第7話 小さな診療所を開きます
看板を彫った。
村の木工職人に頼もうとしたら、ニクラスが「自分でやる」と言い出した。普段は薬草の調合と患者のカルテしか手にしない人が、彫刻刀を握っている。不器用に。
「ニクラス先生、『療』の字が左右反転してます」
「……そうか」
「それと『所』の点が一つ多い」
「細かいことを言うな」
細かくない。看板だ。毎日見るものだ。
結局、木工職人のヨーゼフさんに手直しを頼んだ。ニクラスの彫った文字を活かしつつ、読める形に整えてもらう。ヨーゼフさんは苦笑しながら「ニクラス先生、手術は上手いのに字は下手だなあ」と言った。ニクラスは「字と手術は別の技能だ」と真顔で返した。
完成した看板。
『ベルクハイム診療所 ニクラス・ヘルツ メイ・リンドグレーン』
二人の名前が並んでいる。
ニクラスの名前が先。私が後。
「……並びは、これでいいんですか」
「何がだ」
「ニクラス先生が先で、私が後。この村の医者はニクラス先生だから、先のほうが自然ですけど──」
「それでいい。俺が先だ」
「先生の診療所ですものね」
「……そういう意味で言ったんじゃない」
ニクラスが看板から目を逸らした。何か言いかけて、飲み込んだ。
「名前が並んでいることに意味がある。順番はどうでもいい」
ああ。
そういうことか。
「──隣に並んでいるなら、どちらが先でも同じですね」
声に出したら、自分の耳が熱くなった。
ニクラスは返事をしなかった。看板を持ち上げて、診療所の入り口の柱に取り付ける作業を始めた。釘を打つ音が、秋の山に響いた。
◇
看板が掛かってから、近隣の村からも患者が来るようになった。
「ベルクハイムに魔法の薬師がいるらしい」。その噂が山を越えて広がっている。一日に三人だった患者が、五人、七人と増えた。
ニクラスと二人で回している。朝から夕方まで。私が手を当てて体の状態を診て、ニクラスが診断を確定して薬を出す。必要があれば私の回復魔法で処置し、ニクラスが物理的な固定や縫合を行う。
この連携を「統合医療」とニクラスが呼び始めた。
「魔法と医学の統合。前例はない。だが理に適っている」
ニクラスは毎晩、治療記録をまとめている。帳簿はもう三冊目だ。私の魔法の効果範囲、所要時間、消耗度。それを通常の薬学的治療と比較した上で、最適な組み合わせを導き出す。
「お前の力は外傷と急性炎症に強い。だが慢性の内臓疾患には薬の方が持続性がある。使い分けが重要だ」
「はい」
「逆に言えば、薬では三日かかる骨折の初期固定が、お前の力なら三十分で済む。術後の痛みも軽減できる。これは手術の幅を広げる」
ニクラスの目が光る瞬間がある。新しい治療の可能性が見えた時。この人は治すことに本気だ。不器用で無愛想で、患者に「こわい先生」と呼ばれているけれど、治療の話をしている時だけ目が少年みたいに輝く。
(……あの目が好きだ)
──いや。好きって、仕事のパートナーとしての話だ。当然。
息が合う。
最初の頃は、一人の患者に対して二人で言葉を交わす場面が多かった。「ここの炎症は浅いですか深いですか」「深い。煎じ薬では届かない」「では私が力で──」。
今は言葉が減った。目で分かる。ニクラスが薬棚に手を伸ばす動きで、次に何をするか分かる。私が患者の手を取る角度で、ニクラスはどこが悪いか察する。
言葉が要らなくなった二人の連携は、患者から見ると不思議に見えるらしい。
「メイ先生とニクラス先生、何も言わなくても通じるんですね」
ルーシーに言われた。アンナの定期検診の時。
「ええ、まあ──仕事のパートナーですから」
「パートナーかあ」
ルーシーがにやにやしている。何だその顔は。
「仕事の、です」
「はいはい」
全然「はいはい」じゃない顔をしている。
◇
診療の合間。
薬棚の整理をしていたら、ニクラスがぽつりと言った。
「看板の名前、並びが逆のほうが良かったか」
唐突すぎて、手が止まった。
「え?」
「お前が先で、俺が後。──お前の方が、最近は患者に頼られている」
「そんなことないです。先生がいなければ薬の処方ができないんですから」
「薬はお前にも教えた。処方は俺でなくてもできる」
「でも──」
「お前の方が向いている。この村の医者として」
ニクラスの声に、自嘲は混じっていなかった。事実を述べている声だ。この人は自分の能力を過小評価も過大評価もしない。ただ、客観的に見て私の方が患者に慕われているという事実を認めている。
「ニクラス先生」
「何だ」
「隣に並んでいるなら、どちらが先でも同じだと──さっき私、言いましたよね」
「……言ったな」
「それは看板の話じゃなくて」
自分で何を言おうとしているのか、途中で気づいた。顔が熱くなった。
「──すみません。忘れてください」
「忘れない」
ニクラスの返事が速すぎて、二人とも固まった。
薬瓶が棚の上で揺れた。どちらかが棚にぶつかったらしい。
「……薬品の管理に影響が出る。棚にぶつかるな」
「先生がぶつかったんですけど」
「そうか」
沈黙。
薬草の乾いた匂いが診療所に漂っている。窓から差し込む午後の光が、棚の薬瓶を琥珀色に照らしている。
私は薬瓶を元の位置に戻した。ニクラスは帳簿を開いて何か書き始めた。いつもの光景。
でも──ニクラスのペンが紙の上を滑る速度が、いつもより少し遅い。
(……何を書いてるんだろう)
覗き込みたい。覗き込まない。患者のカルテかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。
窓の外で、子どもたちの声がする。「おてて先生ー! ニクラス先生もー! 木の実取れたよー!」
「呼ばれています。行きますか」
「……患者が来るまで、行くか」
二人で診療所を出た。看板の下をくぐって。
二つの名前が並んでいる。秋の光に照らされて。
どちらが先でもいい。隣にいるなら。
◇
夜。部屋の窓から、看板が見える。
月明かりに照らされた木の板。二つの名前。
学園の医務室には、私の名前はどこにも書かれていなかった。患者のカルテの担当欄にすら。聖女のヒーリングの一環として処理されていたから。
七年間、私の名前がない場所で働いた。
今、看板に名前がある。ニクラスの隣に。この村の人たちに読まれている。子どもたちが指でなぞっている。「め・い」って。
こんなに嬉しいことだったのか。名前が、あるべき場所にあるということは。
薬草茶を一口飲んだ。ニクラスが淹れてくれたもの。最近は私の分を毎晩持ってきてくれる。味は相変わらず不器用だけれど、毎日少しずつ薬草の配合が変わっている。
(……試行錯誤してるんだ。私の好みに合わせようとして)
気づいているけど、言わない。言ったらきっと「たまたまだ」とか言う。
マグを両手で包んだ。温かい。
──明日も、隣に立つ。どちらが先でも、隣に。




