佐保姫の春立ちながら
天正二年五月、北近江。
羽柴藤吉郎の屋敷には、朝から客が絶えなかった。浅井氏が滅んで半年余り、旧領の村々からは年貢や用水をめぐる訴えが持ち込まれ、かつて小谷の城に出入りしていた武士たちも、それぞれの事情を抱えて新しい領主のもとを訪ねていた。
「若狭から来る商人から訴状が出ております」
杉原七郎左衛門が書付を出すと、藤吉郎がそれを広げた。
「朽木谷を通る荷について、道中の負担が重いと申しております」
「それは朽木殿の御領内のことにございますからな」
脇に控える弟の小一郎が言った。
「高島郡の話をわしにされても困るわ。荷が来んのは困るが、朽木の弥五郎殿にも都合があろう。勝手に話を決めるわけにはいかん」
「そのように伝えます」
七郎左衛門が頷いた。
「次、上坂の伊賀守殿はもう来ておるか」
「先ほどから控えの間に」
七郎左衛門が答えた。
「山へ籠もっておったという御仁じゃの」
「左様にございます。先にお出しになった帰還の御意向を受け、上坂へ戻られましたが、旧領の扱いについて改めて願い出との仕儀にて」
「弟御も来ておるか」
「信濃守殿はお見えになっておりませぬ」
「ほうか。では、お通しせい」
小一郎が、兄の傍らに置かれた帳面を閉じた。
「兄者、上坂殿は京極以来の家じゃ。あまり初めから銭の話ばかりなさるなよ」
「わかっとる。わしだって挨拶くらいできるわ」
「昨日の名主には、挨拶より先に牛の数をお尋ねになった」
「あれは牛の数が肝心な話じゃったでな」
藤吉郎は笑ったが、伊賀守が姿を現すと、居住まいを正して迎えた。
上坂伊賀守は五十をいくつか越えた年頃に見えた。痩せた顔に白いものの交じる髭を蓄え、着物は古びていたが、襟元まできちんと整えている。座に着くと、深く一礼した。
「このたびは、上坂への帰還をお許しいただき、ありがたく存じます」
「うむ。山暮らしは難儀じゃったろう。よう戻られた」
「恐れ入りまする」
伊賀守の声は硬かった。
杉原七郎左衛門が書付を広げ、上坂の土地と用水について説明を始めた。
浅井氏の時代に認められていた権利のうち、村の年貢の取りまとめと、いくつかの田へ水を引く順番が争点になっている。
藤吉郎はしばらく黙って聞いていたが、途中で口を挟んだ。
「伊賀守殿。この田は、昨年も上坂の者が作っておったのか」
「左様にございます」
「年貢は誰が受け取った」
「小谷へ納めるべきものでございましたが、昨年は戦のため、常の年のようには参りませなんだ」
「それはそうじゃろう。では、今年の作付けは」
「すでに始めております」
「水は足りるか」
伊賀守は少し間を置いた。
「──川上の村が、従来の取り決めを守るならば」
「守らんのか」
「新たな御領主のもとでは、昔の約束は改められるべきだと申しております」
「なるほど。勝った方の顔色を見て、水まで余計に欲しがるか」
藤吉郎は笑った。
「困るのう。水は織田のものでも浅井のものでもない。上から流れてくるだけじゃ」
伊賀守の眉が、わずかに動いた。
「されど、先祖以来の取り決めには、相応の由緒がございます。当家は、浅井の御代よりも前、京極家にお仕えしていた頃から、この地に住まいしてまいりました」
「ほう」
「佐々木京極の御家が北近江を治められた時分には、当家の先祖も御奉公を重ねております。京極の御家は、かの佐々木道誉公を出された名門。道誉公は武辺のみならず、歌道にも通じ、『菟玖波集』にも数多くの句が――」
「おお、筑波集か!」
藤吉郎が、いきなり膝を打った。
伊賀守は口を閉じた。
「それなら、わしも知っとるぞ!」
「……はあ」
「霞のころも裾はぬれけり、じゃ!」
藤吉郎は嬉しそうに身を乗り出した。
「そこへな、佐保姫の春立ちながらしとをして、と付けるんじゃ。知っとるか!」
伊賀守は返事をしなかった。
「春の女神が立ち小便をして、霞の衣の裾を濡らすんじゃぞ! わしは初めて聞いたとき、腹が痛うなるほど笑うたわ!」
藤吉郎は実際に声を立てて笑った。
小一郎は顔を伏せた。七郎左衛門は、手元の書付に目を落としたまま、筆の軸を握り直している。
「……羽柴殿」
伊賀守がようやく口を開いた。
「それは、『犬筑波集』の句ではございませぬか」
「犬?」
「はい。『犬筑波集』にございます」
「なんじゃ、犬がつくのか。別の書物か!」
「別の書物にございます。道誉公の句を集めたものでもございませぬ」
「そうかそうか。わしはてっきり同じものかと思うとった!」
藤吉郎はまた笑った。
「いやあ、伊賀守殿はよう知っとるな。では、道誉殿はどんな句を詠まれたんじゃ。教えてくれ」
伊賀守は、どう答えたものかと小一郎を見た。
小一郎は静かに頭を下げた。
「兄は近ごろ歌を習うておりますが、まだ知らぬことも多うございます。伊賀守殿、どうかお許しくだされ」
「何を言う。知らんことが多いから習うとるんじゃ」
藤吉郎は平然としていた。
「伊賀守殿、わしは京に歌の先生がおってな。何を作っても直されるんじゃ」
「……左様でございますか」
「道誉殿の歌も、今度先生に聞いてみよう」
伊賀守は、藤吉郎の顔を改めて見た。
先ほどまでの笑い声が嘘のように、相手は真剣な顔をしていた。
「道誉公は、二条良基公らと交わり、連歌の道にも深く親しまれたお方にございます」
「二条殿か。公家の御仁じゃな」
「左様にございます」
「武士が公家と歌を詠み合うたのか。そりゃ、さぞ面白かったろうな」
「道誉公は、たいそう華やかなことを好まれたと伝わります」
「華やか?」
「大原野で催された花見のことなど、今も語り草にございます。ほかの御方の花見に招かれながら、同じ日にご自身でも盛大な宴を催され、人々の目を奪われたとか」
藤吉郎の目が輝いた。
「ほう! 人の花見に呼ばれて、自分でも花見を開いたのか!」
「そのように伝わっております」
「で、客はどちらへ行った」
「道誉公の宴に集まったと申します」
「ははは! そりゃ愉快じゃ! 先に客を呼んだ方は、さぞ悔しかったろう!」
伊賀守は、口元を引き結んだまま頷いた。
「道誉公は、時に常の作法に収まらぬお振る舞いもなさいました」
「うむ、気に入った。わしも一度、そんな花見をしてみたいもんじゃ」
「兄者」
小一郎が声をかけた。
「花見の前に、上坂の田の話を」
「おお、そうじゃった!」
藤吉郎は膝を叩き、七郎左衛門に向き直った。
「さっきの水の取り決めじゃが、古い証文は残っておるか」
「伊賀守殿が、お持ちになっております」
差し出された文書を、藤吉郎は一枚ずつ確かめた。年号を読み、土地の名を七郎左衛門に尋ね、先ほど聞いた村の名前と照らし合わせる。
「ここにある上の田は、去年の秋に兵が踏み荒らしたところじゃな」
「左様にございます」
「その下の田は無事じゃった。だが、上の田が荒れたせいで水路の泥をさらう者が足りん。そういう話じゃろう」
伊賀守は顔を上げた。
「……よくご存じで」
「三日前に村の者から聞いた。あの者は、去年まで上坂の家に奉公しておったと言うておったぞ。名は何と申したかのう」
「弥之助でございましょうか」
「そうじゃ、弥之助じゃ。左の眉の上に傷のある男じゃった」
伊賀守は小さく頷いた。
「当家に長く仕えた者にございます」
「なら、話は早い。上の田の水路を直すまでは、下の村に少し譲ってもらわにゃならん。ただし、今年だけじゃ。来年からは、古い取り決めをもとに改めて決める。伊賀守殿も村々の者を集めて、七郎左衛門と一緒に水路を見てくれ」
「……上坂の者が、取りまとめてもよろしいので」
「土地のことは、そこに住んどる者が一番よう知っとる。わしは昨日今日ここへ来た男じゃ。知らんことまで知った顔をしても、ろくなことにならん」
藤吉郎は証文を畳んだ。
「ただし、年貢はきちんと納めてもらうぞ。浅井の御代はどうじゃったと、そこだけ昔に戻られても困る」
伊賀守はしばらく黙っていたが、やがて、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「うむ。では、頼んだぞ」
伊賀守が退出したあと、小一郎は兄を見た。
「兄者」
「なんじゃ」
「上坂殿も、さぞ驚かれたろうな」
「そうか。わしはよい話が聞けたぞ」
「連歌の話か」
「それもじゃ。あの御仁、土地のことをよう知っとる。山へ籠もっておったままでは、もったいないわ」
七郎左衛門が書付をまとめながら言った。
「しかし殿、あの佐保姫の句は、いささか……」
「なんじゃ。面白かったろう」
「面白いかどうかはともかく、伊賀守殿の御前では」
「おみゃあまで小一郎みたいなことを言うな」
藤吉郎は笑った。
「そうじゃ、七郎左衛門。京へ使いを出すなら、宗順殿にも一筆頼む。『菟玖波集』と『犬筑波集』は何が違うのか、よう教えてくれとな」
「承知いたしました」
「それから、佐々木道誉殿の花見の話もじゃ。どれほどの銭を使うたのか、わかれば聞いてみたい」
小一郎が呆れた顔をした。
「兄者は、そこが気になるのか」
「当たり前じゃ。人の客を全部奪うほどの花見じゃぞ。安う済むわけがなかろう」
藤吉郎は大笑いした。
庭先では、大工たちが新しい柱を削っていた。春の日差しの中、槌の音が続いている。
やがて次の客が通されると、藤吉郎はまた帳面を開き、今度は城下の材木の値について話し始めた。
*
その夜、寧々は夫の書物を片づけていた。
今浜あらため長浜の城へ移ってから、書物はますます増えた。
歌集、物語、漢籍の抜き書き、宗順から送られてきた添削の紙。大きな箱を二つ用意したのに、もう入りきらなくなっている。
藤吉郎は灯明の前に座り、紙を広げていた。
「寧々」
「はい」
「これを聞いてくれ」
「また歌ですか」
「そうじゃ」
寧々は手を止めた。
藤吉郎が一首を読み上げる。
「どうじゃ」
「きれいな歌だと思います」
「ほんとか」
「ただ、少し長いような」
藤吉郎は顔をしかめた。
「長い?」
「最後のところです」
藤吉郎は指を折って数えた。
「五、七、五、七……」
途中で止まった。
「……一つ多いな」
「でしょう」
「おみゃあ、よう気づいたな」
「何度も聞かされておりますから」
寧々は笑った。
藤吉郎は筆を取った。
「なら、この字を抜けばええか」
「それでは意味が変わりませんか」
「変わるな」
「では、別の言葉をお探しになれば」
「簡単に言うなあ」
藤吉郎は紙を睨んだ。
寧々は、机の端に積まれた添削の紙を一枚取り上げた。
「宗順様から、またお便りが届いておりましたね」
「うむ」
「今度は、何と」
「前よりはましになったと」
「それはよかったではありませんか」
「そのあとに、まだ言葉が粗いと書いてある」
「いつものことでしょう」
「そうじゃ。いつものことじゃ」
藤吉郎は笑ったが、すぐに真顔になった。
「なあ、寧々。言葉が粗いというのは、どういうことじゃろうな」
「そのままの意味では」
「わしの言葉が悪いのは、わかっとる。だが、歌の中では、どの言葉が粗くて、どの言葉がよいのか。そこのところが、まだようわからん」
寧々は少し考えた。
「同じことを言うにも、言い方があるのでしょう」
「そうじゃろうな」
「殿も、上様の御前では、ずいぶん言葉を選んでおられましょう」
藤吉郎は顔を上げた。
「当たり前じゃあ。命が惜しいでな」
寧々は笑いをこらえた。
「では、歌でも同じではありませんか」
「いや、違う。歌では命を取られん」
「それなら、気楽にお考えになれば」
「気楽にやっとるから、いつまで経っても直されるんじゃ」
藤吉郎は頭を掻いた。
寧々は灯明の油を足した。
「そろそろお休みになっては」
「あと一首だけ」
「昨日もそうおっしゃいました」
「昨日の一首は終わった」
「今夜の一首は、いつ終わるのです」
「それがわからんから困っとる」
寧々は呆れたように首を振り、奥へ引っ込んだ。
藤吉郎は一人になってから、また紙を引き寄せた。庭の向こうでは、夜番の足音がしていた。
しばらくして、藤吉郎は書きかけの歌をすべて消した。
「……最初からじゃ」
小さく呟き、新しい紙を取った。
*
天正三年六月、京。
藤吉郎は、久しぶりに宗順の家を訪ねた。
「三河では、たいそうな戦であったとか」
宗順が茶を差し出しながら言った。
「おう。さすが天下に聞こえた武田の騎馬武者じゃ。小便ちびりそうになったわ」
「ご無事で何よりにございます」
「うむ。だが、戦の話はもうええ。今日は歌じゃ、歌」
藤吉郎は懐から紙束を取り出した。
長浜から持参した歌稿は、十首を越えていた。
宗順は一首ずつ読み、黙って筆を入れた。
藤吉郎は、その様子をじっと見ていた。
「どうじゃ」
「少しお待ちください」
「前よりよくなったか」
「お待ちください」
「どこが悪い」
「お待ちください」
藤吉郎は膝を揺すった。
宗順はようやく筆を置いた。
「お上手になりました」
藤吉郎は身を乗り出した。
「ほんとか」
「はい。ただし」
「ただし?」
「お作りになる歌が、少し似ております」
「似とる?」
「花を見れば花の美しさを詠み、月を見れば月の明るさを詠む。いずれも間違いではございませぬが、それだけでは、歌が残りません」
藤吉郎は眉をひそめた。
「花が美しければ、美しいと言うて何が悪い」
「悪くはございませぬ」
「月が明るければ、明るいじゃろう」
「左様にございます」
「なら、何がいかん」
宗順は少し笑った。
「殿は、戦場で同じ報せを何度も聞かされたら、どうなさいます」
「別のことを言えと言うわ」
「歌も、それに似ております」
藤吉郎は黙った。
宗順は一首を指した。
「ここに、桜が散ると書いておられます。散る花を惜しむ歌は、昔から数えきれぬほどございます。では、殿が見た桜は、どのような桜でございましたか」
「長浜の庭の桜じゃ」
「それは、どのように散りました」
「風が吹いて、ばらばらと」
「ほかには」
「ほか?」
藤吉郎は考えた。
「……そうじゃな。庭に水を張った桶が置いてあってな。花びらがそこへ落ちた。水に浮かんで、くるくる回っとった」
宗順は頷いた。
「それをお詠みになればよい」
「桶をか」
「桶を詠めとは申しませぬ」
「では何を」
「殿が見たものを、でございます」
藤吉郎はしばらく黙っていた。
やがて、笑った。
「なるほど。わしは花を見ておったつもりで、昔の歌ばかり見とったのか」
宗順は、少し驚いたように顔を上げた。
「……そのように申しても、よろしいかと」
「よし。もう一度作る」
藤吉郎は筆を取った。
宗順は慌てた。
「殿、まだ残りの歌が」
「あとでええ。今、作りたい」
「しかし、お時間が」
「今日は夕刻まで空けてある」
「お仕事は」
「昨日のうちに片づけてきた」
宗順は苦笑した。
「まことに、歌のためなら何でもなさいますな」
「何でもはせんぞ。上様に呼ばれたら、すぐ帰る」
「それは、そうでございましょう」
藤吉郎は笑いながら、紙に向かった。
*
天正五年八月二十六日、堺。
津田宗及の屋敷では、茶の湯の支度が整えられていた。
羽柴藤吉郎秀吉は松井友閑に案内され、庭を通って座敷へ入った。
「筑前殿、こちらへ」
友閑は落ち着いた声で言った。
「おう、かたじけない」
秀吉は、いつになく神妙な顔をしていた。
茶室へ入る前に、友閑からいくつかの作法を教わっていた。
「茶碗は、どちらへ回すのであったか」
秀吉が小声で尋ねると、友閑は微笑んだ。
「先ほど申し上げた通りに」
「先ほどは覚えとった。今は少し怪しい」
「筑前殿ほど物覚えのよいお方が」
「戦のことなら覚えられる。こういうことは、妙に手が動かん」
友閑は声を立てずに笑った。
座敷には、すでに数人の客がいた。
津田宗及は秀吉を迎え、丁重に挨拶した。
茶が点てられ、茶碗が運ばれた。秀吉は教えられた通りに手を動かそうとしたが、途中で少し迷った。
隣の客が、さりげなく目で示した。秀吉はその通りにした。
茶を飲み終えると、宗及が尋ねた。
「いかがでございましたか」
「うまかった」
秀吉は即座に答えた。
座敷に、わずかな笑いが起こった。
「いや、ほんとにうまかった。苦いのに、飲み終わると口の中がさっぱりする。妙なもんじゃ」
宗及は微笑んだ。
「お口に合いましたなら、何よりにございます」
秀吉は茶碗を眺めた。
「この茶碗は、どこのものじゃ」
「高麗のものにて」
「値は」
宗及は少し驚いたように顔を上げた。
「お値段でございますか」
「そうじゃ」
「茶碗の価値は、必ずしも銭の多寡だけでは」
「それはわかっとる。だが、銭を払う者もおるんじゃろ」
宗及は笑った。
「左様にございます」
秀吉は茶碗を手に取り、縁を見た。
「同じ土を焼いても、こちらは高く、あちらは安い。面白いものじゃな」
「使う者の心によっても、価値は変わります」
「ほう」
秀吉は、しばらく茶碗を見つめた。
「なら、わしが使えば、もっと高くなるか」
友閑が笑った。
宗及も笑った。
「後の世には、羽柴筑前殿が御用いになった茶碗として、名を残すやもしれませぬな」
「それでは、ますます欲しくなるわ」
秀吉は声を立てて笑った。
茶会が終わったあと、秀吉は友閑と庭を歩いた。
「茶の湯というのは、妙なものじゃな」
「何がでございます」
「狭い部屋で、皆が一つの茶碗を眺めておる。大勢の兵を動かすより、気を使う」
「慣れれば、心も落ち着きます」
「わしは、まだ落ち着かん」
「それも、またよろしいのでは」
秀吉は振り向いた。
「友閑殿は、ようわしをからかうの」
「そのようなつもりはございませぬ」
「宗順殿と同じことを言う」
友閑は首を傾げた。
「宗順殿?」
「京で歌を教わっとる先生じゃ。何を作っても、直される」
「それは、よい師をお持ちで」
「よい師かどうかは、わからん。銭を取って、わしの歌を真っ赤にする男じゃ」
秀吉は笑った。
「だが、茶も歌も、知らんことが多い。京へ来るたび、また一つ増えるわ」
友閑は頷いた。
「それが、楽しゅうございますか」
「楽しいとも」
秀吉は即座に答えた。
「知らんことを知るのは、面白い。知ったつもりになって、また知らんことが出てくる。それが腹立たしいが、面白い」
友閑は、しばらく秀吉を見ていた。
「筑前殿は、まことに不思議なお方じゃ」
「そうか」
「はい」
「なら、もっと不思議なことをしてやろう」
秀吉は笑った。
「次に来るときは、茶の作法を全部覚えて参る。宗及殿を驚かせてやるわ」
*
同じ年の秋、長浜。
秀吉のもとに、中国方面への出陣を命じる書状が届いた。
播磨へ向かうことになる。
屋敷では、また荷造りが始まった。
寧々《ねね》は、夫の衣類や日用品を揃えながら、机の上に積まれた書物を見た。
「今度も、これを全部お持ちになるのですか」
「全部はいらん」
「それは助かります」
「三冊ほどでええ」
「どれを」
秀吉は棚から歌集を取り、次に宗順の添削をまとめた紙束を取り上げた。
さらに、茶の湯について書き留めた帳面を探し始めた。
「どこへやった」
「何をです」
「堺で聞いたことを書いた帳面じゃ」
「こちらでは」
寧々が差し出すと、秀吉は嬉しそうに受け取った。
「おお、それじゃ」
「結局、四つございますね」
「四つくらい、荷にはならん」
寧々はため息をついた。
「戦に行かれるのですよ」
「わかっとる」
「歌や茶のことばかり考えておられては、困ります」
「戦のことも考えとるわ」
秀吉は笑った。
「だから、たまには別のことを考えにゃ、頭が腐る」
寧々は書物を包んだ。
「では、戦の合間にお読みください」
「おう」
「ただし、戦の最中にはお読みにならぬように」
「そんな馬鹿なことをするか」
寧々は黙って夫を見た。
秀吉も妻を見た。
「……たぶん、せん」
「たぶん、ですか」
二人は笑った。
出立の日、秀吉は馬に乗りかけてから、もう一度屋敷へ戻った。
寧々が驚いて迎えた。
「お忘れ物ですか」
「そうじゃ」
「何を」
「宗順殿の手紙じゃ。昨夜、机の上に置いた」
寧々は呆れた。
「戦に行く朝に、先生のお手紙ですか」
「昨日届いたばかりじゃ。まだ最後まで読んどらん」
寧々は手紙を持ってきた。
秀吉はその場で封を開き、目を走らせてから顔をしかめた。
「また直されとる」
「いつものことでしょう」
「今度は、前よりよいと思うたのにな」
寧々は笑った。
「では、お帰りになってから、またお作りになれば」
秀吉は手紙を折り畳み、懐へ入れた。
「そうじゃな」
門の外では、家臣たちが待っていた。
秀吉は馬に跨がった。
「行ってくるぞ」
「お気をつけて」
「おう。播州にも、よい歌を詠む者がおるかもしれん」
「まずは、お仕事を」
「わかっとる、わかっとる!」
秀吉は笑いながら手綱を引いた。
馬が歩き出す。
寧々は門の前に立ち、夫の姿が見えなくなるまで見送った。
屋敷へ戻ると、机の上に一枚の紙が残っていた。
昨夜、秀吉が書きかけた歌だった。途中までしか書かれていない。
寧々はそれを取り上げ、少し笑った。
「また、お忘れになって」
紙を折り、書物の箱へしまった。
長浜の城下には、秋の風が吹いていた。




