第2話 山奥の村に医者がいました
山の空気は、冷たくて透明だった。
街道を外れてから三日。馬車は二日目に乗り継ぎが途絶えて、残りは徒歩だった。ドレスはとっくに裾を切り詰めて歩きやすくしてある。革鞄が肩に食い込む。足の裏に豆ができた。
でも空気がいい。王都の重い空気とも、学園の消毒液の匂いとも違う。木の香り。土の匂い。どこかで水が流れる音がする。
山道を登りきった先に、村が見えた。
ベルクハイム。山間の寒村。石造りの家が二十軒ほど。畑は少なく、牧草地が広がっている。羊の鳴き声が谷に響いている。
──小さい。
でも嫌いじゃない。この規模なら、一人の薬師でも全員の健康を見られる。
村の入り口に差し掛かったところで、異様な光景に気づいた。
家の窓が閉まっている。昼間なのに。通りに人がいない。井戸端に女性が一人、顔色の悪い子どもを抱えて座り込んでいた。
「あの、大丈夫ですか」
声をかけた。女性が顔を上げた。目の下に深い隈。子どもの額に手を当てると──熱い。かなり高い。
「この子、熱がありますね。いつからですか」
「三日前から……村の先生に診てもらったんだけど、薬が効かなくて……」
「先生?」
「ニクラス先生。うちの村の医者よ」
医者がいる。この村に。
「先生のところに行ってもいいですか? 私、薬師なんです」
女性の目が少し明るくなった。「本当? じゃあ──あの家よ。角を曲がった突き当たりの」
◇
突き当たりの家は、他の家より少しだけ大きかった。
扉に木の板が打ちつけてある。板に文字が彫ってある。『診療所』。だが板はひび割れて、文字は半分消えかかっている。
扉を叩いた。
「ニクラス先生、いらっしゃいますか」
返事がない。
もう一度叩いた。中から、椅子を引きずるような音がして、扉が荒っぽく開いた。
「──何だ」
男が立っていた。
二十代半ば。背は高いが、猫背気味。シャツの袖をまくり上げていて、腕に薬草の煮汁の跡がこびりついている。顎には無精ひげ。目の下に隈。髪はぼさぼさ。
──お医者さん、だよね?
「あの……」
「患者か」
「いえ、私は薬師で──」
「よそ者か。宿なら向かいの家に訊け」
扉を閉めようとした。
「待ってください。井戸端にいた女の人のお子さんが高熱で──」
「知ってる。ルーシーの子だろう。薬は出した。効かないのは分かっている。煎じ薬の限界だ」
ぶっきらぼうな声。でも「限界だ」と言った時、わずかに目が翳った。
(この人、治せないことに苛立っている)
「見せていただけますか。お子さんを」
「お前に何ができる」
「私の回復魔法なら──」
ニクラスの目が変わった。険しくなった。
「回復魔法? この村に魔法使いなど必要ない。まっとうな医学で──」
「お子さんの熱が三日下がらないんですよね。煎じ薬が効かないなら、炎症が薬の届かない深部にある可能性があります。私の力なら──」
「帰れ」
扉が閉まった。鼻先で。
◇
帰らなかった。
扉の前に座った。革鞄を枕にして。石段は冷たいけど、学園の医務室の廊下で徹夜した時よりましだ。
一時間ほど経った頃、通りの向こうから泣き声が聞こえた。さっきの女性──ルーシーの声だ。
「ニクラス先生! アンナの熱がもっと上がって──先生!」
走った。
ルーシーの家に着いた時、小さな女の子が寝台の上でぐったりしていた。五つか六つ。赤い頬。荒い呼吸。額に手を当てた。
──熱い。四十度はある。
ニクラスが駆けつけてきた。聴診器代わりの木管を子どもの胸に当て、呼吸音を聴いている。顔が険しい。
「肺に炎が入っている。煎じ薬では──」
「間に合わない」
私の声が出ていた。
ニクラスが振り返った。門前払いした女がまだいることに驚いている。
「触らせてください。この子の胸に手を当てるだけです。一分で──」
「何をする気だ」
「治します」
もう待てなかった。患者の前で口論している暇はない。
ニクラスの返事を待たずに、アンナの手を握った。
温かい。小さい。震えている。
目を閉じた。力を通す。掌から指先に集中して、子どもの体の中に意識を沈めていく。
──見えた。
肺の中、気管支の末端に炎症の塊。膿が溜まりかけている。煎じ薬は胃から吸収されて血流に乗るけど、この深さまでは届かない。聖女のヒーリングでも同じだ。表面を撫でるだけの力では、この奥に手が届かない。
でも、私の力は違う。
手のひらの熱を、指先を通して、体の奥まで送り込む。炎症の根に触れる。押さえる。鎮める。
掌の下で、アンナの呼吸が変わった。荒かった息が、少しずつ穏やかになる。
熱が引いていく。指先で分かる。三十九度。三十八度。まだ高いけど、峠は越えた。
手を離した。
アンナが目を開けた。ぼんやりした目で、私を見て──
「……おねえちゃん、だれ?」
「通りすがりの薬師さんだよ」
笑った。笑えた。
ルーシーがアンナを抱きしめて泣いている。
◇
振り返ったら、ニクラスが扉の枠にもたれて、腕を組んで立っていた。
さっきまでの険しい目とは違う。観察している目。医者の目。患者に向ける目と同じ──いや、少し違う。未知のものに向ける研究者の目。
「……その魔法は、何だ」
声から敵意が消えていた。代わりにあるのは、純粋な疑問。
「回復魔法です。素手で触れて、体の内部に力を通して、炎症や損傷を治します」
「聖女のヒーリングとは違うのか」
「全然違います。聖女のヒーリングは広範囲で表面的。私のは一人ずつ、狭くて深い。だから慢性疾患にも対応できます」
ニクラスが腕を解いた。一歩前に出た。
「体の中の状態を、触れるだけで把握できるのか」
「触診じゃなくて──力を通す過程で、異常のある場所が分かるんです。熱の偏りや、組織の硬さで」
ニクラスの目が鋭くなった。「手術で切り開かなくても、中の状態が見えるということか」
「見えるというか……感じる、に近いです」
「お前、名前は」
「メイ・リンドグレーンです」
「メイ」
繰り返された。ぶっきらぼうに。
「──村に泊まる場所はない。うちの診療所の空き部屋を使え。ただし条件がある」
「条件?」
「お前の魔法を、俺に説明しろ。全部だ。原理、限界、副作用。全部。医者として知っておく必要がある」
条件というより、好奇心だ。この人は治すことに真剣な人だ。
「……はい。説明します」
「それと」
「はい」
「村の人間に『魔女』と呼ばれるかもしれない。俺には止められない」
ああ、またか。
──でも。
「慣れてます」
ニクラスの眉がわずかに動いた。何か言いかけて、やめた。
「……来い」
背中を見せて歩き出した。診療所の扉を開け放したまま。
入り口の木の板──『診療所』の文字が、夕日を受けて光っていた。
この村に、私の手を必要としている人がいる。
──ここでいい。ここがいい。
革鞄を握り直して、診療所の扉をくぐった。
消毒液の匂いがした。学園の医務室と同じ匂い。少しだけ、懐かしかった。




