菊の歌
永禄十一年九月二十六日。
木下藤吉郎は、東寺の門をくぐる前に、もう一度、着物の襟を直した。
朝から駆け通しで、足袋の裏は泥だらけだった。近江から京へ向かう道は、兵も馬も荷駄も入り乱れ、途中では道端に積まれた荷をどかすのに半刻も費やした。
ようやく京の入口まで来たところで、弾正忠の御前へ出よとの使いが追いついてきたのである。
何かしくじったか。
藤吉郎は歩きながら、昨日から自分が扱った仕事を数え直した。
兵糧の受け渡し、荷駄の割り振り、近江で雇った人足への支払い。いずれも間違いはないはずだった
が、弾正忠の前では、間違いがないという確信ほど頼りにならないものはなかった。
境内には諸将の供回りがひしめいていた。馬のいななきに混じって、甲冑の擦れる音、書付を読み上げる声、遠くから聞こえる鐘の音がした。
藤吉郎が案内された先では、すでに幾人もの武将が信長の前に控えていた。
「久我でぶつかりました。石成主税助の手勢にございます」
報告していたのは、戦場から戻ったばかりらしい使番だった。
信長は座したまま、濡れた草鞋を履いた使番を見ていた。
「勝龍寺へ退いたか」
「そのように聞き及びまする。ただ、まだ城外に人数を残しておるとも」
「誰が見た」
使番は一瞬口ごもり、報告を寄越した者の名を答えた。
「その者を呼べ。見た者の話を聞く」
信長はそれだけ言うと、脇に控える家臣へ顔を向けた。
「三好日向守は」
「芥川山にございます。先手を進めるにつき、道筋を――」
「先に渡しを押さえよ。後ろの荷が詰まってはならぬ」
続いて、南近江からの使者が呼ばれた。
六角承禎父子の消息についての報告だった。観音寺城を捨てた父子の行方はまだ定かでなく、旧臣のうちには織田方へ従う者も、山中へ姿を消す者もあった。
「平井加賀と三雲対馬は」
「いまだ確かな報せがございませぬ」
「承禎と一緒か」
「それも、まだ」
「調べよ」
信長は短く言った。
「道を塞がれてから探しても遅い」
その横から、別の家臣が松永霜台の名を出した。大和の情勢を述べ始めると、信長はしばらく黙って聞き、二、三の問いを挟んでから、返書を出すよう命じた。
今度は京の話になった。
前関白の近衛卿が都を離れたという。細川兵部大輔が禁裏へ参ったという。
足利義昭の宿所について、また寺社への禁制についても、次々に報告が入った。
藤吉郎は末席で平伏していた。
話は聞こえている。名前も地名も、ほとんど聞き落としていない。しかし、どの話がどの話につながっているのか、追いつかない。
つい先ほどまで近江の山中にいたと思えば、次には摂津の城の話になり、すぐに禁裏の門の話になる。
信長は、その一つひとつを、初めて聞く話ではないように扱っていた。
「東寺の禁制は」
「すでに申し渡してございます」
「ほかの寺にも怠るな。兵を泊めるなら、先に話をつけよ」
そのとき、脇から差し出された書付を見て、信長が急に声を荒らげた。
「これは誰が書いた」
控えていた家臣が身を縮める。
「申し上げまする」
「たわけ、同じ寺の名が二つある。二度使いを出すつもりか」
家臣が慌てて書付を取り直した。信長はもう、その者を見ていなかった。
「猿!」
不意に呼ばれ、藤吉郎は畳へ額をつけた。
「はっ」
「京の町へ行け」
「はっ」
「縄、筵、灯油を揃える。数はこれにある。荷を運ぶ者も要る。明日までに、いくらで何が揃うか確かめてこい」
一枚の書付が渡された。
「買い付けは銭を払え。勝手に取り上げる者があれば、名を控えておけ」
「承知つかまつりました」
「それから」
藤吉郎は身を固くした。
「商人が嫌がるなら、何を嫌がるのか聞いてこい」
「はっ」
「それを聞かずに、ただ高い安いと申すな」
藤吉郎がもう一度頭を下げると、信長は次の使者を呼んだ。
退出してよいのか迷ったが、近くにいた家臣が顎で戸口を示したので、藤吉郎は静かに下がった。
門を出たところで、大きく息を吐いた。
「……寿命が縮むがや」
腰を叩いて背筋を伸ばすと、途端に腹が減ってきた。
「京の町衆か。まあ、銭の話なら、何とかなるわ」
藤吉郎は書付を懐にしまい、門前の道へ歩き出した。
*
京の町は、藤吉郎の知っている町とは違っていた。
まず、人が多い。
兵が多いのは当たり前だったが、それだけではない。
荷を担ぐ男、桶を運ぶ女、数珠を手にした僧、色鮮やかな小袖を着た女房、細い路地から現れては人波へ消える子供たち。
道端では魚が売られ、干した薬草が吊られ、見たこともない形の菓子が盆に並んでいた。
家々の軒は近く、奥は深かった。
藤吉郎は店先を覗き込み、値を聞き、何を売る店か尋ねながら歩いた。
尾張の市にも賑わいはある。若い頃には駿府も見た。しかし京では、どの店にも、何代もそこで商いを続けてきた者だけが持つ落ち着きがあった。
一方で、町の人々は織田の兵を見ると道を譲り、すぐに目を伏せた。
藤吉郎は、その目の動きも見た。
教えられた商家は、下京の通りに面していた。表では麻縄や筵を扱っているが、奥では油や紙、運送の手配も引き受けているという。
主人は五十がらみの、頬の薄い男だった。
「木下藤吉郎と申す。織田弾正忠様の御用で参った」
主人は名乗りを聞くと、丁寧に頭を下げた。
「それはそれは。遠路、ご苦労に存じます」
通された座敷には先客がいた。
細身の男で、僧形ではないが、いかにも筆を持つ仕事に慣れた指をしていた。主人は、ある公家の家に出入りする者だとだけ紹介した。
男は藤吉郎の顔を見て、ゆっくりと会釈した。
「尾張よりお越しとか」
言葉に独特の抑揚がある。いかにもな都人の喋りだった。
「そうだがや。いや、さようにござる」
言い直すと、男は目を細めた。
「京のお言葉には、まだお慣れでないようで」
「今日初めて入ったでな。これから覚えるわ」
藤吉郎が笑うと、主人も笑った。先客の男は口元を袖で隠した。
商談は、初めから容易ではなかった。
縄はあるが、求める太さのものは少ない。筵は揃うが、明日までには運べない。油は値が上がっている。
荷を運ぶ人足も、織田の軍勢が入ったと聞いて町を離れた者がいるという。
藤吉郎は主人の話を遮らずに聞いた。
「ほんなら、縄は今ここに何束ある」
「三十束ほどは」
「三十か。さっき奥の者は四十二と言うたぞ」
主人が顔を上げた。
「それは細い縄も含めた数でございましょう」
「細いのが十二束ということか。なら太いのが三十。わかった。筵は、どこの蔵にある」
主人が三か所の蔵を挙げると、藤吉郎はそれぞれの数を確かめた。人足が足りないという話には、どの組が何人出せるのか尋ねた。
「運ぶ者が足りぬなら、荷をまとめればええ。蔵ごとに別々に運ばせるで、人数が要るんじゃろ」
主人は腕を組んだ。
「それでは荷を集める手間が」
「その手間にいくらかかる。そこも払う。だが三度運ぶ銭は出せん」
二人はしばらく数字をやり取りした。
藤吉郎は主人の出した条件を一つずつ覚え、時折、最初の話に戻って食い違いを指摘した。
主人の方でも、藤吉郎がただ値切りたいだけの武士ではないと気づいたらしく、途中からは帳面を取り寄せ、蔵ごとの品数を示し始めた。
そのころ、先客の男が静かに言った。
「まことに、よく働かれるお方じゃ」
藤吉郎は振り向いた。
「働かにゃ食えんでな」
「いやいや、感心しております。都に入られたばかりで、もうこれほど馴染んでおられるとは」
主人が小さく笑った。
男は庭先に目を向けた。小さな庭には、季節外れの花が二、三輪残っていた。
「花も、所を得れば見事に咲くものでございますな」
「花?」
「いえ、こちらの話にございます」
主人が応じた。
「昔から、こう申しますな。『心あてに折らばや折らむ初霜の、置きまどはせる白菊の花』」
男は声を立てずに笑った。
「なるほど。どれが白菊やら、見分けもつきませぬな」
二人は顔を見合わせた。
藤吉郎も笑ってみせたが、何がおかしいのか全くわからなかった。なぜ菊の話が急に出てきたのか。白菊だろうが何だろうが、どうでもよいではないか。
男はなおも言った。
「都には、古くから伝わるものが多うございます。見慣れぬ方には、何が何やら、おわかりにならぬこともございましょう」
主人が軽く咳払いをした。
「さて、筵の件でございますが」
藤吉郎は帳面に目を戻した。
「おう。三つ目の蔵は二十五枚じゃったな」
「二十八枚にございます」
「いや、最初は二十五と申した。三枚増えたならありがたいが、どこから出てきた」
主人は思わず笑い、帳面を確かめた。
「これは、手前の間違いでございました」
「間違いならよい。銭を払うときに間違われちゃ困るでな」
最後には、縄と筵の大半を翌日中に揃え、残りを二日後に届けることで話がまとまった。油は別の商人から買うことになり、その紹介も主人が引き受けた。
藤吉郎は満足して立ち上がった。
「世話になった。織田の者が勝手な真似をしたら、わしのところへ言うてこい。もっとも、わしに言うても手に負えんことはあるがな」
主人は初めて声を出して笑った。
「藤吉郎殿は、おもしろいお方じゃ」
「銭を払う相手には、たいていそう言われるわ」
藤吉郎も笑った。
しかし、座敷を出るとき、先客の男がもう一度あの菊の歌を口ずさんだのを、藤吉郎は聞き逃さなかった。
主人が、また笑った。
通りへ出てからも、その声が耳に残った。
心あてに折らばや折らむ初霜の、置きまどはせる白菊の花。
何度か口の中で繰り返した。
言葉は一つも落ちていない。
ただ、意味だけがわからなかった。
*
翌年の春、藤吉郎は下京の小さな家を訪ねた。
表には古い書物を扱う店があり、その奥で宗順という男が、頼まれれば手紙を書き、古い文書を写し、和歌の手ほどきもしているという。
宗順は五十を少し越えたくらいの男だった。
痩せて、眉が濃く、藤吉郎の顔を見るなり、少し困ったような表情になった。
「歌をお習いになりたい、と」
「そうじゃ」
「これまでに、何かお読みになりましたか」
「戦場で書付なら山ほど読んどる」
「いえ、歌集などを」
「読んどらん」
宗順は黙った。
藤吉郎は懐から紙を出した。
「去年、京へ初めて来たとき、ある男が歌を言うた。これがどういう意味か教えてほしい」
紙には、太い筆跡で一首が書かれていた。
宗順は読み下し、少し意外そうに顔を上げた。
「凡河内躬恒の歌でございますな」
「おお、そういう者の歌か」
「『古今和歌集』にございます。初霜が降り、白菊の花と霜とが見分けがたくなった、その風情を詠んだものです」
「ほう」
「それを、どなたが」
藤吉郎は商家の様子を話した。
主人の年恰好、先客の衣服、庭に咲いていた花、帳面の置き方。誰がどの言葉を言い、どこで笑ったかまで、順に語った。
宗順は途中で話を止めた。
「少々、お待ちください」
「なんじゃ」
「その歌を聞かれたのは、去年の九月と」
「そうじゃ」
「一度だけですか」
「二度言うたな。最初は主人が、あとで帰り際にもう一人が」
「そのときの言葉を、今おっしゃった通りに?」
「当たり前じゃ。違うたら困る」
宗順は、もう一度歌を読んだ。
「一字も違いませぬ」
「そりゃよかった」
「よかった、ではございませぬ。半年も前に、一度だけ聞いた歌を……」
「二度じゃと言うとるがや」
宗順は藤吉郎を見つめた。
「ほかにも覚えておいでですか」
「歌か」
「何でも」
藤吉郎はしばらく考えた。
「その日の商談なら、縄が四十二束、うち細いのが十二。筵は三つの蔵に合わせて八十三枚。最初の言い値は――」
「いえ、もう結構」
「まだあるぞ」
「十分でございます」
宗順は紙を机に置いた。
「それで、この歌がどうしておかしかったのか、というお尋ねでしたな」
「そうじゃ」
「歌そのものに、おかしいところはございませぬ。ただ、歌を持ち出した前後の話からいたしますと……」
宗順は言葉を選んだ。
「都のものと、よそから来たものとの違いを、面白がっておられたのでしょう」
「つまり、わしを馬鹿にしとったのか」
「そこまで申してよいかは――」
「ええわ。遠慮せず言え」
宗順は少し黙ってから答えた。
「そう受け取られても、仕方のない言いようです」
藤吉郎は膝を叩いた。
「やはりか!」
宗順が身を引くほど大きな声だった。
「あの二人、わしの前で笑いおって。商いの話なら一つも負けとらんのに、菊がどうした霜がどうしたと、わけのわからんことを言いよった」
「お静かに。隣まで聞こえます」
「聞こえてもええ。わしは腹が立っとるんじゃ」
「それで、歌を習ってどうなさるおつもりです」
「今度会うたら、同じように言い返してやる」
宗順は呆れたように息をついた。
「和歌は、人を言い負かすためのものではございませぬ」
「人を馬鹿にするためには使うとるではないか」
それには宗順も返す言葉がなかった。
藤吉郎は身を乗り出した。
「教えてくれ。銭は払う。わしは京のことを何も知らん。知らんまま笑われるのは、もう御免じゃ」
宗順はしばらく藤吉郎の顔を見ていたが、やがて棚から一冊の書物を取り出した。
「では、まず歌の数え方から始めましょう」
「数なら得意じゃ」
「五、七、五、七、七にございます」
「三十一か。簡単じゃな」
「簡単かどうかは、お作りになればわかります」
藤吉郎はその場で歌を作った。
京の町
人はようけで
銭が要る
商い上手は
わしの勝ちなり
宗順は読んで、目を閉じた。
「……まず、言葉を選ぶところから始めましょう」
「どこが悪い」
「全部、と申し上げるのも失礼ですが」
「全部か!」
藤吉郎は大笑いした。
宗順は困った顔のまま、筆を取った。
その日、藤吉郎は日が暮れるまで帰らなかった。
*
元亀二年五月、北近江。
横山城の麓では、朝から荷駄の牛が鳴いていた。
前夜の雨で坂道がぬかるみ、兵糧を積んだ荷車が一台、途中で動かなくなっていた。人足たちが車輪を押し、足軽が牛の手綱を引いていたが、車は泥の中で傾いたままだった。
神子田半左衛門は、人足を二人呼び足して荷を降ろさせ、先に運べるものから城へ上げるよう命じた。車を動かすのは、道が乾いてからでもよい。
去年の夏、姉川で浅井・朝倉勢と戦ってから、北近江の戦は途切れることなく続いていた。
小谷の浅井はなお健在で、横山城を預かる藤吉郎のもとには、兵糧の催促、村々からの訴え、街道の警固についての報告が毎日のように届いた。
半左衛門が城内の一室へ入ると、藤吉郎は文机に向かい、紙を広げて何やら唸っていた。
「藤吉郎殿」
「何じゃ」
「荷車の一台が、坂で動かなくなりましてな。荷は人足に分けて運ばせておりますが、車はしばらく置くほかありませぬ」
「それでええ。車を引きずって牛の脚でも折ったら、よほど損じゃ。どこの道じゃ」
半左衛門が場所を答えると、藤吉郎は頷いた。
「なら、帰りは西の道を使え。あそこは石が多いで、雨が降っても車輪が沈まん」
「承知いたしました」
半左衛門は一礼してから、藤吉郎の手元に目を留めた。
紙には赤い筆で幾筋もの線が引かれ、余白に細かな文字がびっしりと書き込まれていた。
「……それは、何の書付でございます」
「歌じゃ」
「歌?」
「京の宗順殿から戻ってきたんじゃ。見てみい」
藤吉郎は紙を持ち上げた。自分の書いた文字よりも、宗順の朱筆の方が目立っていた。
半左衛門は笑いそうになって、こらえた。
「これでは、それがしにも書けそうでございます」
「なら書いてみい」
「御免こうむります」
「ほれ見ろ」
藤吉郎は大きな声で笑って、紙を折り畳んだ。
そのとき、陣の入口から声がした。
「岐阜より御使者!」
藤吉郎の笑顔が一瞬で消えた。
「……どなたからじゃ」
「弾正忠様より!」
藤吉郎は立ち上がった。
「半左衛門、わしの具足は」
「そちらに」
「書付を片づけろ。いや、その帳面は出しておけ。昨日の人数を――」
「藤吉郎様、まず使者をお通ししては」
「わかっとる!」
入ってきた使者は、信長からの軍勢の移動に関する命令を伝えた。
藤吉郎は一語も聞き漏らすまいと身を固くして聞き、二度確かめ、返答を託した。
使者が去ると、しばらく黙っていた。
やがて腰を下ろし、額の汗を拭った。
「……半左衛門」
「はっ」
「水をくれ」
半左衛門が水を差し出すと、藤吉郎は一息に飲んだ。
「歌の続きでございますか」
「馬鹿ぁ言え。先に明日の支度じゃ」
そう言って立ち上がりかけ、ふと紙を振り返った。
「それは濡らすなよ」
「どちらを」
「赤い方じゃ」
半左衛門は紙を取り上げた。
「これほど直されても、まだお続けになるので」
「直されんようになったら、習うこともなかろうが」
藤吉郎はそう答えて、陣の外へ出ていった。
*
天正元年の秋、浅井氏の滅亡によって北近江を与えられた藤吉郎は、今浜に新たな城を築く支度に追われていた。
荷をまとめる寧々の前には、衣類、武具、帳面、書状が積まれていた。そこへ藤吉郎が古い紙の束を抱えて現れた。
「これも持っていくぞ」
寧々は振り向いた。
「また増えたのですか」
「増えたんじゃない。前からある」
「では、どうしてこんなに多いのです」
「習うたからじゃ」
寧々は一番上の紙を取った。
「これは何です」
「最初に作った歌じゃ」
「ずいぶん直してありますね」
「宗順殿が厳しいでな」
寧々は紙を裏返した。裏にも赤い字があった。
「こちらにも」
「紙が惜しいで、裏まで使うたんじゃろ」
「宗順様が?」
「わしが」
寧々は笑った。
「こんなものまで、わざわざ持っていかなくても」
藤吉郎は紙を取り返した。
「捨てるな」
「捨てませんよ」
「ほんとに捨てるなよ。これは、わしが最初に作った歌じゃ」
「わかりました」
寧々は束を紐で結び、ほかの書物と一緒に箱へ入れた。
藤吉郎はその横から一冊を抜き取った。
「これは手元に置く」
「また読むのですか」
「まだ覚えとらん歌がある」
「そんなにたくさん?」
「山ほどあるわ」
藤吉郎は書物を開き、しばらく目を走らせた。
寧々が荷の続きをまとめていると、突然、夫が笑い出した。
「何がおかしいのです」
「いや、昔の歌人も、ようこんなことを考えるもんじゃと思うてな」
「どんな歌です」
藤吉郎は書物を持ち上げ、節をつけるように読み上げた。
「唐衣きつつなれにしつましあれば、はるばるきぬる旅をしぞ思ふ」
「旅の歌ですか」
「そうじゃ。ところが、これには仕掛けがある。初めの字を拾ってみい」
寧々は指を折った。
「か、き、つ、は、た……」
「かきつばた、じゃ。花の名を隠しておる。それだけではないぞ。『きつつ』は衣を着ることと、ここまで来たことを掛けとる。『つま』は着物の褄と、女房の妻じゃ」
「ずいぶん手の込んだことを」
「じゃろ。旅先で女房を恋しがる歌なのに、わざわざ花の名まで織り込んでおる。よう思いつくもんじゃ」
「藤吉郎殿なら、どう詠みます」
「わしか。『寧々に会いたい、早う帰りたい』じゃな」
「それでは歌になりません」
「だから習うとるんじゃないか!」
藤吉郎は声を上げて笑い、もう一度その歌を読んだ。寧々は呆れながらも、その声を聞いていた。
やがて藤吉郎は書物を閉じた。
「なあ、寧々」
「はい」
「京へ行ったら、また宗順殿のところへ寄らにゃならん」
「今度は何を習うのです」
「何でもじゃ。まだ、わしの知らん歌が山ほどある」
「お城の仕事はどうするのです」
「そっちもやる」
藤吉郎は箱の中を覗き、赤い字だらけの紙束がきちんと収まっているのを確かめた。
「それに、今度こそ宗順殿を驚かせてやる」
「いつも驚かせているのでしょう」
「今度は、よい方でじゃ」
寧々は笑って、箱の蓋を閉めた。
藤吉郎はまた別の書物を取り上げ、荷造りの邪魔にならない隅へ腰を下ろした。
ほどなく、廊下から家臣の呼ぶ声がした。
「藤吉郎様、城下の屋敷割りのことで!」
「おう、今行く!」
返事をしてから、藤吉郎は開いた頁の端を指で押さえた。
「寧々、この歌のところ、覚えといてくれ」
「どうして私が」
「帰ったら続きを読むで」
「栞を挟めばよいでしょう」
「おお、ほうか」
藤吉郎は笑い、手近にあった細い紙片を頁に挟んだ。そして、書物を寧々に預け、廊下へ飛び出していった。




