第5話 私は何もしていません
秋の風が山を越えてくる頃、村に行商人が来た。
月に一度の定期便。食料や日用品を運んでくるおじさんで、グスタフと名乗る。よく喋る人だ。荷を下ろしながら、王都の噂を教えてくれる。
「メイさん、王都がひどいことになってるよ」
診療所の前で荷車を停めて、グスタフが顔をしかめた。
「聖女様のヒーリングで治らない患者が増えてるんだとさ。慢性の関節炎、原因不明の腹痛、治りの悪い骨折。前は治ってたはずなのに、今は全然ダメだって」
──前は治っていた。
違う。前は私が治していた。
聖女のヒーリングは華やかだ。光を放ち、温かい風を起こし、見た目にも「奇跡」が分かる。でも効果は表面的で、体の深部には届かない。慢性疾患の患者たちを──関節炎のフリードリヒも、腹痛を繰り返していた伯爵家の令嬢も、骨折の後遺症を抱えた騎士団員も──密かに支えていたのは、放課後の医務室の私だった。
私がいなくなれば、あの人たちは再発する。
分かっていた。分かっていて、何もできない。
「それとね、もっとすごい話があるよ」
グスタフが声を潜めた。
「聖女様の恋人──フリードリヒ様が、持病を告白したんだって。『メイ・リンドグレーンに治してもらっていた』って」
心臓が跳ねた。
「フリードリヒ様が……?」
「そう。聖女様のヒーリングでは治らない持病を、追放された令嬢に治療してもらっていたってさ。宮廷は大騒ぎだよ。聖女のヒーリングが万能じゃないって証拠が出ちゃったわけだから」
フリードリヒ。
あの人が告白した。自分の持病を。私が治していたことを。
患者が──患者の側から、秘密を明かした。
(フリードリヒさん。あなたは……何を考えて)
私は患者の秘密を守って沈黙した。黙って追放された。フリードリヒを守るために。
それをフリードリヒ自身が覆した。自分の持病を公にして、私の名前を出した。
なぜ。
……なぜか、分かる気がする。持病が再発して、聖女のヒーリングでは治らなくて、苦しんだのだろう。そしてようやく、私が何をしていたか分かったのだ。
断罪の夜、私は黙って追放された。フリードリヒの名前を出さなかった。「聖女の恋人の持病を治療していました」と言えば、私の無実は証明できた。でもフリードリヒの秘密が公になる。だから黙った。
それを──フリードリヒ自身が、自分の言葉で明かした。
複雑だった。嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか。全部混ざっている。
嬉しいのは、私の治療が必要だったと認めてくれたこと。悲しいのは、再発するまで気づかなかったこと。怒りは──ない。不思議とない。医者は患者を恨まない。恨んだら手が震える。
グスタフが荷を下ろしながら続けた。
「メイさん、あなたのこと王都でもちらほら噂になってるよ。『追放された薬師が本当は聖女より腕が良かった』なんてね」
「……大げさです」
「大げさかねえ。うちの村のアンナちゃんを一晩で治した人がそう言うの?」
返事ができなかった。嬉しいのか悲しいのか、自分でも分からない。
◇
夜。
診療所の二階。私に割り当てられた部屋。窓の外に山の稜線と星空。
ベッドの上で膝を抱えて、考えていた。
フリードリヒの告白。聖女のヒーリングの限界が公になったこと。私の名前が王都で囁かれていること。
「……大丈夫かな、フリードリヒさん」
声に出していた。
ニクラスが階段を上がってきた音がした。扉をノックする音。
「メイ。明日の患者の話をしたい」
「はい。入ってください」
ニクラスが入ってきた。手にマグカップを二つ持っている。湯気が出ている。薬草茶。ニクラスが淹れてくれるお茶は、味は不器用だけど温かい。
マグを受け取った。指先が触れた。一瞬だけ。ニクラスの指は冷たかった。
「グスタフの話を聞いたか」
「はい」
「クラウディアの患者が困っている。お前はどう思う」
直球だ。この人はいつもそう。回りくどいことを言わない。
「……心配です」
正直に言った。
「フリードリヒさんの持病もそうですけど、私が学園で診ていた患者は他にもいます。みんな、聖女のヒーリングでは治しきれない症状を抱えていて。私がいなくなったら再発するって、分かっていました」
「分かっていて、何も言わなかったのか」
「言えなかったんです。患者の──」
「患者の秘密は命より重い。お前の口癖だ」
覚えていたのか。
「お前は」
ニクラスが薬草茶を一口飲んだ。
「自分を追い出した国の患者のことを、心配するのか」
「患者だったんです。患者の心配をしない医者はいないでしょう」
ニクラスが茶の表面を見つめた。長い沈黙。
「……敵わないな」
小さな声。聞こえるか聞こえないかの声。
「え?」
「独り言だ。──明日の患者の話をする。南の集落から二人来る。一人は慢性の腰痛。もう一人は原因不明の発疹。お前が触診して、俺が薬を──」
「はい」
いつもの流れ。いつもの連携。
でもニクラスが部屋を出ていく時、扉の前で少し立ち止まった。
「メイ」
「はい」
「お前の力を必要としている人間は──あの国だけじゃない」
それだけ言って、出ていった。
扉が閉まった後、薬草茶のマグを両手で包んだ。温かい。
(この人も、不器用な言い方をする)
「お前の力を必要としている人間は、あの国だけじゃない」。
つまり。
この村にも。この診療所にも。
──私を必要としてくれる人がいる。
◇
窓の外で梟が鳴いた。
フリードリヒの告白が、王都で波紋を広げているのだろう。聖女のヒーリングが万能ではないこと。追放された薬師が本当は患者を治していたこと。
私は何もしていない。ここで井戸の水を浄化して、子どもたちに手洗いを教えて、ニクラスと一緒に患者を診ているだけだ。
でも──何もしなくても、真実は漏れるものなのかもしれない。
(聖女のヒーリングでは治らない病がある。私の手なら、届く。その事実だけが──嘘より静かに、嘘より確実に広がっていく)
マグの薬草茶を飲み干した。
明日も患者が来る。明日も手を握る。
──私にできることは、変わらない。この手を当てること。それだけ。
それだけでいい。
夜の山が、静かに呼吸していた。
遠くで梟がもう一度鳴いた。同じ梟か、別の梟か。
掌を見た。月明かりの中で白く光っている。この手で明日も、誰かの痛みに触れる。
──それが怖いことじゃなくなった日を、まだ私は知らない。




