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秀吉、歌を学ぶ  作者: 灰神楽ねこ


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2/11

佐保姫の春立ちながら

天正二年五月、北近江。


羽柴藤吉郎の屋敷には、朝から客が絶えなかった。浅井《あざい》氏が滅んで半年余り、旧領の村々からは年貢や用水をめぐる訴えが持ち込まれ、かつて小谷の城に出入りしていた武士たちも、それぞれの事情を抱えて新しい領主のもとを訪ねていた。


「若狭から来る商人から訴状が出ております」

杉原七郎左衛門が書付を出すと、藤吉郎がそれを広げた。

「朽木谷《くちきだに》を通る荷について、道中の負担が重いと申しております」

「それは朽木殿の御領内のことにございますからな」

脇に控える弟の小一郎が言った。

「高島郡の話をわしにされても困るわ。荷が来んのは困るが、朽木の弥五郎殿にも都合があろう。勝手に話を決めるわけにはいかん」

「そのように伝えます」

七郎左衛門が頷いた。


「次、上坂《こうざか》の伊賀守殿はもう来ておるか」

「先ほどから控えの間に」

七郎左衛門が答えた。

「山へ籠もっておったという御仁じゃの」

「左様にございます。先にお出しになった帰還の御意向を受け、上坂へ戻られましたが、旧領の扱いについて改めて願い出との仕儀にて」

「弟御《おとうとご》も来ておるか」

「信濃守殿はお見えになっておりませぬ」

「ほうか。では、お通しせい」


小一郎が、兄の傍らに置かれた帳面を閉じた。

「兄者、上坂殿は京極(きょうごく)以来の家じゃ。あまり初めから銭の話ばかりなさるなよ」

「わかっとる。わしだって挨拶くらいできるわ」

「昨日の名主には、挨拶より先に牛の数をお尋ねになった」

「あれは牛の数が肝心な話じゃったでな」

藤吉郎は笑ったが、伊賀守が姿を現すと、居住まいを正して迎えた。


上坂伊賀守は五十をいくつか越えた年頃に見えた。痩せた顔に白いものの交じる髭を蓄え、着物は古びていたが、襟元まできちんと整えている。座に着くと、深く一礼した。

「このたびは、上坂への帰還をお許しいただき、ありがたく存じます」

「うむ。山暮らしは難儀じゃったろう。よう戻られた」

「恐れ入りまする」

伊賀守の声は硬かった。


杉原七郎左衛門が書付を広げ、上坂の土地と用水について説明を始めた。

浅井氏の時代に認められていた権利のうち、村の年貢の取りまとめと、いくつかの田へ水を引く順番が争点になっている。


藤吉郎はしばらく黙って聞いていたが、途中で口を挟んだ。

「伊賀守殿。この田は、昨年も上坂の者が作っておったのか」

「左様にございます」

「年貢は誰が受け取った」

「小谷へ納めるべきものでございましたが、昨年は戦のため、常の年のようには参りませなんだ」

「それはそうじゃろう。では、今年の作付けは」

「すでに始めております」

「水は足りるか」

伊賀守は少し間を置いた。

「──川上の村が、従来の取り決めを守るならば」

「守らんのか」

「新たな御領主のもとでは、昔の約束は改められるべきだと申しております」

「なるほど。勝った方の顔色を見て、水まで余計に欲しがるか」

藤吉郎は笑った。

「困るのう。水は織田のものでも浅井のものでもない。上から流れてくるだけじゃ」

伊賀守の眉が、わずかに動いた。

「されど、先祖以来の取り決めには、相応の由緒がございます。当家は、浅井の御代よりも前、京極家にお仕えしていた頃から、この地に住まいしてまいりました」

「ほう」

「佐々木京極の御家が北近江を治められた時分には、当家の先祖も御奉公を重ねております。京極の御家は、かの佐々木道誉(ささきどうよ)公を出された名門。道誉公は武辺のみならず、歌道にも通じ、『菟玖波《つくば》集』にも数多くの句が――」

「おお、筑波集か!」


藤吉郎が、いきなり膝を打った。

伊賀守は口を閉じた。


「それなら、わしも知っとるぞ!」

「……はあ」

「霞のころも裾はぬれけり、じゃ!」

藤吉郎は嬉しそうに身を乗り出した。

「そこへな、佐保姫《さおひめ》の春立ちながらしとをして、と付けるんじゃ。知っとるか!」

伊賀守は返事をしなかった。

「春の女神が立ち小便をして、霞の衣の裾を濡らすんじゃぞ! わしは初めて聞いたとき、腹が痛うなるほど笑うたわ!」

藤吉郎は実際に声を立てて笑った。


小一郎は顔を伏せた。七郎左衛門は、手元の書付に目を落としたまま、筆の軸を握り直している。


「……羽柴殿」

伊賀守がようやく口を開いた。

「それは、『犬筑波《いぬつくば》集』の句ではございませぬか」

「犬?」

「はい。『犬筑波集』にございます」

「なんじゃ、犬がつくのか。別の書物か!」

「別の書物にございます。道誉公の句を集めたものでもございませぬ」

「そうかそうか。わしはてっきり同じものかと思うとった!」

藤吉郎はまた笑った。

「いやあ、伊賀守殿はよう知っとるな。では、道誉殿はどんな句を詠まれたんじゃ。教えてくれ」


伊賀守は、どう答えたものかと小一郎を見た。

小一郎は静かに頭を下げた。

「兄は近ごろ歌を習うておりますが、まだ知らぬことも多うございます。伊賀守殿、どうかお許しくだされ」

「何を言う。知らんことが多いから習うとるんじゃ」

藤吉郎は平然としていた。

「伊賀守殿、わしは京に歌の先生がおってな。何を作っても直されるんじゃ」

「……左様でございますか」

「道誉殿の歌も、今度先生に聞いてみよう」


伊賀守は、藤吉郎の顔を改めて見た。

先ほどまでの笑い声が嘘のように、相手は真剣な顔をしていた。


「道誉公は、二条良基《にじょうよしもと》公らと交わり、連歌《れんが》の道にも深く親しまれたお方にございます」

「二条殿か。公家の御仁じゃな」

「左様にございます」

「武士が公家と歌を詠み合うたのか。そりゃ、さぞ面白かったろうな」

「道誉公は、たいそう華やかなことを好まれたと伝わります」

「華やか?」

「大原野で催された花見のことなど、今も語り草にございます。ほかの御方の花見に招かれながら、同じ日にご自身でも盛大な宴を催され、人々の目を奪われたとか」

藤吉郎の目が輝いた。

「ほう! 人の花見に呼ばれて、自分でも花見を開いたのか!」

「そのように伝わっております」

「で、客はどちらへ行った」

「道誉公の宴に集まったと申します」

「ははは! そりゃ愉快じゃ! 先に客を呼んだ方は、さぞ悔しかったろう!」

伊賀守は、口元を引き結んだまま頷いた。

「道誉公は、時に常の作法に収まらぬお振る舞いもなさいました」

「うむ、気に入った。わしも一度、そんな花見をしてみたいもんじゃ」


「兄者」

小一郎が声をかけた。

「花見の前に、上坂の田の話を」

「おお、そうじゃった!」

藤吉郎は膝を叩き、七郎左衛門に向き直った。

「さっきの水の取り決めじゃが、古い証文は残っておるか」

「伊賀守殿が、お持ちになっております」


差し出された文書を、藤吉郎は一枚ずつ確かめた。年号を読み、土地の名を七郎左衛門に尋ね、先ほど聞いた村の名前と照らし合わせる。


「ここにある上の田は、去年の秋に兵が踏み荒らしたところじゃな」

「左様にございます」

「その下の田は無事じゃった。だが、上の田が荒れたせいで水路の泥をさらう者が足りん。そういう話じゃろう」

伊賀守は顔を上げた。

「……よくご存じで」

「三日前に村の者から聞いた。あの者は、去年まで上坂の家に奉公しておったと言うておったぞ。名は何と申したかのう」

「弥之助でございましょうか」

「そうじゃ、弥之助じゃ。左の眉の上に傷のある男じゃった」

伊賀守は小さく頷いた。

「当家に長く仕えた者にございます」

「なら、話は早い。上の田の水路を直すまでは、下の村に少し譲ってもらわにゃならん。ただし、今年だけじゃ。来年からは、古い取り決めをもとに改めて決める。伊賀守殿も村々の者を集めて、七郎左衛門と一緒に水路を見てくれ」

「……上坂の者が、取りまとめてもよろしいので」

「土地のことは、そこに住んどる者が一番よう知っとる。わしは昨日今日ここへ来た男じゃ。知らんことまで知った顔をしても、ろくなことにならん」

藤吉郎は証文を畳んだ。

「ただし、年貢はきちんと納めてもらうぞ。浅井の御代はどうじゃったと、そこだけ昔に戻られても困る」

伊賀守はしばらく黙っていたが、やがて、深く頭を下げた。

「承知いたしました」

「うむ。では、頼んだぞ」


伊賀守が退出したあと、小一郎は兄を見た。

「兄者」

「なんじゃ」

「上坂殿も、さぞ驚かれたろうな」

「そうか。わしはよい話が聞けたぞ」

「連歌の話か」

「それもじゃ。あの御仁、土地のことをよう知っとる。山へ籠もっておったままでは、もったいないわ」

七郎左衛門が書付をまとめながら言った。

「しかし殿、あの佐保姫の句は、いささか……」

「なんじゃ。面白かったろう」

「面白いかどうかはともかく、伊賀守殿の御前では」

「おみゃあまで小一郎みたいなことを言うな」

藤吉郎は笑った。

「そうじゃ、七郎左衛門。京へ使いを出すなら、宗順殿にも一筆頼む。『菟玖波集』と『犬筑波集』は何が違うのか、よう教えてくれとな」

「承知いたしました」

「それから、佐々木道誉殿の花見の話もじゃ。どれほどの銭を使うたのか、わかれば聞いてみたい」

小一郎が呆れた顔をした。

「兄者は、そこが気になるのか」

「当たり前じゃ。人の客を全部奪うほどの花見じゃぞ。安う済むわけがなかろう」

藤吉郎は大笑いした。


庭先では、大工たちが新しい柱を削っていた。春の日差しの中、槌の音が続いている。

やがて次の客が通されると、藤吉郎はまた帳面を開き、今度は城下の材木の値について話し始めた。


*


その夜、寧々(ねね)は夫の書物を片づけていた。

今浜あらため長浜の城へ移ってから、書物はますます増えた。

歌集、物語、漢籍の抜き書き、宗順から送られてきた添削の紙。大きな箱を二つ用意したのに、もう入りきらなくなっている。


藤吉郎は灯明の前に座り、紙を広げていた。

「寧々」

「はい」

「これを聞いてくれ」

「また歌ですか」

「そうじゃ」

寧々は手を止めた。


藤吉郎が一首を読み上げる。


「どうじゃ」

「きれいな歌だと思います」

「ほんとか」

「ただ、少し長いような」

藤吉郎は顔をしかめた。

「長い?」

「最後のところです」

藤吉郎は指を折って数えた。

「五、七、五、七……」

途中で止まった。

「……一つ多いな」

「でしょう」

「おみゃあ、よう気づいたな」

「何度も聞かされておりますから」

寧々は笑った。


藤吉郎は筆を取った。

「なら、この字を抜けばええか」

「それでは意味が変わりませんか」

「変わるな」

「では、別の言葉をお探しになれば」

「簡単に言うなあ」

藤吉郎は紙を睨んだ。


寧々は、机の端に積まれた添削の紙を一枚取り上げた。

「宗順様から、またお便りが届いておりましたね」

「うむ」

「今度は、何と」

「前よりはましになったと」

「それはよかったではありませんか」

「そのあとに、まだ言葉が粗いと書いてある」

「いつものことでしょう」

「そうじゃ。いつものことじゃ」

藤吉郎は笑ったが、すぐに真顔になった。

「なあ、寧々。言葉が粗いというのは、どういうことじゃろうな」

「そのままの意味では」

「わしの言葉が悪いのは、わかっとる。だが、歌の中では、どの言葉が粗くて、どの言葉がよいのか。そこのところが、まだようわからん」

寧々は少し考えた。

「同じことを言うにも、言い方があるのでしょう」

「そうじゃろうな」

「殿も、上様の御前では、ずいぶん言葉を選んでおられましょう」

藤吉郎は顔を上げた。

「当たり前じゃあ。命が惜しいでな」

寧々は笑いをこらえた。

「では、歌でも同じではありませんか」

「いや、違う。歌では命を取られん」

「それなら、気楽にお考えになれば」

「気楽にやっとるから、いつまで経っても直されるんじゃ」

藤吉郎は頭を掻いた。


寧々は灯明の油を足した。

「そろそろお休みになっては」

「あと一首だけ」

「昨日もそうおっしゃいました」

「昨日の一首は終わった」

「今夜の一首は、いつ終わるのです」

「それがわからんから困っとる」

寧々は呆れたように首を振り、奥へ引っ込んだ。


藤吉郎は一人になってから、また紙を引き寄せた。庭の向こうでは、夜番の足音がしていた。

しばらくして、藤吉郎は書きかけの歌をすべて消した。

「……最初からじゃ」

小さく呟き、新しい紙を取った。


*


天正三年六月、京。


藤吉郎は、久しぶりに宗順の家を訪ねた。

「三河では、たいそうな戦であったとか」

宗順が茶を差し出しながら言った。

「おう。さすが天下に聞こえた武田の騎馬武者じゃ。小便ちびりそうになったわ」

「ご無事で何よりにございます」

「うむ。だが、戦の話はもうええ。今日は歌じゃ、歌」


藤吉郎は懐から紙束を取り出した。

長浜から持参した歌稿は、十首を越えていた。


宗順は一首ずつ読み、黙って筆を入れた。

藤吉郎は、その様子をじっと見ていた。

「どうじゃ」

「少しお待ちください」

「前よりよくなったか」

「お待ちください」

「どこが悪い」

「お待ちください」

藤吉郎は膝を揺すった。


宗順はようやく筆を置いた。

「お上手になりました」

藤吉郎は身を乗り出した。

「ほんとか」

「はい。ただし」

「ただし?」

「お作りになる歌が、少し似ております」

「似とる?」

「花を見れば花の美しさを詠み、月を見れば月の明るさを詠む。いずれも間違いではございませぬが、それだけでは、歌が残りません」

藤吉郎は眉をひそめた。

「花が美しければ、美しいと言うて何が悪い」

「悪くはございませぬ」

「月が明るければ、明るいじゃろう」

「左様にございます」

「なら、何がいかん」

宗順は少し笑った。

「殿は、戦場で同じ報せを何度も聞かされたら、どうなさいます」

「別のことを言えと言うわ」

「歌も、それに似ております」

藤吉郎は黙った。


宗順は一首を指した。

「ここに、桜が散ると書いておられます。散る花を惜しむ歌は、昔から数えきれぬほどございます。では、殿が見た桜は、どのような桜でございましたか」

「長浜の庭の桜じゃ」

「それは、どのように散りました」

「風が吹いて、ばらばらと」

「ほかには」

「ほか?」

藤吉郎は考えた。

「……そうじゃな。庭に水を張った桶が置いてあってな。花びらがそこへ落ちた。水に浮かんで、くるくる回っとった」

宗順は頷いた。

「それをお詠みになればよい」

「桶をか」

「桶を詠めとは申しませぬ」

「では何を」

「殿が見たものを、でございます」


藤吉郎はしばらく黙っていた。

やがて、笑った。

「なるほど。わしは花を見ておったつもりで、昔の歌ばかり見とったのか」

宗順は、少し驚いたように顔を上げた。

「……そのように申しても、よろしいかと」

「よし。もう一度作る」

藤吉郎は筆を取った。

宗順は慌てた。

「殿、まだ残りの歌が」

「あとでええ。今、作りたい」

「しかし、お時間が」

「今日は夕刻まで空けてある」

「お仕事は」

「昨日のうちに片づけてきた」

宗順は苦笑した。

「まことに、歌のためなら何でもなさいますな」

「何でもはせんぞ。上様に呼ばれたら、すぐ帰る」

「それは、そうでございましょう」

藤吉郎は笑いながら、紙に向かった。


*


天正五年八月二十六日、堺。


津田宗及《つだそうきゅう》の屋敷では、茶の湯の支度が整えられていた。

羽柴藤吉郎秀吉は松井友閑《まついゆうかん》に案内され、庭を通って座敷へ入った。

「筑前《ちくぜん》殿、こちらへ」

友閑は落ち着いた声で言った。

「おう、かたじけない」

秀吉は、いつになく神妙な顔をしていた。


茶室へ入る前に、友閑からいくつかの作法を教わっていた。

「茶碗は、どちらへ回すのであったか」

秀吉が小声で尋ねると、友閑は微笑んだ。

「先ほど申し上げた通りに」

「先ほどは覚えとった。今は少し怪しい」

「筑前殿ほど物覚えのよいお方が」

「戦のことなら覚えられる。こういうことは、妙に手が動かん」

友閑は声を立てずに笑った。


座敷には、すでに数人の客がいた。

津田宗及は秀吉を迎え、丁重に挨拶した。


茶が点てられ、茶碗が運ばれた。秀吉は教えられた通りに手を動かそうとしたが、途中で少し迷った。

隣の客が、さりげなく目で示した。秀吉はその通りにした。


茶を飲み終えると、宗及が尋ねた。

「いかがでございましたか」

「うまかった」

秀吉は即座に答えた。

座敷に、わずかな笑いが起こった。

「いや、ほんとにうまかった。苦いのに、飲み終わると口の中がさっぱりする。妙なもんじゃ」

宗及は微笑んだ。

「お口に合いましたなら、何よりにございます」

秀吉は茶碗を眺めた。

「この茶碗は、どこのものじゃ」

「高麗《こま》のものにて」

「値《あたい》は」

宗及は少し驚いたように顔を上げた。

「お値段でございますか」

「そうじゃ」

「茶碗の価値は、必ずしも銭の多寡だけでは」

「それはわかっとる。だが、銭を払う者もおるんじゃろ」

宗及は笑った。

「左様にございます」

秀吉は茶碗を手に取り、縁を見た。

「同じ土を焼いても、こちらは高く、あちらは安い。面白いものじゃな」

「使う者の心によっても、価値は変わります」

「ほう」

秀吉は、しばらく茶碗を見つめた。

「なら、わしが使えば、もっと高くなるか」

友閑が笑った。

宗及も笑った。

「後の世には、羽柴筑前殿が御用いになった茶碗として、名を残すやもしれませぬな」

「それでは、ますます欲しくなるわ」

秀吉は声を立てて笑った。


茶会が終わったあと、秀吉は友閑と庭を歩いた。

「茶の湯というのは、妙なものじゃな」

「何がでございます」

「狭い部屋で、皆が一つの茶碗を眺めておる。大勢の兵を動かすより、気を使う」

「慣れれば、心も落ち着きます」

「わしは、まだ落ち着かん」

「それも、またよろしいのでは」

秀吉は振り向いた。

「友閑殿は、ようわしをからかうの」

「そのようなつもりはございませぬ」

「宗順殿と同じことを言う」

友閑は首を傾げた。

「宗順殿?」

「京で歌を教わっとる先生じゃ。何を作っても、直される」

「それは、よい師をお持ちで」

「よい師かどうかは、わからん。銭を取って、わしの歌を真っ赤にする男じゃ」

秀吉は笑った。

「だが、茶も歌も、知らんことが多い。京へ来るたび、また一つ増えるわ」

友閑は頷いた。

「それが、楽しゅうございますか」

「楽しいとも」

秀吉は即座に答えた。

「知らんことを知るのは、面白い。知ったつもりになって、また知らんことが出てくる。それが腹立たしいが、面白い」

友閑は、しばらく秀吉を見ていた。

「筑前殿は、まことに不思議なお方じゃ」

「そうか」

「はい」

「なら、もっと不思議なことをしてやろう」

秀吉は笑った。

「次に来るときは、茶の作法を全部覚えて参る。宗及殿を驚かせてやるわ」


*


同じ年の秋、長浜。


秀吉のもとに、中国方面への出陣を命じる書状が届いた。

播磨《はりま》へ向かうことになる。


屋敷では、また荷造りが始まった。

寧々《ねね》は、夫の衣類や日用品を揃えながら、机の上に積まれた書物を見た。

「今度も、これを全部お持ちになるのですか」

「全部はいらん」

「それは助かります」

「三冊ほどでええ」

「どれを」

秀吉は棚から歌集を取り、次に宗順の添削をまとめた紙束を取り上げた。

さらに、茶の湯について書き留めた帳面を探し始めた。

「どこへやった」

「何をです」

「堺で聞いたことを書いた帳面じゃ」

「こちらでは」

寧々が差し出すと、秀吉は嬉しそうに受け取った。

「おお、それじゃ」

「結局、四つございますね」

「四つくらい、荷にはならん」

寧々はため息をついた。

「戦に行かれるのですよ」

「わかっとる」

「歌や茶のことばかり考えておられては、困ります」

「戦のことも考えとるわ」

秀吉は笑った。

「だから、たまには別のことを考えにゃ、頭が腐る」

寧々は書物を包んだ。

「では、戦の合間にお読みください」

「おう」

「ただし、戦の最中にはお読みにならぬように」

「そんな馬鹿なことをするか」


寧々は黙って夫を見た。

秀吉も妻を見た。


「……たぶん、せん」

「たぶん、ですか」

二人は笑った。


出立の日、秀吉は馬に乗りかけてから、もう一度屋敷へ戻った。

寧々が驚いて迎えた。

「お忘れ物ですか」

「そうじゃ」

「何を」

「宗順殿の手紙じゃ。昨夜、机の上に置いた」

寧々は呆れた。

「戦に行く朝に、先生のお手紙ですか」

「昨日届いたばかりじゃ。まだ最後まで読んどらん」


寧々は手紙を持ってきた。

秀吉はその場で封を開き、目を走らせてから顔をしかめた。

「また直されとる」

「いつものことでしょう」

「今度は、前よりよいと思うたのにな」

寧々は笑った。

「では、お帰りになってから、またお作りになれば」

秀吉は手紙を折り畳み、懐へ入れた。

「そうじゃな」


門の外では、家臣たちが待っていた。

秀吉は馬に跨がった。

「行ってくるぞ」

「お気をつけて」

「おう。播州《ばんしゅう》にも、よい歌を詠む者がおるかもしれん」

「まずは、お仕事を」

「わかっとる、わかっとる!」

秀吉は笑いながら手綱を引いた。

馬が歩き出す。

寧々は門の前に立ち、夫の姿が見えなくなるまで見送った。


屋敷へ戻ると、机の上に一枚の紙が残っていた。

昨夜、秀吉が書きかけた歌だった。途中までしか書かれていない。

寧々はそれを取り上げ、少し笑った。

「また、お忘れになって」

紙を折り、書物の箱へしまった。


長浜の城下には、秋の風が吹いていた。

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