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秀吉、歌を学ぶ  作者: 灰神楽ねこ


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3/11

憂きことを習いに

天正五年十月、羽柴筑前守秀吉は播磨国姫路に入った。


中国方面の攻略を命じられた秀吉にとって、播磨は西国へ進むための足場であった。しかし、この国には一人の大名が統べる秩序というものがなかった。

別所、小寺、赤松をはじめとする国衆が、それぞれ城と所領を持ち、東の織田と西の毛利の間で去就を定めかねていた。


姫路城では、朝から人の出入りが絶えなかった。

城代の小寺官兵衛は、訪れる国衆《くにしゅう》の名と所領を書き連ねた紙を持ち、秀吉の前に座っていた。秀吉はその紙を一通り眺めると、脇へ置いた。

「それで、昨日の男はどうなった」

「昨日の男、と申されますと」

「昼過ぎに来た、背の高い男じゃ。左の頬に疵があった。弟が二人おると言うておった」


官兵衛は書付を繰った。

「それは、飾東郡《しきとうぐん》の――」

「そうじゃ、あの男じゃ。用水のことで訴えがあると申しておった」

「はい。堰をめぐる争いがあるとのことにございます」

「去年の夏も水が足りず、今年も揉めておるとな」

官兵衛は顔を上げた。

「よくお覚えでございますな」

「昨日聞いたばかりではないか。もっとも、大勢来たからのう。何人じゃった」

「二十七人にございます」

「そんなにおったか」

秀吉は笑った。

「あとであの男を呼べ。弟の一人が病をしておるとも言うておった。見舞いの品でも持たせてやれ」


官兵衛は返事をしながら、内心では少し驚いていた。

この男は、初めて会う国衆の家筋を取り違えることがある。官位も、古い由緒も、聞き返さなければわからない。

ところが、一度耳にした人間の話は、奇妙なほどよく覚えている。

しかも、覚えているのは名や顔ばかりではなかった。

前日に報告された兵糧の量、船を出せる港、雨が降るとぬかるむ街道、荷駄を渡せない橋。そうしたことを、書付も見ずに言い当てる。


官兵衛が新しい報告を始めると、秀吉は途中で遮った。

「その道は、先月の雨で橋が落ちたのではなかったか」

「修復いたしました」

「いつじゃ」

「十日ほど前にございます」

「人夫はどこから出した」

「近くの村々から」

「賃は払うたか」

「はい」

「ならばよい。これから軍勢が通る。勝手に田を踏み荒らす者が出ぬよう、村の者に伝えておけ」


傍らで聞いていた竹中半兵衛が、口を開いた。

「村の者に伝えるだけでは足りますまい。軍勢の側にも、あらかじめ申し渡しておくべきかと」

「そうじゃな。小一郎に言うておこう」

秀吉は半兵衛を見た。

「おぬし、昨夜はひどく咳をしておったそうじゃな」

「少々、冷えましたので」

「冷えたなら火を焚け。薪が足りぬのか」

「足りております」

半兵衛は笑った。

「薪一本で命が助かるなら、安いものでございますな」

「そうじゃ。おぬしは食う量こそ少ないが、注文も多い、高くつく軍師じゃからな」

「筑前様ほどではございませぬ」


官兵衛は、二人のやり取りを横で聞いていた。

半兵衛は、秀吉の言葉を必要以上に恐れない。秀吉もまた、半兵衛に対して遠慮がない。長い間、ともに戦場を歩いてきた者同士の話し方であった。


その日の午後、赤松上総介則房《あかまつかずさのすけのりふさ》が姫路を訪れた。

置塩城《おじおじょう》を本拠とする則房は、播磨の名族赤松氏の一門である。細面で、言葉遣いは穏やかだったが、答えを急がず、容易に本心を明かさないところがあった。

秀吉は則房を丁重に迎えた。

「上総介殿、ようお越しくだされた」

「筑前殿には、遠路お働きのことと存じます」

「なに、播磨はよい国じゃ。海もあり、山もあり、米も取れる。これで戦がなければ申し分ない」

則房はわずかに笑った。

「戦のない世であれば、我らもありがたく存じます」

「そのために参った、と申し上げたいところじゃが、わしも兵を連れて来ておる。そこは嘘をつけん」

則房は秀吉の顔を見た。

秀吉は続けた。

「ただ、わしは播磨の城を片端から攻め落としたいわけではない。上総介殿にも、できればお力を借りたいと思うておる」

則房は、すぐには答えなかった。

「……播磨の者には、それぞれ古くからの縁がございます。織田家に従うと申しましても、昨日までの縁を一日で断つことはできませぬ」

「もっともじゃ」

「その点を、お汲み取りいただければ」

「承知した。こちらも上総介殿に、今日明日で何もかも決めよとは申さん」


話は置塩周辺の所領や街道、寺社の権益へ移った。

則房がある村の名を挙げると、秀吉は官兵衛に尋ねた。

「その村は、先日、年貢のことで訴えに来た者がおったところではないか」

官兵衛は書付を確かめた。

「左様にございます」

「寺へ納める分と、領主へ納める分が重なっておると申しておったな」

則房は驚いたように顔を上げた。

「その件をご存じでございましたか」

「三日前に聞いた。あの村の庄屋は、去年の秋にも同じことで揉めたと言うておったぞ」

「まことに、そのとおりにございます」

「ならば、双方の証文を見よう。百年前の証文でも構わんが、今の百姓が何を納めておるかも確かめねばならん」

則房は深くうなずいた。

「ありがたきお言葉にございます」

秀吉は笑った。

「まだ何も解決しておらん。礼は、話が片づいてからにしてくだされ」


則房が帰ったあと、官兵衛は言った。

「上総介殿は、なかなか容易ならぬお方にございます」

「うむ。腹の内を簡単には見せぬ」

「こちらの様子を、よく見ておられました」

「わしも見ておった」

秀吉は茶を飲んだ。

「よい衣を着ておったな。だが、袖口は少し擦れておった。家は古いが、暮らしは楽ではないのじゃろう」

半兵衛がうなずいた。

「赤松の御家も、往時の勢いはございませぬ」

「そうじゃろうな。家を守るためにずいぶん苦労しておられると見た」

秀吉は立ち上がった。

「またお会いしよう。次は、もう少し腹を割って話してくださるかもしれん」


*


冬が近づくころ、則房は再び姫路を訪れた。

今度は所領の境をめぐる相談であった。秀吉は官兵衛とともに証文を確かめ、村の年寄たちの話を聞くよう命じた。


その日の用件が済むと、則房は古い家に伝わる文書について話し始めた。

「赤松の家には、南北朝のころより伝わる書付が幾つかございます」

「ほう」

「戦乱の折に失われたものも多うございますが、先祖の事績を記したものなどは、今も残っております」

「それは見てみたいものじゃ」

「機会がございましたら、お目にかけましょう」

秀吉はうなずいた。

「わしの家には、そういうものがない。先祖が何をしたか、誰に仕えたか、さっぱりわからん」


則房は、返答に困ったようだった。

秀吉は笑った。

「なに、恥じておるわけではない。知らんものは知らんのじゃ。ただ、上総介殿のような家が、何を大事にしてきたのかは知りたい」

則房は少し考えてから、口を開いた。

「我らの祖、円心《えんしん》入道は、元弘《げんこう》のころ、後醍醐院の御方に立って兵を挙げました。播磨から摂津へ進み、六波羅の軍勢と戦うたのでございます」

「ほう。京まで攻め上ったのか」

「はい。のちには等持院殿《とうじいんどの》に従い、播磨の白旗城《しろはたじょう》に籠もって新田勢を防ぎました」

「その等持院殿というのは、どの将軍じゃったか」「足利尊氏公でございます」

「白旗城というのは、どの辺りにある城じゃ」

「播磨の西、赤松の地にございます。山上の険しい城で、攻め上る道も限られております」

「ほう。それで大軍を防いだのか」

「はい。円心入道はその地の利を用いて、新田勢を長く引き留めたと伝わっております」

秀吉は感心したようにうなずいた。

「それは、よい戦をしたものじゃ」

「されど、我らの先祖は、戦ばかりをしておったわけではございませぬ。円心の御子にも歌を好み、歌集に名を残す方がおられます。さらに、その一門にも歌を詠む者がおりました」

「ほう。赤松の御家には歌人もおったのか」

「はい。たとえば円心入道の孫に、信濃五郎直頼と呼ばれた者がおり、かような歌がございます」

則房は、ゆっくりと口ずさんだ。


「数ならぬ身は中々にうき事を、ならひになしてなげかずもがな」


秀吉は眉を寄せた。

「数ならぬ身、とは何じゃ」

「取るに足らぬ身、というほどの意味にございます」

「赤松の一門が、取るに足らぬ身とは、妙なことを申す」

則房は少し笑った。

「歌にございますれば、身の上をそのまま申すとは限りませぬ」

「なるほど。ならば、後の方はどうじゃ」

「憂きことを、いっそ習いとしてしまいたい。そうすれば、嘆かずに済むであろうに、と」


秀吉はもう一度、歌を口の中で繰り返した。


「憂きことを、習いにしてしまうか」

「はい」

「難儀なことを考えるものじゃな。わしなら、憂きことがあれば、何とかして片づけたい」

「それも、一つの生き方でございましょう」

則房は穏やかに答えた。

「されど、片づけようのない憂きこともございます」

秀吉は則房の顔を見た。

則房は茶碗を手に取った。

「赤松の家も、栄えたときばかりではございませぬ。将軍家に仕え、播磨を領したこともあれば、一族が滅びかけたこともございました。私が幼いころから聞かされてきた話も、勝ち戦ばかりではございません」

「そうじゃろうな」

秀吉はうなずいた。

「家が古ければ、その分、よいことも悪いことも多かろう」

則房は微笑んだ。

「まことに、そのとおりにございます」


秀吉は、先ほどの話を思い返した。

「ところで、円心入道は後醍醐院の御方に立ったと申したな。それが、のちには尊氏公に従うたのか」

「はい。後醍醐院と尊氏公が袂を分かたれてからは、足利方に属しました」

「ふむ。そうすると、後醍醐院はどうなされた」

「吉野へ移られ、そこに朝廷を置かれました」

「吉野か」

秀吉は顔を上げた。

「吉野といえば、桜じゃな」

「左様にございます」

「後醍醐院も、あの山の桜をご覧になったのじゃろうか」

「ご覧になったことはございましょう。ただ、吉野へ移られたのは、花を愛でるためではございませぬ」

「それはそうじゃろう」

秀吉は笑った。

「いや、吉野と聞いて思い出したのじゃが、佐々木道誉という武将がおったな。あれも、たいそう派手な花見をしたと聞いたことがある。後醍醐院のころではなかったか」

「同じ時代の人ではございますが、道誉入道は足利方に属した武将にございます」

「そうであったか。後醍醐院の御方ではなかったのじゃな」

「はい」

「わしは、あのころの話がどうにも入り組んでおって苦手じゃ。誰がどちらに味方し、いつ敵になったのか、聞くたびに頭がこんがらがる」

「実際、幾度も味方を変えた者がおりましたので」

「なるほど。それで、道誉は吉野で花見をしたのか」

「いえ。大原野にございます」

「大原野か」

「京の西にございます。たいそう豪奢な花見を催したと伝わっております」

「そうじゃったか。吉野ではなかったか」

秀吉は膝を打った。

「まあ、よい。吉野の花は見事と聞く。わしも一度、山いっぱいの桜を見てみたい」

則房は微笑んだ。

「吉野の花は、まことに見事にございます」

「見たことがあるのか」

「若いころ、一度だけ」

「どうじゃった」

「山の上も、谷の向こうも、花に埋もれておりました」

秀吉は目を輝かせた。

「それは見たいのう。いつか皆を集めて、花見をしたいものじゃ」

「その折には、筑前殿も一首お詠みにならねばなりませぬな」

秀吉は顔をしかめた。

「それが一番難儀じゃ」


その後も話は続き、則房は古い歌を幾つか引いた。

秀吉は耳をそばだてた。

「上総介殿は、歌にもお詳しいのか」

「詳しいというほどではございませぬ。家に伝わるものを読み、折に触れて古歌を覚えただけにございます」

「わしも歌を習うておる」

則房は意外そうに顔を上げた。

「それは存じませなんだ」

「京に師匠がおってな。宗順という者じゃ。口が悪くて、わしの歌を見るたびに、ここがいかん、あそこがいかんと申す」

則房は笑った。

「厳しい師でございますな」

「まったくじゃ。わしも忙しい身でな。戦をし、城を築き、年貢を調べ、その合間に歌を詠んでおるというのに、少しは褒めてくれてもよかろう」

「それほど熱心にお学びであれば、いずれよいお歌をお詠みになりましょう」

「そう思うか」

「はい」

「ならば、今度見てくだされ」

則房はうなずいた。

「私でよろしければ」



それから何度か、則房は姫路を訪れた。

所領の相談もあれば、軍役の話もあった。播磨の国衆の動向について、秀吉が意見を求めることもあった。

秀吉は、いつしか則房を「置塩殿《おじおどの》」と呼ぶようになった。



ある日、秀吉は三首の歌を書いた紙を持ってきた。

則房は一首ずつ読んだ。

「筑前殿」

「うむ」

「この歌は、何をご覧になってお詠みになりましたか」

「雪の山じゃ」

「それはわかります」

「ならば、よかろう」

「いえ。雪の白さと、冬の寒さと、雲の色と、すべてをお詠みになっておりますので」

「見えたものを詠んだのじゃ」

「それでは、少々忙しゅうございます」

秀吉は眉を寄せた。

「忙しいのは、わしの方じゃ」

則房は笑いをこらえた。

「歌は、見たものをすべて言い尽くす必要はございませぬ」

「宗順も同じことを申す」

「よい師でございましょう」

「二人して同じことを言うなら、わしの方が間違うておるのかもしれんな」


則房は紙の端に、いくつか言葉を書き添えた。

秀吉はそれを熱心に眺めた。


「置塩殿。先日、赤松の御先祖の歌をお聞かせくだされたな」

「はい」

秀吉は、直頼の歌を一字も違えず諳んじた。

則房は目を見開いた。

「よくお覚えでございましたな」

「おぬしが言うたではないか」

「一度しか申し上げておりませぬ」

「そうじゃったか」

秀吉は不思議そうな顔をした。

「よい歌だと思うたから、覚えておっただけじゃ」

則房は、しばらく秀吉を見た。

「筑前殿は、たいそう耳のよいお方にございますな」

「耳はよい。だが、歌はうまくならん」

「覚えることと、詠むことは、また別のことでございましょう」

「そうじゃな」

秀吉は、添削された紙を懐へ収めた。


*


天正六年、播磨の情勢は急変した。

三木城《みきじょう》の別所小三郎長治が織田方を離れ、毛利方に通じたのである。

秀吉は三木城を囲むため、周辺の城や砦を押さえ、兵糧の道を断つ策を進めた。だが、播磨の国衆は必ずしも一枚岩ではない。別所に従う者もあれば、毛利の動きを見ている者もいた。


ある日の軍議で、官兵衛が地図を広げた。

「この道を押さえれば、三木へ入る兵糧を大きく減らせます」

秀吉は地図を見た。

「その道は、去年の秋、橋が壊れたところではないか」

「修復は済んでおります」

「人夫は足りるか」

「村々から出せます」

「よし。ただし、田植えの時期には無理をさせるな。米を取るために百姓を働かせておるのに、その百姓を潰しては何にもならん」

弟の小一郎がうなずいた。

「そのあたりは、わしも見ておこう」


半兵衛は地図の別の場所を指した。

「こちらの谷道も、敵が使うかもしれませぬ」

「そこは権兵衛《ゴンベ》たちに見張らせよう」

秀吉が言うと、小一郎は書付に名を加えた。仙石権兵衛、杉原七郎左衛門、前野将右衛門、尾藤甚右衛門らが、それぞれの持ち場に配されていった。


軍議が終わると、秀吉は半兵衛を呼び止めた。

「半兵衛」

「はい」

「官兵衛は、よう働くな」

「左様にございます」

「播磨の道も、城も、国衆の顔も、よく知っておる。あやつがおらねば、わしらはずいぶん苦労したじゃろう」

「はい」

「だが、あやつは小寺の家臣じゃ」

半兵衛は秀吉を見た。

「左様にございます」

「小寺の家がどう動くか、まだわからん。官兵衛自身は織田に心を寄せておるようじゃが、家の縁というものは厄介じゃ」

半兵衛は静かに答えた。

「それでも、官兵衛殿は信じるに足るお方と存じます」

「おぬしは、そう思うか」

「はい」

秀吉はうなずいた。

「わしも、そう思いたい」



その年の秋、摂津の荒木摂津守村重が信長に背き、有岡城《ありおかじょう》に籠もって織田方に反旗を翻した。

摂津が乱れれば、播磨の秀吉軍は東からの補給を脅かされる。

秀吉は、報せを聞いたあと、しばらく黙った。

「摂津守殿が、か」

傍らにいた小一郎がうなずいた。

「間違いないそうじゃ」

「そうか」


秀吉は、以前に荒木村重と会ったときのことを思い返した。

摂津の情勢について話した折、村重は国衆の扱いが難しいとこぼしていた。信長の命を受けて兵を動かすことにも、いくらか不満を漏らしていた。

あのときは、誰もが口にする愚痴だと思った。


「小一郎」

「なんじゃ」

「摂津守殿は、以前、摂津の国衆どもは言うことを聞かんと申しておったな」

「そうじゃったか」

「言うておった。あのとき、上様の御命令についても、何やら申しておった」

「覚えておらん」

「わしは覚えておる」

秀吉は腕を組んだ。

「そのころから、何か考えておったのかもしれんな」

小一郎は答えなかった。

「いや、わからん。今になって思えば、そう聞こえるだけかもしれん」

秀吉は立ち上がった。

「摂津へ通じる道を、もう一度調べよ。摂津守殿と縁の深い者が、播磨にもおるはずじゃ」


官兵衛は、摂津守を説得するため有岡城へ向かった。

出立の前、秀吉は官兵衛に言った。

「無理をするな。話がまとまらねば、戻ってこい」

「承知しております」

「摂津守殿は、追い詰められておる。何をするかわからんぞ」

「心得ております」

官兵衛は深く頭を下げた。

「必ず戻ります」


しかし、官兵衛は戻らなかった。


十日が過ぎ、二十日が過ぎた。


有岡城からは、官兵衛が摂津守に与したのではないかという噂が届いた。


秀吉は、初めのうちはその噂を退けた。

「官兵衛が寝返るものか。あやつが何のために、ここまで働いてきたと思うておる」


だが、日が経つにつれて、疑いは消えなくなった。

官兵衛は小寺家の家臣である。播磨の国衆とも縁が深い。摂津守とも面識がないわけではない。

何より、官兵衛から何の知らせもない。


秀吉は、官兵衛がこれまでに提出した書付を、もう一度持ってこさせた。

播磨の国衆の名、所領、縁戚関係、軍役の分担。官兵衛の筆で記されたものを、一つずつ確かめていった。

「この男は、官兵衛が姫路で会うておった者じゃな」

秀吉が名を指すと、小一郎がうなずいた。

「そうじゃ」

「去年の冬、官兵衛が紹介した。小寺の家とは古い縁があると申しておった」

「うむ」

「その男の妻の実家は、どこじゃ」

小一郎は書付を探した。

「摂津の方ではなかったか」

「そうじゃ。摂津じゃ。摂津守殿の家臣とも縁があったはずじゃ」

秀吉は紙を机に置いた。

「調べよ」


小一郎が顔を上げた。

「兄者」

「何じゃ」

「その男まで疑うのか」

「疑わずにおれるか」

小一郎は黙った。

秀吉は続けた。

「官兵衛が裏切ったのなら、あやつの紹介でこちらに近づいた者も、調べねばならん。あやつが勧めた軍勢の配置も、道のことも、すべてじゃ」

「官兵衛が裏切ったと決まったわけではない」

「だから調べるのじゃ」

秀吉は声を強めた。

「裏切ってからでは遅い。兵糧の道を断たれ、味方の城が敵に回ってからでは、何もかも手遅れじゃ」

小一郎はしばらく兄を見ていた。

「わかった。調べよう」


数日後、官兵衛の配下の一人が報告に来た。秀吉はその男の顔を見ると、すぐに言った。

「おぬし、春には姫路へ帰りたいと申しておったな。母御が病じゃとか」

男は驚いて頭を下げた。

「はい。よくお覚えで」

「母御はどうじゃ」

「おかげさまで、少し持ち直しました」

「それはよかった」

秀吉は笑った。

「ところで、おぬしの兄は、今どこにおる」

男は顔を上げた。

「兄、でございますか」

「摂津におると申しておったな」

「はい。有岡の近くにおります」

「摂津守殿の家中に、知り合いはおるか」

男の顔色が変わった。

「いえ、そのような」

「おらんのか」

「兄には、商いの付き合いがございますが、私は詳しく存じませぬ」

秀吉はうなずいた。

「そうか」

しばらく沈黙があった。

「何かわかったら、知らせよ」

「はっ」


男が退出すると、秀吉は傍らの者に命じた。

「あの男の兄を調べよ。誰と会うておるか、どこへ出入りしておるか、わかるだけでよい」


その夜、秀吉は半兵衛を呼んだ。

「半兵衛」

「はい」

「官兵衛は、本当に裏切っておらんと思うか」

半兵衛は、すぐに答えた。

「思いませぬ」

「なぜじゃ」

「官兵衛殿は、そのようなお方ではございませぬ」

「それは、おぬしの見立てじゃ」

「左様にございます」

「証はあるか」

「ございませぬ」

秀吉は黙った。

半兵衛は続けた。

「されど、官兵衛殿が摂津守に与するなら、あのように一人で城へ入る必要はございませぬ。もっと早く、もっと安全に寝返る道があったはずにございます」

「それは、わしも考えた」

秀吉は机の上の書付を指した。

「だが、あやつが初めから摂津守と通じておったなら、どうじゃ。説得に行くというのも、芝居かもしれん」

「それなら、播磨であれほど働く必要がございましょうか」

「働いたからこそ、わしらは信じたのではないか」

半兵衛は黙った。

秀吉は続けた。

「おぬしは官兵衛の何を知っておる。あやつが姫路で誰と会うておったか、誰から文を受け取っておったか、すべて知っておるのか」

「存じませぬ」

「ならば、信じるとは何じゃ。知らんところを、勝手に信じて埋めておるだけではないか」

半兵衛は、しばらく考えた。

「殿のお疑いは、もっともにございます」

「そうじゃろう」

「されど、疑おうと思えば、誰のことでも疑えます」

秀吉は眉を寄せた。

「何じゃと」

「官兵衛殿が摂津守と通じておったと考えれば、これまでの働きも、すべて裏切りの支度に見えましょう。反対に、官兵衛殿が捕らえられておると考えれば、知らせのないことにも説明がつきます」

「だから、どちらが本当かわからんのじゃ」

「はい」

「ならば、どうする」

半兵衛は静かに答えた。

「私は、官兵衛殿を信じます」


秀吉は半兵衛を見つめた。

「おぬしは、まことに頑固じゃな」

「筑前様ほどではございませぬ」

いつもなら笑うところだったが、秀吉は笑わなかった。



数日後、信長から厳命が届いた。

官兵衛が裏切ったのであれば、その子の松寿丸《しょうじゅまる》を処刑せよという。

秀吉は、その書状を何度も読んだ。

「半兵衛」

「はい」

「上様は、官兵衛を摂津守に与したと見ておられる」

半兵衛は黙っていた。

「ゆえに、松寿丸を殺せと仰せじゃ」

「はい」

「どうする」

半兵衛は、しばらく考えた。

「筑前様。官兵衛殿が裏切ったという証は、まだございませぬ」

「上様の御下命じゃ」

「承知しております」

「承知しておるなら、どうする」

半兵衛は顔を上げた。

「松寿丸殿は、私がお預かりいたします」

秀吉は眉を寄せた。

「何を申す」

「官兵衛殿の潔白が明らかになるまで、私が身を預かります」

「上様の命に背くつもりか」

「はい」

秀吉は半兵衛を見つめた。

「おぬし、自分が何を言うておるかわかっておるのか」

「わかっております」

「わしも疑われよう」

「その折には、私一人のしたこととお申し上げください」

「馬鹿者!」

秀吉が怒鳴りつけると、半兵衛は静かに頭を下げた。

「申し訳ございませぬ」

「謝れば済む話ではない!」

秀吉は部屋を歩き回った。

「官兵衛が裏切っておらんと、どうして言い切れる。おぬしは、あやつの腹の内まで見えるのか」

「見えませぬ」

「ならば、なぜじゃ」

半兵衛は静かに答えた。

「官兵衛殿を信じておりますゆえ」


秀吉は足を止めた。

「それだけか」

「はい」


長い沈黙があった。


秀吉は机の上の書状を見た。

「……おぬしが、勝手にするのじゃな」

半兵衛は頭を下げた。

「はい」

「わしは命じとらん」

「無論にございます」

「もし官兵衛がまことに裏切っておったら、何とする」

「そのときは、私が責めを負います」

秀吉は、しばらく半兵衛を見ていた。

「……勝手にせい」

半兵衛は頭を下げた。

「ありがたく存じます」

「礼など言うな。わしは何も知らん」

「承知いたしました」


半兵衛が退出すると、秀吉は書状を机の上に置いた。

信長の命令に背くことが、どれほど危ういかは知っていた。半兵衛も、それを知らぬはずがない。

それでも、あの男は譲らなかった。


秀吉は、半兵衛が出ていった戸口を見た。

やがて、机の上の書状を取り上げ、もう一度読み返した。松寿丸の名があるところで、指が止まった。

半兵衛を呼び戻そうかと思った。

あの男がまだ廊下にいるなら、今からでも命じられる。上様の御命令に従え、と一言言えばよい。


秀吉は戸口へ目をやった。

廊下の向こうで半兵衛の咳が聞こえた。足音が遠ざかっていった。

秀吉は書状を畳んだ。

「……ええい、糞っ」

誰もいない部屋で吐き捨て、灯明の芯を少し引き出した。

その夜は、まだ読むべき書付が山ほど残っていた。

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