今朝は粥を」

「どれほどじゃ」

半兵衛は指で小さな椀を作ってみせた。

「かようなもので足りるか。権兵衛《ゴンベ》など、朝から三膳は食うぞ。市松や虎之助なら五膳は喰らうわ」

「仙石《せんごく》殿やお小姓衆と比べられましても」

「そうじゃな。あやつらは馬のように食う」

半兵衛はまた笑いかけて、激しく咳き込んだ。秀吉は枕元の水差しを取り、椀に水を注いで渡した。


陣中の小屋には、薬草を煎じた匂いがこもっていた。戸口には簾が掛けられ、外から入る六月の光を和らげている。遠くで兵たちが杭を打つ音がした。


半兵衛は水を飲み、しばらく息を整えていた。

「殿。願いがございます」

「また仕事の話か」

「松寿丸殿のことで」

秀吉は椀を受け取り、脇に置いた。

「まだ案じておるか」

「はい」

「おぬしのところにおるのじゃろう」

「今は、それでよろしゅうございます。ただ、私に何かございましたら」

「何もあるものか」

半兵衛は黙った。


「京からよい医者を呼ばせる。薬も取り寄せる。三木が片づいたら、有馬の湯にでも行かせてやる」

「ありがたき幸せ」

「官兵衛のことも、まだ決まったわけではない。摂津守の城に入った者が、皆裏切り者とは限るまい」

半兵衛は秀吉を見た。

「殿も、そうお思いになりますか」

「……わからぬ」

秀吉は膝の上で手を組んだ。

「わからぬから、腹が立つんじゃ。あやつは何をしておる。生きておるなら、なぜ一言も寄越さぬ」

「寄越せぬ事情があるのでございましょう」

「おぬしは、どこまでも官兵衛を信じるのう」

「はい」

「その頑固さを、少しはおのれの養生にも向けよ」

半兵衛は笑った。

「それは難しゅうございますな」


秀吉は立ち上がり、戸口へ向かった。

「明日また来る。何か食いたいものがあれば言え。京の菓子でも、堺の魚でも、取り寄せてやる」

「では、ひとつ」

「何じゃ」

「殿も、少しお休みくだされ」

「わしのことはよい」

半兵衛は秀吉を見上げた。

「……初めてお会いしたのは、永禄の末でございましたな。供の者を一人だけ連れて、不破《ふわ》の菩提山《ぼだいやま》にふらりと来られた。夏の盛りの暑い日でしたな」

「そうであったな。懐かしいの」

「あの頃はまだ筑前様ではなく、藤吉郎殿でしたな」

「そうじゃな」

「あの頃から殿はずっと、走り続けて来られた。たまには休まれよ」

秀吉は簾を持ち上げた。

「わし一人では何もかも手が回らぬからな。おぬしが元気になったら、また働いてもらうぞ」


半兵衛は薄い微笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。

秀吉が半兵衛に会ったのは、それが最後だった。


*


秋風が吹きはじめるころ、摂津の有岡城が落ちた。

知らせが届いたとき、秀吉は三木の陣で報告を聞いていた。

「摂津守は逃げおったか」

「はっ。城中にはなお一族、家臣らが残っておりましたが、織田勢が攻め入りまして」

「官兵衛は」

使者は一瞬、言葉を詰まらせた。

「小寺官兵衛殿は、土牢《つちろう》におられました」

秀吉は使者を見た。

「……牢?」

「長く閉じ込められておった由にございます」

「誰が」

「官兵衛殿が」

「それは聞いた!」

秀吉は立ち上がった。

「なぜじゃ。なぜ官兵衛が牢におる。摂津守に仕えておったのではないのか」

「城へ入られた後、捕らえられたものと」

秀吉は口を開いたまま、使者を見つめた。

「……捕らえられた?」

「はっ」

「いつからじゃ」

「まだ詳しくは」

「生きておるのか」

「生きておられます。ただ、酷くやつれておいでで」

秀吉は机に手をついた。

「生きてはおるのじゃな」

「はっ」

「官兵衛は、裏切っておらなんだのか」

使者は頭を下げた。

秀吉はそのまま、しばらく動かなかった。



官兵衛が戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。

秀吉は迎えの者を出し、医者も待たせていた。

知らせを聞いて以来、官兵衛から有岡城の様子を詳しく聞こうと考えていた。摂津守は何を言ったのか。誰が牢へ入れたのか。どうして助けを求められなかったのか。

だが、実際に連れてこられた男を見て、秀吉はすべてを忘れた。


二人の家臣に左右を支えられて、痩せこけた男が入ってきた。

髪は乱れ、頬が落ち、目の周りは黒ずんでいた。衣の下から見える手首は骨と皮ばかりだった。

右脚を床につけるたびに顔が歪み、家臣たちは何度も歩みを止めて、身体を支え直した。


「……官兵衛か」

男が顔を上げた。

「ちくぜん、さま」

声はかすれていた。

秀吉はよろめくように近づいた。

「おぬし……」

官兵衛は膝を折ろうとした。

「御心配を、お掛けいたし……」

「よい! 座れ、座れ!」

秀吉は家臣たちに手を振った。

「何をしておる。早う座らせよ。医者を呼べ。湯も持って参れ」

「筑前様」

「喋るな。今は何も喋らんでよい」


官兵衛は畳に座らされ、苦しそうに息をついた。

秀吉はその前にしゃがんで、官兵衛の肩を支えた。

「痛むか」

「いささか」

「いささかの顔ではないわ」

官兵衛はかすかに片頬を持ち上げて笑った。その、どこか斜に構えるような笑い方だけは、以前と変わらなかった。


秀吉は目を伏せた。

「……よう、生きて戻った」

官兵衛は返事をしなかった。


医者が来て、傷んだ脚を診た。

秀吉は傍らで見ていたが、やがて邪魔になると追い出された。廊下へ出ると、小一郎が待っていた。


「どうじゃ兄者」

「ひどいもんじゃわ」

秀吉は壁にもたれた。

「官兵衛とは思えなんだ」

小一郎は黙っていた。

「わしは、あやつが……」

「兄者」

秀吉は廊下の奥を見た。

「……竹半《ちくはん》が生きておればのう」



数日後、官兵衛は少しずつ食事を取れるようになった。

秀吉が訪ねると、官兵衛は床の上で書付を読んでいた。

「もう仕事か」

「三木のことが気になりまして」

「おぬしも半兵衛と同じことを申す」


官兵衛は書付を置いた。

「竹中殿は、どのように」


秀吉は枕元に座り、半兵衛の最期を話した。

官兵衛は静かに聞いた。

「松寿丸が無事と聞き、安堵しておりました。竹中殿が匿ってくださったと」

「うむ」

秀吉は官兵衛の顔を見た。

「上様は、あの子を殺せと仰せになった。半兵衛は、それに背いたのじゃ」

官兵衛の目が見開かれた。

「……上様の御下命に」

「そうじゃ。半兵衛はおぬしが裏切るはずがないと、最後まで申しておった」


官兵衛は両手を畳につき、深く頭を下げた。肩が小さく震えた。

秀吉はその背中に手を伸ばしかけて、引いた。


「官兵衛」


返事はなかった。


「もうよい。よく療養せい。松寿丸にも元気な顔を見せてやらねばならん」

官兵衛は頭を下げたまま、小さく頷いた。


*


天正八年正月。


三木城の門が開いた。

城から出てきた者たちを見て、秀吉は眉をひそめた。

老人が若い男に肩を借り、女が痩せた子供を抱いていた。立ち止まる者、道端に座り込む者もいた。水を与えられると、椀を離さず飲み続ける者がいた。

神子田半左衛門《みこだはんざえもん》が近づいてきた。

「殿。城内の処置について、お伺いしたきことが」

「申せ」

「病人が多うございます。近くの寺だけでは収容しきれませぬ」

「空いておる屋敷を使え」

「すでに手配しておりますが、米が」

「粥を炊かせよ」

「それも、どれほど続けられるか」

秀吉は城門の方を見た。

「まず今日の分じゃ。明日の米は明日考えよ」

半左衛門は頷いた。


そのとき、別所小三郎長治が一族とともに自刃したという知らせが届いた。

秀吉は使者に詳しい様子を尋ねた。

「最後まで取り乱されず、御一門衆と別れを済まされました。辞世も残された由にございます」

「聞かせよ」

使者は居住まいを正した。


「今はただ恨みもあらず諸人《もろひと》の、命にかはる我身《わがみ》と思へば」


秀吉は黙った。

「……もう一度」


使者が繰り返した。

秀吉は城門を見た。


「諸人の命に代わる、か」

「はっ」

「立派なことを申す」

半左衛門が顔を上げた。

秀吉は急に声を荒らげた。

「何が立派なものか! 城を開けば済んだことじゃ。あれほど人を飢えさせて、最後におのれ一人の命で皆を救うたような歌を詠みおって!」

使者は頭を下げた。


「殿」

半左衛門が口を開いた。

「何じゃ」

「城中の者が聞いております」


秀吉は周囲を見た。

少し離れたところで、城から出てきた者たちが何人も、無言でこちらを見ていた。


半左衛門が静かに言った。

「小三郎殿が立派に腹を切ったゆえ、これ以上の人死にはなくなりました。城中の者は、そう思うておりましょう」

「……わかっておる」

「はい」

「わかっておるわ」

秀吉は踵を返した。


「半左衛門。食わせてやれ。病人も子供も、できるだけ助けよ」

「承知いたしました」

「死んだ者は弔わせよ。敵も味方もじゃ」

半左衛門は頭を下げた。


秀吉は数歩進んで足を止めた。

「半左衛門」

「はっ」

「今の歌、書き留めておけ」

半左衛門は秀吉を見た。

「よろしいので」

「何じゃ、その顔は」

「いえ」

「よい歌かどうかは、わしにはわからん。じゃが、忘れてはならん気がする」

半左衛門は頷いた。

「承知いたしました」


秀吉は城門を振り返らずに歩いていった。


*


三木城が落ちてからも、秀吉のもとには毎日、山のような書付が届いた。

春には播磨の諸城を巡り、夏には姫路で領地の仕置きを進めた。官兵衛は主君の小寺氏が織田を離れたため、もともとの黒田の姓に復し、不自由な脚を引きずりながら仕事に戻っていた。


ある日の午後、赤松則房が訪ねてきた。

「筑前様。しばらく御無沙汰いたしました」

「おお、置塩殿《おじおどの》。よう来られた。さあ、座られよ」

秀吉は書付を脇に押しやった。

「このところ、歌の稽古もさっぱりじゃ」

「戦のさなかにございますから」

「戦が済めば暇になると思うておったが、済んだら済んだで仕事が増える。困ったものじゃ」

則房は笑った。


秀吉はしばらく播磨の国人たちの話をし、近ごろ京から届いた書物について尋ねた。則房は古い歌の一節を引いて説明し、秀吉はその言葉を何度か口の中で繰り返した。

やがて、秀吉が言った。

「そうじゃ。置塩殿に見てもらいたいものがある」

「何でございましょう」

秀吉は文箱を開き、折り畳んだ紙を取り出した。

「半兵衛が逝った折に詠んだ歌じゃ。何度か直したが、まだどうにもまとまらん」

則房はその紙を受け取り、無言で目を走らせた。


はりまなる雲居にかかる月と雁

かたみに消ゆる不破の夕霧


則房はしばらく歌を見つめていた。

秀吉は焦れたように聞いた。

「どうじゃ。やはり、変か」

則房は答えなかった。

「置塩殿?」

「……お待ちを」

則房は紙を机に置き、指で文字を追った。

「不破《ふわ》とは、竹中殿の御郷里でございますな」

「そうじゃ。美濃の不破郡よ」

「雲居にかかる月と雁……かたみに消ゆる、不破の夕霧」

則房は小さく頷いた。

「筑前様。これは、御自分でお詠みになったのでございますな」

「当たり前じゃ。人の歌を盗んだりはせぬぞ」

「左様な意味ではござらぬ」

則房は顔を上げた。

「以前、筑前様のお歌を幾つか拝見いたしました。よく古歌を覚えておいでで、言葉の使い方も、少しずつお上手になっておられました」

「うむ」

「けれども、これは違います」

秀吉は身を乗り出した。

「どこがじゃ」

「月も、雁も、夕霧も、古くから歌に詠まれてきたものにございます。されど、この歌では、ただ古い言葉を並べておいでになるのではない」

則房は紙に目を落とした。

「播磨の空を渡る雁が、美濃へ帰ってゆくようにも読めます。月は雲に隠れ、夕霧が立つ。亡き方の姿が、その景色の中に見えて参ります」

秀吉は黙って聞いていた。

「もっとも、言葉の続きには難しいところがございます。月と雁が何にかかるのか、かたみに消ゆるとは何と何が消えるのか。読み手によって迷うところもありましょう」

「やはり、そうか」

「はい。けれども」


則房は、もう一度歌を読んだ。


「よき歌にございます」

秀吉は顔を上げた。

「まことか」

「はい」

「おぬし、わしに気を遣うておらんか」

「これまで、気を遣うておりましたか」

「いや、散々直されたわ」

則房は笑った。

「ならば、今も同じにございます」


秀吉は紙を見た。

「……わしは、半兵衛を故郷《くに》へ帰してやりたかったのじゃ」

「はい」

「播磨で死んでしもうたからのう。不破へ帰してやろうと思うた」

則房は頷いた。

「そのお心が、歌になっております」


秀吉はしばらく紙を見つめていた。

「宗順殿にも、見せてよいかのう」

「お見せなされませ」

「また叱られそうじゃ」

「叱られるところはございましょう」

「あるのか」

「ございます」

二人は笑った。


則房は紙を丁寧に畳み、秀吉へ返した。

「されど、筑前様。これからも歌をお詠みなされませ」

「うむ」

「今日のお歌を拝見して、私も楽しみになりました」

秀吉は少し照れたように笑った。

「それほど言われると、次が困るわ」


*


天正八年秋、播磨国置塩城(おじおじょう)。


「置塩殿はおられるか!」

城の大手に現れた秀吉を見て、門番は仰天した。

「ち、筑前様! これは、ようこそお越しくださいました。御先触れは……」

「おらん。近くまで来たゆえ、気まぐれに寄ってみたんじゃ。置塩殿は御在城か」

「はっ。ただいまお知らせいたします!」

門番が奥へ駆けていった。


秀吉は供の杉原七郎左衛門を振り返った。

「騒がせてしもうたのう」

「殿が急に寄ると仰せになるからでございます。せめて先触れを出しておけば」

「知らせなど出したら、置塩殿がいろいろ支度をなさるではないか。気の毒じゃ」

「……それは、今さらではございませぬか」

「何じゃ」

「いえ、何でもございませぬ」

秀吉は笑った。


しばらくすると、赤松則房が数名の家臣を伴って足早に出てきた。

「筑前様。これは思いがけぬお越しにございます」

「いやあ、急に押しかけてすまんの。領内を見て回っておったら、こちらへ足が向いてのう」

「何のお構いもできませぬが、どうぞお上がりくだされ」

「ありがたい。坂を登って喉が渇いたわ」


城内へ案内される途中、秀吉は石垣や門の造りを眺め、道端に積まれた修繕用の材木を指さして、何を直しているのかと尋ねた。

則房が答えると、今度は普請に使う木材の値を聞いた。

「そのようなことまでお尋ねになりますか」

「銭のかかることは、何でも気になる性分でのう」

則房は笑った。


屋敷に通されると、庭に面した座敷へ案内された。

庭石の間には苔が生え、木々の枝が深い影を落としていた。座敷の柱や建具には古びたところもあったが、隅々までよく手入れされていた。

「よい庭じゃ」

「祖父の代から手を入れております」

「ほう。あの石もか」

「はい。あちらの松は、父が植えさせたものと聞いております」

秀吉は縁側へ出て、松を眺めた。

「ずいぶん大きゅうなったのう」

「五十年も経てば、木も育ちまする」

「人間も五十年あれば、ずいぶん変わるわ」

秀吉は笑って座敷へ戻った。

茶が運ばれてきた。若い小姓が菓子を載せた盆を差し出すと、則房はその手元を見て、静かに声をかけた。

「待ちなさい。客人へ差し上げる向きが違う」

小姓は慌てて盆を持ち直した。

「申し訳ございませぬ」

「よい。次から気をつけなさい」

秀吉は菓子を一つ取り、面白そうに言った。

「置塩殿の家では、菓子の出し方まで決まっておるのか」

「決まりと申すほどのことではございませぬ。ただ、相手の方が取りやすいようにするだけにございます」

「なるほどのう。わしなど、菓子が出ればすぐ手を伸ばしてしまう」

「筑前様は、それでよろしゅうございましょう」

「何じゃ、それは。わしには作法が要らぬということか」

「左様なことは申しておりませぬ」

二人は笑った。


秀吉は菓子を食べながら、庭の松についてまた尋ねた。

話は則房の父祖の代に及び、やがて赤松家の古い武将たちの逸話になった。秀吉は面白がって聞き、気になるところがあるたびに口を挟んだ。


「そういえば、置塩殿。先だっての歌のことじゃが」

「竹中殿のお歌でございますか」

「そうじゃ。宗順殿にも見せようと思うておるが、まだ果たせておらぬ」

「ぜひ、お見せなされませ」

「おぬしほどは褒めてはくれまいな」

「それは、わかりませぬ」

「いや、あの御仁は厳しいぞ。わしが一つ覚えれば、すぐ次のことを言い出す」

則房は微笑んだ。

「よき師に巡り合われましたな」

「まったくじゃ。おかげで、いくつになっても手習いが終わらん」

話しているうちに庭の向こうで雲が広がり、ぽつぽつと雨が落ち始めた。

「降ってきたのう」

「山の天気は変わりやすうございます」

則房は庭を眺めた。

「この城は、雨が降りますと道が悪うなります。お帰りの折は、お気をつけくだされ」

「そうじゃな。馬も滑ろう」

秀吉は縁側へ出て、雨に濡れ始めた庭を見た。

「それにしても、山の上の城というのは難儀なものじゃな。材木一つ運び上げるにも人が要る」

「左様でございます」

「米も、水も、何もかもじゃ。先ほど門のところで普請の材木を見たが、あれだけ運ぶにも銭がかかろう」

「はい。古い城にございますゆえ、直すところも多うございます」

「そうであろうな」


秀吉は庭の松を見たまま、しばらく黙った。


「置塩殿」

「はい」

「播磨の城を、いくつか減らすことになった」

則房は秀吉の背中を見上げた。

「左様でございますか」

「姫路を中心に、城も兵もまとめる。小さな城をあちこちに置いておっては、守るにも銭がかかるし、いざというとき兵を集めるのも難しい」

「もっともなことでございます」

「……置塩も、その一つじゃ」


雨が少し強くなった。

則房はすぐには答えなかった。


秀吉は振り返った。

「この城を破却する。上様のご意向にも沿う処置じゃ」

「承知いたしました」

則房は静かに頭を下げた。

秀吉はじっとその顔を見ていた。

「長く赤松家の城であったことは、よう知っておる」

「はっ」

「円心入道のころからの話も、おぬしに聞かせてもろうた。赤松の家にとって、この城がどれほど大事かも、わかっておるつもりじゃ」

「ありがたきお言葉にございます」

「じゃが、播磨の仕置きは進めねばならぬ」

「承知しております」

則房は顔を上げた。

「されば、家中の者どもにも支度を命じねばなりませぬな。普請を止め、城内の道具や文書を運び出す算段をいたしましょう」

「うむ。急にすべてを片づけよとは申さぬ。日取りは追って相談しよう」

「恐れ入ります」

「城におる者たちの行く先も、考えねばならぬのう」

「それはこちらで調べ、御相談申し上げます」

則房は落ち着いた声で答えた。

秀吉は座敷へ戻り、残っていた茶を飲んだ。

「……せっかくの庭じゃがな」

「庭は、移せるものもございます」

「松はどうじゃ」

則房は庭を見た。

「この大きさになりますと、難しゅうございましょうな」

「そうか」

「もっとも、城を移りますれば、また新しい庭を作ることもできましょう」

秀吉は頷いた。


しばらくして雨が上がった。門まで見送りに出た則房に、秀吉は馬の手綱を持ちながら言った。

「置塩殿。今日は突然押しかけて、すまなんだ」

「とんでもございませぬ。久方ぶりに筑前様とゆるりとお話しできました」

「また歌を教えてくれ」

「いつでも、お越しくだされませ」

「今度は先触れを出そう」

則房は笑った。

「それは、ありがたきことでございます」

秀吉も笑い、馬に跨った。


坂を下り始めると、七郎左衛門が馬を寄せてきた。

「殿」

「何じゃ」

「わざわざ城まで来ずとも、書付を送れば済んだのでは」

「うむ」

秀吉は少し馬を進めた。

「じゃが、置塩殿には、わしの口から言いたかったのじゃ」


坂を下りきる手前で、秀吉は振り返った。

山の上には置塩城の屋根が見えていた。雨上がりの雲が尾根を流れ、城の背後の山々を半ば隠していた。


*


天正十年六月三日、備中国高松。


夜も更けていたが、秀吉の陣ではまだ軍議が続いていた。

「毛利はいつまで渋っとるんじゃ」

「恵瓊《えけい》殿の話では、小早川左衛門佐(さえもんのすけ)は和議に傾いとるらしいが、吉川駿河がなかなか首を縦に振らんそうじゃ」

蜂須賀小六が答えた。

「駿河守か。相変わらず頑なじゃのう」

「恵瓊殿は、今しばらく時が欲しいと申しておりました」

官兵衛が言った。

「時など、いくらもないわ。じきに上様がお出ましになれば、そうも言っておられんぞ」

秀吉は地図の上に手を置いた。

「小六。もう一度、恵瓊殿を呼べ。左衛門佐に話を通してもらうのじゃ。春先の武田を思え、このままでは出雲も安芸も無事ではすまんと脅しておけ」


そのとき、陣屋の外が急に騒がしくなった。

馬のいななきに続いて、人が駆ける足音が聞こえた。何事かと秀吉が顔を上げると、戸口に控えていた小姓が入ってきた。

「殿。京より急使にございます」

「佐吉か。この刻限に京から?」

「火急の知らせとの由にて」

「通せ」

入ってきた男は、衣の裾を泥で汚し、肩で息をしていた。秀吉の前まで進むと、その場に崩れるようにして平伏した。

「申せ」

「去る二日、惟任日向守《これとうひゅうがのかみ》殿が謀反……上様、ならびに城介《じょうのすけ》様……御生害《ごしょうがい》あそばされ……」

秀吉は眉をひそめた。

「何を申しとるんじゃ」

「上……上様は、昨日未明、下京《しもぎょう》の本能寺にて……御自害、なされた由に……」

「馬鹿ぁ言え!」

秀吉は跳ねるように立ち上がった。後ろで床几が倒れた。

「日向守が上様を討つはずがあるか。何かの間違いじゃ。おみゃあ、誰から聞いた」

「そ、それがしが京を発ちました折には、寺は焼け落ち、あたりは惟任勢が固めておりまして……」

「おみゃあ、本能寺を見たんか!」

「はっ。焼け跡を、この目で」

「上様の御姿を見たのか!」

「いえ、御姿は……」

「ならば、わからんではないか! 上様はどこにおられる!」

「本能寺にて御最期を……」

「それは聞いたわ! 逃れられたのかと聞いとるんじゃ! 御供の衆はどうした。誰ぞ上様をお連れして、京の外へ落ちた者はおらんのか!」

「いえ、それは……」

「城介様はどうじゃ! 二条におられたはずじゃろう。城介様も御無事ではないのか!」

「二条の御所も惟任勢に囲まれ、城介様は御自害なされたとの由に……」

「誰が見た! 御最期を見届けた者がおるのか!」

「そこまでは、しかとは……」

秀吉は泥の上に膝をつき、男の顎を掴んで顔を上げさせた。

「おぬし、痴れ者か、毛利の間諜か、謀りを申すな。上様がかような……」


「殿!」

「おい、落ち着けや!」

杉原七郎左衛門と蜂須賀小六が左右から秀吉を抑える。


そのとき外からまた騒がしい物音が聞こえてきた。

「殿、怪しい者がうろついておったんで、引っ捕えましたところ、このようなものが」

意気揚々と入ってきた福島市松と加藤虎之助が、あたりの異様な様子を見て固まる。

「どうした」

石田佐吉が尋ねると、加藤虎之助が懐から巻紙のようなものを出した。

「怪しい男が持っとった」


小一郎が紙を広げて素早く目を通す。

「おぬしら、これを読んだか」

「読んどりません!」

市松と虎之助が声を揃えた。


小一郎がその紙を持って、秀吉の横にしゃがみこんだ。

「兄者」

「待て」

「兄者よ」

「待てと言っとるんじゃ!」

小一郎は広げた紙を兄の前に突き出した。

「これを見ろ。日向守から毛利への密書じゃ」

秀吉はそれを見た。

そして、まだ這いつくばっている使者に目を向けた。

「……本当に、上様がお亡くなりになったんか」

使者は深く頭を下げた。


秀吉は口を開きかけたが、何も言わなかった。

遠くで、夜番の兵が交代を告げる声がした。



ふいに、馬の鼻息が聞こえたような気がした。

尾張の夏だった。

藤吉郎は、道端の大きな木の下で眠っていた。

腹が空いていた。日差しが強く、歩くのが嫌になって、木陰に入ったのだった。

馬の鼻息がまた聞こえた。

「おい」

藤吉郎が目を開けると、派手な衣装を着た若い武士が馬上から見下ろしていた。供の者が二、三人、少し後ろに控えている。

「おみゃあ、そこで何しとるんじゃ」

「寝とります」

「たわけ。見りゃあわかるわ」

武士は笑った。

「稼ぎはないんか」

「探しとります」

「寝ながらか」

「腹が減っとります」

武士はまた笑った。

「面白え奴じゃ。名は何じゃ」

「藤吉郎と」

「姓は」

藤吉郎は少し困った。

「ございませぬ」

武士は木を見上げた。

葉の間から日が差し、馬の首筋にまだらな影を落としていた。

「ならば、おみゃあ今日から木下じゃ。木下藤吉郎じゃ」

「はぁ?」

「木の下におったからじゃ」

藤吉郎は呆気に取られた。

武士は馬を進めかけ、振り返った。

「食うもんがないなら、着いて来い」

「どちら様で」

供の一人が目を剥いた。

武士は首をそらすようにして高々と笑った。

「織田の三郎じゃ」

藤吉郎は慌てて地面に這いつくばった。

馬の蹄の音が遠ざかっていく。

藤吉郎はしばらく頭を上げられなかった。それから、跳ねるようにして馬の後を駆け出した。



「兄者」

また、小一郎の声がした。

秀吉は顔を上げた。

「……木の下でな」

「何じゃ」

「わしは、上様に拾われたんじゃ」

小一郎は兄の顔を見た。

秀吉は、何か言おうとして口を閉じた。

「……上様」

声が震えた。

秀吉は両手で顔を覆い、肩を震わせた。

小一郎は傍らに黙って座った。しばらく誰も口を開かず、陣屋の中は静かになった。


やがて、秀吉は顔を上げた。

「日向守が、上様を討ったのか」

「そうじゃ」

「……あの男が」

秀吉は拳を握った。

「許さん」

小一郎は何も言わなかった。

「断じて許さん」

秀吉は立ち上がった。

「官兵衛、小六!」

官兵衛は厳しい顔をしていた。

「毛利方に知られる前に、急ぎ和議をまとめねばなりませぬ」

秀吉は頷いた。

「城主の切腹を条件に、城兵を助けると」

「毛利は退くか」

「わしらが動き出したら堤を切ればいいんじゃ。泥沼で毛利は追ってこれん」

小六が言った。

小一郎が口を開いた。

「兄者。軍勢を返すなら、荷駄の始末が要る。雨で道も悪うなっておる」

「半左衛門と尾藤に任せよ。米は何日分じゃ」

「沼城まで戻れば蓄えがある。その先は岡山じゃ」

「兵を飢えさせて京へは帰れぬ。後備えも残さねばならん。毛利に悟られるな」

秀吉は次々に命じた。

夜明けまでに、いくつもの命令書が書かれた。

秀吉はその一枚一枚に目を通した。



数日後、毛利との和議がまとまると、羽柴勢は直ちに備中を発った。

出立の朝、秀吉は馬に跨り、東の空を見た。

雲の間から日が差していた。

「京へ帰るぞ!」

秀吉が声を張り上げると、諸将が応じ、兵たちが動き始めた。

秀吉は手綱を握り直し、馬の足を速めた。

今回の話で秀吉が詠んだ「不破の夕霧」の歌は、著者が(けっこう頑張って)創作した架空の和歌です。

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