憂きことを習いに
天正五年十月、羽柴筑前守秀吉は播磨国姫路に入った。
中国方面の攻略を命じられた秀吉にとって、播磨は西国へ進むための足場であった。しかし、この国には一人の大名が統べる秩序というものがなかった。
別所、小寺、赤松をはじめとする国衆が、それぞれ城と所領を持ち、東の織田と西の毛利の間で去就を定めかねていた。
姫路城では、朝から人の出入りが絶えなかった。
城代の小寺官兵衛は、訪れる国衆の名と所領を書き連ねた紙を持ち、秀吉の前に座っていた。秀吉はその紙を一通り眺めると、脇へ置いた。
「それで、昨日の男はどうなった」
「昨日の男、と申されますと」
「昼過ぎに来た、背の高い男じゃ。左の頬に疵があった。弟が二人おると言うておった」
官兵衛は書付を繰った。
「それは、飾東郡の――」
「そうじゃ、あの男じゃ。用水のことで訴えがあると申しておった」
「はい。堰をめぐる争いがあるとのことにございます」
「去年の夏も水が足りず、今年も揉めておるとな」
官兵衛は顔を上げた。
「よくお覚えでございますな」
「昨日聞いたばかりではないか。もっとも、大勢来たからのう。何人じゃった」
「二十七人にございます」
「そんなにおったか」
秀吉は笑った。
「あとであの男を呼べ。弟の一人が病をしておるとも言うておった。見舞いの品でも持たせてやれ」
官兵衛は返事をしながら、内心では少し驚いていた。
この男は、初めて会う国衆の家筋を取り違えることがある。官位も、古い由緒も、聞き返さなければわからない。
ところが、一度耳にした人間の話は、奇妙なほどよく覚えている。
しかも、覚えているのは名や顔ばかりではなかった。
前日に報告された兵糧の量、船を出せる港、雨が降るとぬかるむ街道、荷駄を渡せない橋。そうしたことを、書付も見ずに言い当てる。
官兵衛が新しい報告を始めると、秀吉は途中で遮った。
「その道は、先月の雨で橋が落ちたのではなかったか」
「修復いたしました」
「いつじゃ」
「十日ほど前にございます」
「人夫はどこから出した」
「近くの村々から」
「賃は払うたか」
「はい」
「ならばよい。これから軍勢が通る。勝手に田を踏み荒らす者が出ぬよう、村の者に伝えておけ」
傍らで聞いていた竹中半兵衛が、口を開いた。
「村の者に伝えるだけでは足りますまい。軍勢の側にも、あらかじめ申し渡しておくべきかと」
「そうじゃな。小一郎に言うておこう」
秀吉は半兵衛を見た。
「おぬし、昨夜はひどく咳をしておったそうじゃな」
「少々、冷えましたので」
「冷えたなら火を焚け。薪が足りぬのか」
「足りております」
半兵衛は笑った。
「薪一本で命が助かるなら、安いものでございますな」
「そうじゃ。おぬしは食う量こそ少ないが、注文も多い、高くつく軍師じゃからな」
「筑前様ほどではございませぬ」
官兵衛は、二人のやり取りを横で聞いていた。
半兵衛は、秀吉の言葉を必要以上に恐れない。秀吉もまた、半兵衛に対して遠慮がない。長い間、ともに戦場を歩いてきた者同士の話し方であった。
その日の午後、赤松上総介則房が姫路を訪れた。
置塩城を本拠とする則房は、播磨の名族赤松氏の一門である。細面で、言葉遣いは穏やかだったが、答えを急がず、容易に本心を明かさないところがあった。
秀吉は則房を丁重に迎えた。
「上総介殿、ようお越しくだされた」
「筑前殿には、遠路お働きのことと存じます」
「なに、播磨はよい国じゃ。海もあり、山もあり、米も取れる。これで戦がなければ申し分ない」
則房はわずかに笑った。
「戦のない世であれば、我らもありがたく存じます」
「そのために参った、と申し上げたいところじゃが、わしも兵を連れて来ておる。そこは嘘をつけん」
則房は秀吉の顔を見た。
秀吉は続けた。
「ただ、わしは播磨の城を片端から攻め落としたいわけではない。上総介殿にも、できればお力を借りたいと思うておる」
則房は、すぐには答えなかった。
「……播磨の者には、それぞれ古くからの縁がございます。織田家に従うと申しましても、昨日までの縁を一日で断つことはできませぬ」
「もっともじゃ」
「その点を、お汲み取りいただければ」
「承知した。こちらも上総介殿に、今日明日で何もかも決めよとは申さん」
話は置塩周辺の所領や街道、寺社の権益へ移った。
則房がある村の名を挙げると、秀吉は官兵衛に尋ねた。
「その村は、先日、年貢のことで訴えに来た者がおったところではないか」
官兵衛は書付を確かめた。
「左様にございます」
「寺へ納める分と、領主へ納める分が重なっておると申しておったな」
則房は驚いたように顔を上げた。
「その件をご存じでございましたか」
「三日前に聞いた。あの村の庄屋は、去年の秋にも同じことで揉めたと言うておったぞ」
「まことに、そのとおりにございます」
「ならば、双方の証文を見よう。百年前の証文でも構わんが、今の百姓が何を納めておるかも確かめねばならん」
則房は深くうなずいた。
「ありがたきお言葉にございます」
秀吉は笑った。
「まだ何も解決しておらん。礼は、話が片づいてからにしてくだされ」
則房が帰ったあと、官兵衛は言った。
「上総介殿は、なかなか容易ならぬお方にございます」
「うむ。腹の内を簡単には見せぬ」
「こちらの様子を、よく見ておられました」
「わしも見ておった」
秀吉は茶を飲んだ。
「よい衣を着ておったな。だが、袖口は少し擦れておった。家は古いが、暮らしは楽ではないのじゃろう」
半兵衛がうなずいた。
「赤松の御家も、往時の勢いはございませぬ」
「そうじゃろうな。家を守るためにずいぶん苦労しておられると見た」
秀吉は立ち上がった。
「またお会いしよう。次は、もう少し腹を割って話してくださるかもしれん」
*
冬が近づくころ、則房は再び姫路を訪れた。
今度は所領の境をめぐる相談であった。秀吉は官兵衛とともに証文を確かめ、村の年寄たちの話を聞くよう命じた。
その日の用件が済むと、則房は古い家に伝わる文書について話し始めた。
「赤松の家には、南北朝のころより伝わる書付が幾つかございます」
「ほう」
「戦乱の折に失われたものも多うございますが、先祖の事績を記したものなどは、今も残っております」
「それは見てみたいものじゃ」
「機会がございましたら、お目にかけましょう」
秀吉はうなずいた。
「わしの家には、そういうものがない。先祖が何をしたか、誰に仕えたか、さっぱりわからん」
則房は、返答に困ったようだった。
秀吉は笑った。
「なに、恥じておるわけではない。知らんものは知らんのじゃ。ただ、上総介殿のような家が、何を大事にしてきたのかは知りたい」
則房は少し考えてから、口を開いた。
「我らの祖、円心入道は、元弘のころ、後醍醐院の御方に立って兵を挙げました。播磨から摂津へ進み、六波羅の軍勢と戦うたのでございます」
「ほう。京まで攻め上ったのか」
「はい。のちには等持院殿に従い、播磨の白旗城に籠もって新田勢を防ぎました」
「その等持院殿というのは、どの将軍じゃったか」「足利尊氏公でございます」
「白旗城というのは、どの辺りにある城じゃ」
「播磨の西、赤松の地にございます。山上の険しい城で、攻め上る道も限られております」
「ほう。それで大軍を防いだのか」
「はい。円心入道はその地の利を用いて、新田勢を長く引き留めたと伝わっております」
秀吉は感心したようにうなずいた。
「それは、よい戦をしたものじゃ」
「されど、我らの先祖は、戦ばかりをしておったわけではございませぬ。円心の御子にも歌を好み、歌集に名を残す方がおられます。さらに、その一門にも歌を詠む者がおりました」
「ほう。赤松の御家には歌人もおったのか」
「はい。たとえば円心入道の孫に、信濃五郎直頼と呼ばれた者がおり、かような歌がございます」
則房は、ゆっくりと口ずさんだ。
「数ならぬ身は中々にうき事を、ならひになしてなげかずもがな」
秀吉は眉を寄せた。
「数ならぬ身、とは何じゃ」
「取るに足らぬ身、というほどの意味にございます」
「赤松の一門が、取るに足らぬ身とは、妙なことを申す」
則房は少し笑った。
「歌にございますれば、身の上をそのまま申すとは限りませぬ」
「なるほど。ならば、後の方はどうじゃ」
「憂きことを、いっそ習いとしてしまいたい。そうすれば、嘆かずに済むであろうに、と」
秀吉はもう一度、歌を口の中で繰り返した。
「憂きことを、習いにしてしまうか」
「はい」
「難儀なことを考えるものじゃな。わしなら、憂きことがあれば、何とかして片づけたい」
「それも、一つの生き方でございましょう」
則房は穏やかに答えた。
「されど、片づけようのない憂きこともございます」
秀吉は則房の顔を見た。
則房は茶碗を手に取った。
「赤松の家も、栄えたときばかりではございませぬ。将軍家に仕え、播磨を領したこともあれば、一族が滅びかけたこともございました。私が幼いころから聞かされてきた話も、勝ち戦ばかりではございません」
「そうじゃろうな」
秀吉はうなずいた。
「家が古ければ、その分、よいことも悪いことも多かろう」
則房は微笑んだ。
「まことに、そのとおりにございます」
秀吉は、先ほどの話を思い返した。
「ところで、円心入道は後醍醐院の御方に立ったと申したな。それが、のちには尊氏公に従うたのか」
「はい。後醍醐院と尊氏公が袂を分かたれてからは、足利方に属しました」
「ふむ。そうすると、後醍醐院はどうなされた」
「吉野へ移られ、そこに朝廷を置かれました」
「吉野か」
秀吉は顔を上げた。
「吉野といえば、桜じゃな」
「左様にございます」
「後醍醐院も、あの山の桜をご覧になったのじゃろうか」
「ご覧になったことはございましょう。ただ、吉野へ移られたのは、花を愛でるためではございませぬ」
「それはそうじゃろう」
秀吉は笑った。
「いや、吉野と聞いて思い出したのじゃが、佐々木道誉という武将がおったな。あれも、たいそう派手な花見をしたと聞いたことがある。後醍醐院のころではなかったか」
「同じ時代の人ではございますが、道誉入道は足利方に属した武将にございます」
「そうであったか。後醍醐院の御方ではなかったのじゃな」
「はい」
「わしは、あのころの話がどうにも入り組んでおって苦手じゃ。誰がどちらに味方し、いつ敵になったのか、聞くたびに頭がこんがらがる」
「実際、幾度も味方を変えた者がおりましたので」
「なるほど。それで、道誉は吉野で花見をしたのか」
「いえ。大原野にございます」
「大原野か」
「京の西にございます。たいそう豪奢な花見を催したと伝わっております」
「そうじゃったか。吉野ではなかったか」
秀吉は膝を打った。
「まあ、よい。吉野の花は見事と聞く。わしも一度、山いっぱいの桜を見てみたい」
則房は微笑んだ。
「吉野の花は、まことに見事にございます」
「見たことがあるのか」
「若いころ、一度だけ」
「どうじゃった」
「山の上も、谷の向こうも、花に埋もれておりました」
秀吉は目を輝かせた。
「それは見たいのう。いつか皆を集めて、花見をしたいものじゃ」
「その折には、筑前殿も一首お詠みにならねばなりませぬな」
秀吉は顔をしかめた。
「それが一番難儀じゃ」
その後も話は続き、則房は古い歌を幾つか引いた。
秀吉は耳をそばだてた。
「上総介殿は、歌にもお詳しいのか」
「詳しいというほどではございませぬ。家に伝わるものを読み、折に触れて古歌を覚えただけにございます」
「わしも歌を習うておる」
則房は意外そうに顔を上げた。
「それは存じませなんだ」
「京に師匠がおってな。宗順という者じゃ。口が悪くて、わしの歌を見るたびに、ここがいかん、あそこがいかんと申す」
則房は笑った。
「厳しい師でございますな」
「まったくじゃ。わしも忙しい身でな。戦をし、城を築き、年貢を調べ、その合間に歌を詠んでおるというのに、少しは褒めてくれてもよかろう」
「それほど熱心にお学びであれば、いずれよいお歌をお詠みになりましょう」
「そう思うか」
「はい」
「ならば、今度見てくだされ」
則房はうなずいた。
「私でよろしければ」
それから何度か、則房は姫路を訪れた。
所領の相談もあれば、軍役の話もあった。播磨の国衆の動向について、秀吉が意見を求めることもあった。
秀吉は、いつしか則房を「置塩殿」と呼ぶようになった。
ある日、秀吉は三首の歌を書いた紙を持ってきた。
則房は一首ずつ読んだ。
「筑前殿」
「うむ」
「この歌は、何をご覧になってお詠みになりましたか」
「雪の山じゃ」
「それはわかります」
「ならば、よかろう」
「いえ。雪の白さと、冬の寒さと、雲の色と、すべてをお詠みになっておりますので」
「見えたものを詠んだのじゃ」
「それでは、少々忙しゅうございます」
秀吉は眉を寄せた。
「忙しいのは、わしの方じゃ」
則房は笑いをこらえた。
「歌は、見たものをすべて言い尽くす必要はございませぬ」
「宗順も同じことを申す」
「よい師でございましょう」
「二人して同じことを言うなら、わしの方が間違うておるのかもしれんな」
則房は紙の端に、いくつか言葉を書き添えた。
秀吉はそれを熱心に眺めた。
「置塩殿。先日、赤松の御先祖の歌をお聞かせくだされたな」
「はい」
秀吉は、直頼の歌を一字も違えず諳んじた。
則房は目を見開いた。
「よくお覚えでございましたな」
「おぬしが言うたではないか」
「一度しか申し上げておりませぬ」
「そうじゃったか」
秀吉は不思議そうな顔をした。
「よい歌だと思うたから、覚えておっただけじゃ」
則房は、しばらく秀吉を見た。
「筑前殿は、たいそう耳のよいお方にございますな」
「耳はよい。だが、歌はうまくならん」
「覚えることと、詠むことは、また別のことでございましょう」
「そうじゃな」
秀吉は、添削された紙を懐へ収めた。
*
天正六年、播磨の情勢は急変した。
三木城の別所小三郎長治が織田方を離れ、毛利方に通じたのである。
秀吉は三木城を囲むため、周辺の城や砦を押さえ、兵糧の道を断つ策を進めた。だが、播磨の国衆は必ずしも一枚岩ではない。別所に従う者もあれば、毛利の動きを見ている者もいた。
ある日の軍議で、官兵衛が地図を広げた。
「この道を押さえれば、三木へ入る兵糧を大きく減らせます」
秀吉は地図を見た。
「その道は、去年の秋、橋が壊れたところではないか」
「修復は済んでおります」
「人夫は足りるか」
「村々から出せます」
「よし。ただし、田植えの時期には無理をさせるな。米を取るために百姓を働かせておるのに、その百姓を潰しては何にもならん」
弟の小一郎がうなずいた。
「そのあたりは、わしも見ておこう」
半兵衛は地図の別の場所を指した。
「こちらの谷道も、敵が使うかもしれませぬ」
「そこは権兵衛たちに見張らせよう」
秀吉が言うと、小一郎は書付に名を加えた。仙石権兵衛、杉原七郎左衛門、前野将右衛門、尾藤甚右衛門らが、それぞれの持ち場に配されていった。
軍議が終わると、秀吉は半兵衛を呼び止めた。
「半兵衛」
「はい」
「官兵衛は、よう働くな」
「左様にございます」
「播磨の道も、城も、国衆の顔も、よく知っておる。あやつがおらねば、わしらはずいぶん苦労したじゃろう」
「はい」
「だが、あやつは小寺の家臣じゃ」
半兵衛は秀吉を見た。
「左様にございます」
「小寺の家がどう動くか、まだわからん。官兵衛自身は織田に心を寄せておるようじゃが、家の縁というものは厄介じゃ」
半兵衛は静かに答えた。
「それでも、官兵衛殿は信じるに足るお方と存じます」
「おぬしは、そう思うか」
「はい」
秀吉はうなずいた。
「わしも、そう思いたい」
その年の秋、摂津の荒木摂津守村重が信長に背き、有岡城に籠もって織田方に反旗を翻した。
摂津が乱れれば、播磨の秀吉軍は東からの補給を脅かされる。
秀吉は、報せを聞いたあと、しばらく黙った。
「摂津守殿が、か」
傍らにいた小一郎がうなずいた。
「間違いないそうじゃ」
「そうか」
秀吉は、以前に荒木村重と会ったときのことを思い返した。
摂津の情勢について話した折、村重は国衆の扱いが難しいとこぼしていた。信長の命を受けて兵を動かすことにも、いくらか不満を漏らしていた。
あのときは、誰もが口にする愚痴だと思った。
「小一郎」
「なんじゃ」
「摂津守殿は、以前、摂津の国衆どもは言うことを聞かんと申しておったな」
「そうじゃったか」
「言うておった。あのとき、上様の御命令についても、何やら申しておった」
「覚えておらん」
「わしは覚えておる」
秀吉は腕を組んだ。
「そのころから、何か考えておったのかもしれんな」
小一郎は答えなかった。
「いや、わからん。今になって思えば、そう聞こえるだけかもしれん」
秀吉は立ち上がった。
「摂津へ通じる道を、もう一度調べよ。摂津守殿と縁の深い者が、播磨にもおるはずじゃ」
官兵衛は、摂津守を説得するため有岡城へ向かった。
出立の前、秀吉は官兵衛に言った。
「無理をするな。話がまとまらねば、戻ってこい」
「承知しております」
「摂津守殿は、追い詰められておる。何をするかわからんぞ」
「心得ております」
官兵衛は深く頭を下げた。
「必ず戻ります」
しかし、官兵衛は戻らなかった。
十日が過ぎ、二十日が過ぎた。
有岡城からは、官兵衛が摂津守に与したのではないかという噂が届いた。
秀吉は、初めのうちはその噂を退けた。
「官兵衛が寝返るものか。あやつが何のために、ここまで働いてきたと思うておる」
だが、日が経つにつれて、疑いは消えなくなった。
官兵衛は小寺家の家臣である。播磨の国衆とも縁が深い。摂津守とも面識がないわけではない。
何より、官兵衛から何の知らせもない。
秀吉は、官兵衛がこれまでに提出した書付を、もう一度持ってこさせた。
播磨の国衆の名、所領、縁戚関係、軍役の分担。官兵衛の筆で記されたものを、一つずつ確かめていった。
「この男は、官兵衛が姫路で会うておった者じゃな」
秀吉が名を指すと、小一郎がうなずいた。
「そうじゃ」
「去年の冬、官兵衛が紹介した。小寺の家とは古い縁があると申しておった」
「うむ」
「その男の妻の実家は、どこじゃ」
小一郎は書付を探した。
「摂津の方ではなかったか」
「そうじゃ。摂津じゃ。摂津守殿の家臣とも縁があったはずじゃ」
秀吉は紙を机に置いた。
「調べよ」
小一郎が顔を上げた。
「兄者」
「何じゃ」
「その男まで疑うのか」
「疑わずにおれるか」
小一郎は黙った。
秀吉は続けた。
「官兵衛が裏切ったのなら、あやつの紹介でこちらに近づいた者も、調べねばならん。あやつが勧めた軍勢の配置も、道のことも、すべてじゃ」
「官兵衛が裏切ったと決まったわけではない」
「だから調べるのじゃ」
秀吉は声を強めた。
「裏切ってからでは遅い。兵糧の道を断たれ、味方の城が敵に回ってからでは、何もかも手遅れじゃ」
小一郎はしばらく兄を見ていた。
「わかった。調べよう」
数日後、官兵衛の配下の一人が報告に来た。秀吉はその男の顔を見ると、すぐに言った。
「おぬし、春には姫路へ帰りたいと申しておったな。母御が病じゃとか」
男は驚いて頭を下げた。
「はい。よくお覚えで」
「母御はどうじゃ」
「おかげさまで、少し持ち直しました」
「それはよかった」
秀吉は笑った。
「ところで、おぬしの兄は、今どこにおる」
男は顔を上げた。
「兄、でございますか」
「摂津におると申しておったな」
「はい。有岡の近くにおります」
「摂津守殿の家中に、知り合いはおるか」
男の顔色が変わった。
「いえ、そのような」
「おらんのか」
「兄には、商いの付き合いがございますが、私は詳しく存じませぬ」
秀吉はうなずいた。
「そうか」
しばらく沈黙があった。
「何かわかったら、知らせよ」
「はっ」
男が退出すると、秀吉は傍らの者に命じた。
「あの男の兄を調べよ。誰と会うておるか、どこへ出入りしておるか、わかるだけでよい」
その夜、秀吉は半兵衛を呼んだ。
「半兵衛」
「はい」
「官兵衛は、本当に裏切っておらんと思うか」
半兵衛は、すぐに答えた。
「思いませぬ」
「なぜじゃ」
「官兵衛殿は、そのようなお方ではございませぬ」
「それは、おぬしの見立てじゃ」
「左様にございます」
「証はあるか」
「ございませぬ」
秀吉は黙った。
半兵衛は続けた。
「されど、官兵衛殿が摂津守に与するなら、あのように一人で城へ入る必要はございませぬ。もっと早く、もっと安全に寝返る道があったはずにございます」
「それは、わしも考えた」
秀吉は机の上の書付を指した。
「だが、あやつが初めから摂津守と通じておったなら、どうじゃ。説得に行くというのも、芝居かもしれん」
「それなら、播磨であれほど働く必要がございましょうか」
「働いたからこそ、わしらは信じたのではないか」
半兵衛は黙った。
秀吉は続けた。
「おぬしは官兵衛の何を知っておる。あやつが姫路で誰と会うておったか、誰から文を受け取っておったか、すべて知っておるのか」
「存じませぬ」
「ならば、信じるとは何じゃ。知らんところを、勝手に信じて埋めておるだけではないか」
半兵衛は、しばらく考えた。
「殿のお疑いは、もっともにございます」
「そうじゃろう」
「されど、疑おうと思えば、誰のことでも疑えます」
秀吉は眉を寄せた。
「何じゃと」
「官兵衛殿が摂津守と通じておったと考えれば、これまでの働きも、すべて裏切りの支度に見えましょう。反対に、官兵衛殿が捕らえられておると考えれば、知らせのないことにも説明がつきます」
「だから、どちらが本当かわからんのじゃ」
「はい」
「ならば、どうする」
半兵衛は静かに答えた。
「私は、官兵衛殿を信じます」
秀吉は半兵衛を見つめた。
「おぬしは、まことに頑固じゃな」
「筑前様ほどではございませぬ」
いつもなら笑うところだったが、秀吉は笑わなかった。
数日後、信長から厳命が届いた。
官兵衛が裏切ったのであれば、その子の松寿丸を処刑せよという。
秀吉は、その書状を何度も読んだ。
「半兵衛」
「はい」
「上様は、官兵衛を摂津守に与したと見ておられる」
半兵衛は黙っていた。
「ゆえに、松寿丸を殺せと仰せじゃ」
「はい」
「どうする」
半兵衛は、しばらく考えた。
「筑前様。官兵衛殿が裏切ったという証は、まだございませぬ」
「上様の御下命じゃ」
「承知しております」
「承知しておるなら、どうする」
半兵衛は顔を上げた。
「松寿丸殿は、私がお預かりいたします」
秀吉は眉を寄せた。
「何を申す」
「官兵衛殿の潔白が明らかになるまで、私が身を預かります」
「上様の命に背くつもりか」
「はい」
秀吉は半兵衛を見つめた。
「おぬし、自分が何を言うておるかわかっておるのか」
「わかっております」
「わしも疑われよう」
「その折には、私一人のしたこととお申し上げください」
「馬鹿者!」
秀吉が怒鳴りつけると、半兵衛は静かに頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「謝れば済む話ではない!」
秀吉は部屋を歩き回った。
「官兵衛が裏切っておらんと、どうして言い切れる。おぬしは、あやつの腹の内まで見えるのか」
「見えませぬ」
「ならば、なぜじゃ」
半兵衛は静かに答えた。
「官兵衛殿を信じておりますゆえ」
秀吉は足を止めた。
「それだけか」
「はい」
長い沈黙があった。
秀吉は机の上の書状を見た。
「……おぬしが、勝手にするのじゃな」
半兵衛は頭を下げた。
「はい」
「わしは命じとらん」
「無論にございます」
「もし官兵衛がまことに裏切っておったら、何とする」
「そのときは、私が責めを負います」
秀吉は、しばらく半兵衛を見ていた。
「……勝手にせい」
半兵衛は頭を下げた。
「ありがたく存じます」
「礼など言うな。わしは何も知らん」
「承知いたしました」
半兵衛が退出すると、秀吉は書状を机の上に置いた。
信長の命令に背くことが、どれほど危ういかは知っていた。半兵衛も、それを知らぬはずがない。
それでも、あの男は譲らなかった。
秀吉は、半兵衛が出ていった戸口を見た。
やがて、机の上の書状を取り上げ、もう一度読み返した。松寿丸の名があるところで、指が止まった。
半兵衛を呼び戻そうかと思った。
あの男がまだ廊下にいるなら、今からでも命じられる。上様の御命令に従え、と一言言えばよい。
秀吉は戸口へ目をやった。
廊下の向こうで半兵衛の咳が聞こえた。足音が遠ざかっていった。
秀吉は書状を畳んだ。
「……ええい、糞っ」
誰もいない部屋で吐き捨て、灯明の芯を少し引き出した。
その夜は、まだ読むべき書付が山ほど残っていた。




