第3話 私の魔法は万能ではありません
井戸の水を一口飲んで、吐き出した。
鉄の味がする。いや、鉄だけじゃない。もっと嫌な味。舌の奥にべったり残る、腐った卵のような。
「……これ、飲んでるんですか」
隣でニクラスが腕を組んでいる。
「飲んでる。村にはこの井戸と、南の湧き水しかない。湧き水は遠いから、普段使いはこっちだ」
「これが原因じゃないですか」
「何の」
「村の人たちの不調です」
診療所に来て五日。ニクラスの許可を得て、村人の健康状態を診て回った。発熱、腹痛、倦怠感。ばらばらの症状に見えるが、共通点がある。全員この井戸の水を使っている。
ニクラスの目が鋭くなった。医者の目。
「水質の問題は疑っていた。だが検証の手段がない。煮沸すれば安全なはずだが、それでも具合の悪い人間が出る」
「煮沸で消える成分と消えない成分がありますよね。私が患者に触れた時、体内に微細な炎症が散在しているのを感じました。感染症というより、毒素の蓄積に似ています」
「毒素」
「水に溶けた鉱物質か、地下水の汚染か。私の力では体内の炎症を抑えることはできますが、原因の水をそのまま飲み続けたら、また同じことの繰り返しです」
ニクラスが黙った。井戸の縁に手をつき、水面を覗き込んでいる。
「つまりお前の魔法では──」
「根本原因は治せません。症状は抑えられます。でも水が変わらなければ、私は永遠に同じ治療を繰り返すだけになります」
正直に言った。隠してもしょうがない。
私の回復魔法は万能じゃない。外傷や急性の炎症には強い。でも毒物の蓄積や慢性の栄養不良には対処しきれない。治しても治しても原因が取り除かれなければ、いたちごっこだ。
「水の浄化は──医学の範囲ですか?」
「公衆衛生の範囲だ。井戸の構造を調べて、汚染源を特定して、浄化するか別の水源を確保するか」
「できますか」
「やったことはない。だが理屈は分かる」
ニクラスの声に熱が混じった。この人は知識への欲が強い。治せないものを治す方法があると分かれば、寝食を忘れて取り組む種類の人間だ。
「──やるぞ」
「はい」
◇
三日かかった。
ニクラスが井戸の構造を調べ、私が患者の体内に残る毒素の種類を力で「感じ取って」伝え、二人で突き合わせた。
結論。井戸の底に岩盤の裂け目があり、そこから硫黄を含む地下水が染み出していた。少量の硫黄化合物は煮沸では完全に除去できない。長期間の摂取で、消化器と肺に慢性の微小炎症を起こしていた。
「井戸の底を塞ぐか、別の水源を引く必要がある」
ニクラスが地図を広げた。診療所の机の上。薬瓶と包帯の間に紙を敷いて、村の周辺を書き込んでいく。
「南の湧き水は安全だが遠い。用水路を引くには人手と資金がいる。当面は──」
「当面は私が、患者の体内に溜まった毒素を力で押し出します。週に一度、全員分」
「全員分? 何人いると思ってる」
「七十人くらいですよね。一人十分として──」
「十二時間近くかかる。お前が倒れる」
「二日に分ければ大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろう。お前の力は体力を消耗する。初日のアンナの治療の後、お前の手が震えていたのを俺は見ている」
見ていたのか。
私の回復魔法は、力を使うたびに体力を消耗する。大掛かりな治療の後は指先がしびれて、立っているのがやっとになることもある。学園では治療の後に医務室のベッドで横になることが何度もあった。
「……交代でやりましょう。私が魔法で毒素を緩めて、ニクラス先生が薬で排出を促す。二段階なら一人あたりの負荷が半分になります」
ニクラスの手がペンを止めた。
「二段階」
「はい。私の魔法だけでも、先生の薬だけでも不十分です。両方合わせて、初めて全員を治せる」
ペンが机の上に転がった。ニクラスが私を見た。
──不思議な目だった。
敵意でも好奇心でもない。「なるほど」とでも言いたげな、納得の目。
「魔法だけでも医学だけでも足りない、か」
「はい」
「……使えるな、お前の手」
「褒め方が雑です」
口をついて出た。自分でも驚いた。ニクラスも一瞬目を見開いて、それから──
笑った。
いや、笑ったとは言えない。口の端が動いただけだ。でもあの無愛想な顔にしては大事件で、しかもその動きが妙に素朴で、不器用で──
(……ああ、この人、笑い慣れていないんだ)
胸の奥がほんの少し温かくなった。治療の余韻ではない。
◇
翌日から治療が始まった。
村人が一人ずつ診療所に来る。私が手を当てて体内の毒素を緩め、ニクラスが煎じ薬で排出を促す。二人一組。流れ作業。
「次の人どうぞ──ニクラス先生、三番目の方は消化器が弱っているので薬の濃度を半分に」
「分かった。──お前、五人目の後に休憩を入れろ。顔色が悪い」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないから言っている。座れ」
この人の「座れ」は命令じゃなくて処方だ。医者が患者に「安静に」と言うのと同じ調子で、私に休息を命じる。
言い返せない。だって正しいから。
水を一杯飲んで、五分だけ目を閉じた。
目を開けたら、ニクラスが私の分の昼食を机の上に置いていた。パンと干し肉とりんご。いつの間に用意したのだろう。
「食え。体力が落ちた状態で魔法を使うな」
「……ありがとうございます」
「礼を言う暇があれば食え」
食べた。パンが硬い。りんごは酸っぱい。干し肉はしょっぱい。
──おいしかった。
理由は分からない。味じゃない何かが、おいしかった。
◇
一週間で、村人全員の初回治療が終わった。
井戸には暫定的にニクラスが作った濾過装置を取り付けた。完全ではないが、硫黄化合物の大部分を除去できる。
村の空気が変わった。通りに人が出るようになった。窓が開いた。子どもの声が聞こえるようになった。
井戸端でルーシーが水を汲んでいた。アンナがその横で走り回っている。元気だ。頬が赤い。今度は熱じゃなくて、走り回った血色の赤。
「メイさん! ニクラス先生! アンナがね、今日初めて丘の上まで走れたのよ!」
ルーシーが手を振った。
「よかった」
声に出した。隣でニクラスが腕を組んでいる。
「水の問題はまだ完全には解決していない。用水路の建設に取りかかる必要がある」
「はい」
「お前の魔法がなければ、俺一人では全員の治療に三ヶ月はかかった」
「ニクラス先生の濾過装置がなければ、私の治療は焼け石に水でした」
ニクラスが横を向いた。何か言いかけて、やめた。
耳が──赤い?
気のせいか。山の冷たい風のせいだ。たぶん。
「……今日の患者は午後から三人だ。準備しろ」
「はい」
診療所に戻る。二人並んで。
足並みが、少しだけ揃っていた。




