第6話 あなたの手は呪いじゃない
神官が来た。
朝の診療が始まる前。村の入り口に馬車が一台停まって、白い法衣の男が降りてきた。クラウディア王国の巡回神官。各地の村を回って、聖女の教えを説き、「不正な魔法」の使用を監視する役目の人間。
「この村に、邪教の呪いを使う女がいると聞いた」
神官は五十がらみ。穏やかな声だが、目が笑っていない。
──来た。
分かっていた。村でよそ者が「手で触れて病を治す」という噂は、いつかこういう人間の耳に届く。学園の時もそうだった。「メイ・リンドグレーンの回復魔法は聖女のヒーリングとは異質のものだ」と、神殿の関係者が何度か調査に来た。その度に先輩の薬師が「学園の医務室での通常の治療です」と庇ってくれた。
もう庇ってくれる人はいない。
──いや。
「それは私のことですね」
一歩前に出た。背筋を伸ばして。震えてはいない。震えたくない。
神官が私を見た。上から下まで。値踏みするような目。
「手で触れて病を治すと聞いたが」
「はい。私の回復魔法は素手で触れることが発動条件です」
「聖女のヒーリングとは異なるものか」
「異なります。原理も効果も。聖女のヒーリングは広範囲の表面的回復。私の力は一対一の深部治療です」
「聖女に認められていない力は、邪教の呪いである可能性がある。この村の者たちの安全のために、あなたには村を離れていただく」
村人たちがざわめいた。
井戸端に集まっていたルーシーが声を上げた。「メイさんは呪いなんか使ってない! アンナを救ってくれたのよ!」
「お気持ちは分かりますが」
神官の声が柔らかくなった。──嫌な柔らかさだ。上から諭すような。「無知な村人を教え導く」という善意が、この人の中にある。善意が一番たちが悪い。
「聖女の教えに基づかない治療は──」
「治療記録がある」
声が割って入った。
ニクラスだった。
診療所の扉を開けて出てきた。手に分厚い帳簿を抱えている。日々の治療記録。私が来てからの全患者のカルテ。ニクラスが几帳面に書き続けている記録だ。
「この帳簿に、メイ・リンドグレーンの治療の全記録がある」
神官の前に立った。ニクラスの方が神官より背が高い。猫背が伸びている。初めて見る、ニクラスの真っ直ぐな背中。
「患者の名前。症状。治療内容。経過。結果。全て記録してある。医学的な観察記録だ。読めば分かる──この魔法は患者を傷つけていない。治している」
帳簿を神官に差し出した。
神官がページをめくる。几帳面な文字。図表。経過の数値。ニクラスの記録は正確で、詳細で、反論の余地がない。
「呪いが人を救うなら」
ニクラスの声が診療所の前に響いた。低い声。不器用な声。でも、はっきりした声。
「──俺は喜んで、呪いの共犯者になる」
◇
広場が静まった。
神官の手が帳簿の上で止まっている。村人たちが息を詰めている。
ルーシーが泣いていた。アンナがルーシーの裾にしがみついている。トビアスとライナとフリッツが、三人並んで私の後ろに立っていた。いつの間に。
「おてて先生は魔女じゃないもん!」
フリッツの声だった。高くて、はっきりした声。
「おてて先生、あたしの膝治してくれた!」とライナ。
「ぼくの風邪も!」とトビアス。
子どもたちの声が重なった。その後ろから、大人の声も。
「メイさんに井戸の水のことを教えてもらった」
「うちの婆さんの腰が楽になったんだ」
「診療所があるから、この村にいられるんだよ」
声が、声が重なっていく。一人、また一人。村の人たちが──この三ヶ月、私が手を当て、ニクラスが薬を渡し、二人で治療してきた人たちが、立っている。
私の味方として。
(……ああ)
目の奥が熱くなった。
学園では、こうはならなかった。私の治療を受けた人たちは、感謝はしてくれた。でも公の場で声を上げてはくれなかった。「魔女」と呼ばれるのが怖かったから。私もそれを責められなかった。
ここは違う。この村の人たちは、声を出してくれる。
神官が帳簿を閉じた。
長い沈黙。
「……記録は確認した。現時点では邪教の証拠は見当たらない。引き続き調査は行うが──今日のところは」
去っていった。馬車に乗り、村の入り口から出ていった。
◇
村人たちが散っていく。ルーシーが「メイさん、よかったね」と肩を叩いてくれた。子どもたちが「おてて先生! おてて先生!」と飛びついてきた。
一人ずつ頭を撫でて、「ありがとう。もう大丈夫だよ」と言った。
──大丈夫。本当に、大丈夫だった。
村人たちが家に帰った後、診療所の前にニクラスと二人残された。
夕日が山の稜線にかかっている。秋の空気が冷たい。
「ニクラス先生」
「何だ」
「……ありがとうございます」
声が震えた。止められなかった。
「治療記録。あの帳簿、先生が毎晩書いていたの、知っていました。でもまさか、こんな時のために──」
「違う。あれは医者としての義務で書いていた。今日のためではない」
「でも──」
「結果的に役に立っただけだ。礼を言われることじゃない」
ニクラスの声はいつも通り素っ気ない。でも帳簿を抱える手が、少しだけ震えていた。
この人も──緊張していたのだ。神官の前に立つのが怖くなかったはずがない。巡回神官の権限は大きい。下手をすれば診療所ごと閉鎖される。それでもニクラスは出てきた。帳簿を持って。
「呪いの共犯者、って」
笑おうとした。笑えなかった。涙が出た。
「……ありがとうございます。誰かに──そう言ってほしかった」
ニクラスが黙った。
長い沈黙。虫の声。山の風。
「お前の手は」
ニクラスの声が、ほんの少し柔らかくなった。この人の声がこんな温度になるのは初めて聞いた。
「呪いじゃない。俺が見てきた。俺の記録が証明している。──だから二度と、呪いだなんて思うな」
涙が止まらなくなった。
止めようとしたのに。我慢したのに。学園で「魔女」と呼ばれた時も泣かなかったのに。断罪の夜も泣かなかったのに。
ここで──この人の前で、崩れた。
ニクラスは何も言わなかった。慌てもしなかった。ただ診療所の扉を開けたまま、夕日の中に立っていた。
泣き止んだ時、秋の空に一番星が出ていた。
「……ニクラス先生」
「何だ」
「明日からも、よろしくお願いします」
「当然だ。患者が待っている」
短い言葉。でもそこに、帳簿一冊分の重みがあった。




