第4話 可愛すぎませんか
朝。診療所の裏庭で、薬草を干していた。
ラベンダーの束を紐で縛って、軒下の竿に吊るす。先輩の薬師に教わった乾燥法。日光に当てすぎると成分が飛ぶから、必ず日陰で。風通しがよくて、湿気の少ない場所。
ベルクハイムの空気はそれに最適だった。乾いていて、山の風がよく通る。
「メイ先生ー!」
声がした。裏庭の柵を越えて、子どもが二人転がり込んできた。
「ライナ、フリッツ、柵は越えないでって言ったでしょ」
「だって先生、トビアスがまた膝擦りむいたー!」
柵の向こうに、もう一人。泣きべそをかいた男の子が膝を押さえて座り込んでいる。七つか八つ。膝から血が出ている。
「はいはい。見せてごらん」
しゃがんだ。トビアスの膝の前で。
傷は浅い。石で擦っただけ。消毒して布を当てれば十分──だけど、この子は回復魔法を知っている。
「おてて、して」
トビアスが両手を差し出した。
「おてて」。この村の子どもたちが私の治療をそう呼ぶ。手を当てて治すから。最初に名付けたのはアンナだった。「おてて先生」。それが村中に広まって、今では大人まで使う。
困る。二十歳なのに。「先生」はいいとして「おてて」は少し──いや、可愛いけど。
「はい、おてて」
トビアスの膝に手のひらを当てた。力を通す。ほんの少しだけ。擦り傷程度なら一瞬で治る。
掌の下で、傷口がふさがっていく。血が止まる。肌が再生する。
「もう痛くないよ」
「すげー! おてて先生すげー!」
トビアスが飛び跳ねた。さっきまで泣いていたのに。子どもの回復力──精神的な方の──はいつも驚かされる。
「はい。でもトビアス、走る時は足元を見てね。三日連続で同じ場所を擦りむいてるから」
「わかったー!」
分かっていない顔で走っていった。ライナとフリッツが追いかける。裏庭が一気に騒がしくなった。
(……薬草の乾燥、やり直しだな。葉っぱが散った)
笑ってしまった。
◇
午前中は子どもたちの「衛生教室」をやっている。
診療所の前に敷物を広げて、村の子どもを集めて──と言っても七、八人だけど──簡単な衛生知識を教える。
「今日は手洗いの話です」
「またー?」
「また、です。大事なことは何度でも言います。さあ、手を見せて」
小さな手が並んだ。泥だらけの手。犬を撫でた後の手。芋を掘った手。
「お水だけで洗っても汚れは落ちません。石鹸──村にはないから、灰汁で代用します。灰汁を手のひらにつけて、指の間もこすって。爪の中も。はい、やってみて」
バケツの水で手を洗う。ばしゃばしゃと派手な音。水が飛び散る。
「メイ先生、これでいい?」
「うーん……ライナ、左手の親指が洗えてないよ」
「えー」
「もう一回」
こういう知識は、学園では当たり前だった。清潔な水。石鹸。消毒液。でもこの村にはそのどれもが不足している。だから代用品を教える。灰汁で手を洗う方法。水を煮沸してから飲むこと。傷口を清潔な布で覆うこと。
地味だけど、これが一番多くの人を救う。派手な回復魔法より、手洗いの習慣のほうが、長い目で見れば何倍も効果がある。
「なんでメイ先生は手を洗うと病気にならないって知ってるの?」
フリッツが不思議そうに訊いた。
「えっと……お勉強したからだよ」
「ふーん。メイ先生、すごいね」
すごくない。先輩の薬師から教わっただけだ。でもフリッツの真剣な顔を見ていると、教えることの責任を感じる。
この子たちが大人になった時、手洗いの習慣が当たり前になっていたら。それだけで、病気になる人が減る。
──私にできること。手を当てて治すこと。知識を教えること。この二つだ。
◇
昼過ぎ。
衛生教室を終えて片付けをしていたら、ニクラスが診療所の窓から顔を出した。
「患者が来た。子どもの骨折。お前が固定して、俺が添え木を当てる」
「はい」
走った。
患者は十歳くらいの男の子。木から落ちて左腕を折っていた。泣きじゃくっている。
「大丈夫、大丈夫。ちょっとだけ手を握らせてね」
左腕に手を当てた。力を通す。骨の状態を確認する。
「きれいな横骨折です。ずれはありません。骨膜は──少し裂けていますが、私の力で接合を促進できます。添え木で固定すれば二週間で動かせるようになります」
ニクラスが手際よく添え木を当てる。私が魔法で骨の接合を促しながら、ニクラスが物理的に固定する。
息が合う。言葉は最小限。ニクラスが「もう少し手前を」と言えば分かる。私が「ここ、少しずれています」と言えば直す。
治療が終わった。男の子は泣き止んで、母親に抱きかかえられて帰っていった。
「ニクラス先生、添え木の巻き方がきれいですね。いつも思いますけど」
「当然だ。巻き方が雑だと治りが遅い」
「私も教えてほしいです。力で骨をくっつけるのはできるんですけど、固定の技術は──」
「教える。明日の午前中に」
素っ気ない返事。でもニクラスの手が一瞬、使い終わった包帯を片づける動きの中で止まった。
「……お前は、教えるのも上手いな」
「え?」
「子どもたちに手洗いを教えている時の声を聞いていた。窓越しに」
聞いてたのか。
「落ち着いた声で、でも楽しそうで。子どもが真剣に聴いていた」
「……見てたんですか」
「聞いていただけだ。窓は開いていた」
耳が熱い。私の耳が。なんで。褒められただけなのに。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
ニクラスが薬棚に向かって歩いていった。背中が見える。白いシャツの背中。少し猫背。
「あ、ニクラス先生」
「何だ」
「子どもたち、先生のことも名前つけてますよ」
「知っている。"こわい先生"だろう」
「……知ってたんですね」
「子どもは正直だ」
背中がわずかに丸くなった。怒っているんじゃない。少しだけ、落ち込んでいる。
(……この人、患者に怖がられるのが嫌なんだ)
口に出さなかった。でも今度、子どもたちに「ニクラス先生は怖い顔だけど優しいんだよ」と教えておこう。
◇
夕方。
診療所の前で、子どもたちが遊んでいる。アンナがライナと手をつないで歌を歌っている。トビアスはまた転んだらしく、自分で膝の泥を払っている。手洗いは覚えたけど、転ばない方法はまだ覚えていない。
フリッツが走ってきた。
「メイ先生! ニクラス先生に聞いてほしいことがあるんだけど!」
「なあに?」
「おてて先生、ニクラス先生にもおててしてあげて。先生いつも疲れてるから」
──え。
「おててって、あの、手を握る……」
「そう! おてて先生の手、あったかいでしょ。ニクラス先生にもあっためてあげてよ!」
「それは──あの──」
「フリッツ」
ニクラスの声。いつの間にか診療所の入り口に立っていた。腕を組んでいる。こわい先生の顔。
「余計なことを言うな」
「えー、だってニクラス先生、いつも──」
「戻れ」
フリッツが舌を出して走り去った。
沈黙。
夕日が診療所の壁を橙色に染めている。虫の声が遠くで聞こえる。
「……気にするな。子どもの戯言だ」
「はい。気にしていません」
嘘だ。
顔が熱い。ニクラスの顔も──見えない。背を向けて診療所に戻っていくから。
でも、耳の先が──
赤い。気のせいじゃなかった。




