表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
メイ編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/40

第2話 山奥の村に医者がいました

山の空気は、冷たくて透明だった。


街道を外れてから三日。馬車は二日目に乗り継ぎが途絶えて、残りは徒歩だった。ドレスはとっくに裾を切り詰めて歩きやすくしてある。革鞄が肩に食い込む。足の裏に豆ができた。


でも空気がいい。王都の重い空気とも、学園の消毒液の匂いとも違う。木の香り。土の匂い。どこかで水が流れる音がする。


山道を登りきった先に、村が見えた。


ベルクハイム。山間の寒村。石造りの家が二十軒ほど。畑は少なく、牧草地が広がっている。羊の鳴き声が谷に響いている。


──小さい。


でも嫌いじゃない。この規模なら、一人の薬師でも全員の健康を見られる。


村の入り口に差し掛かったところで、異様な光景に気づいた。


家の窓が閉まっている。昼間なのに。通りに人がいない。井戸端に女性が一人、顔色の悪い子どもを抱えて座り込んでいた。


「あの、大丈夫ですか」


声をかけた。女性が顔を上げた。目の下に深い隈。子どもの額に手を当てると──熱い。かなり高い。


「この子、熱がありますね。いつからですか」


「三日前から……村の先生に診てもらったんだけど、薬が効かなくて……」


「先生?」


「ニクラス先生。うちの村の医者よ」


医者がいる。この村に。


「先生のところに行ってもいいですか? 私、薬師なんです」


女性の目が少し明るくなった。「本当? じゃあ──あの家よ。角を曲がった突き当たりの」



突き当たりの家は、他の家より少しだけ大きかった。


扉に木の板が打ちつけてある。板に文字が彫ってある。『診療所』。だが板はひび割れて、文字は半分消えかかっている。


扉を叩いた。


「ニクラス先生、いらっしゃいますか」


返事がない。


もう一度叩いた。中から、椅子を引きずるような音がして、扉が荒っぽく開いた。


「──何だ」


男が立っていた。


二十代半ば。背は高いが、猫背気味。シャツの袖をまくり上げていて、腕に薬草の煮汁の跡がこびりついている。顎には無精ひげ。目の下に隈。髪はぼさぼさ。


──お医者さん、だよね?


「あの……」


「患者か」


「いえ、私は薬師で──」


「よそ者か。宿なら向かいの家に訊け」


扉を閉めようとした。


「待ってください。井戸端にいた女の人のお子さんが高熱で──」


「知ってる。ルーシーの子だろう。薬は出した。効かないのは分かっている。煎じ薬の限界だ」


ぶっきらぼうな声。でも「限界だ」と言った時、わずかに目が翳った。


(この人、治せないことに苛立っている)


「見せていただけますか。お子さんを」


「お前に何ができる」


「私の回復魔法なら──」


ニクラスの目が変わった。険しくなった。


「回復魔法? この村に魔法使いなど必要ない。まっとうな医学で──」


「お子さんの熱が三日下がらないんですよね。煎じ薬が効かないなら、炎症が薬の届かない深部にある可能性があります。私の力なら──」


「帰れ」


扉が閉まった。鼻先で。



帰らなかった。


扉の前に座った。革鞄を枕にして。石段は冷たいけど、学園の医務室の廊下で徹夜した時よりましだ。


一時間ほど経った頃、通りの向こうから泣き声が聞こえた。さっきの女性──ルーシーの声だ。


「ニクラス先生! アンナの熱がもっと上がって──先生!」


走った。


ルーシーの家に着いた時、小さな女の子が寝台の上でぐったりしていた。五つか六つ。赤い頬。荒い呼吸。額に手を当てた。


──熱い。四十度はある。


ニクラスが駆けつけてきた。聴診器代わりの木管を子どもの胸に当て、呼吸音を聴いている。顔が険しい。


「肺に炎が入っている。煎じ薬では──」


「間に合わない」


私の声が出ていた。


ニクラスが振り返った。門前払いした女がまだいることに驚いている。


「触らせてください。この子の胸に手を当てるだけです。一分で──」


「何をする気だ」


「治します」


もう待てなかった。患者の前で口論している暇はない。


ニクラスの返事を待たずに、アンナの手を握った。


温かい。小さい。震えている。


目を閉じた。力を通す。掌から指先に集中して、子どもの体の中に意識を沈めていく。


──見えた。


肺の中、気管支の末端に炎症の塊。膿が溜まりかけている。煎じ薬は胃から吸収されて血流に乗るけど、この深さまでは届かない。聖女のヒーリングでも同じだ。表面を撫でるだけの力では、この奥に手が届かない。


でも、私の力は違う。


手のひらの熱を、指先を通して、体の奥まで送り込む。炎症の根に触れる。押さえる。鎮める。


掌の下で、アンナの呼吸が変わった。荒かった息が、少しずつ穏やかになる。


熱が引いていく。指先で分かる。三十九度。三十八度。まだ高いけど、峠は越えた。


手を離した。


アンナが目を開けた。ぼんやりした目で、私を見て──


「……おねえちゃん、だれ?」


「通りすがりの薬師さんだよ」


笑った。笑えた。


ルーシーがアンナを抱きしめて泣いている。



振り返ったら、ニクラスが扉の枠にもたれて、腕を組んで立っていた。


さっきまでの険しい目とは違う。観察している目。医者の目。患者に向ける目と同じ──いや、少し違う。未知のものに向ける研究者の目。


「……その魔法は、何だ」


声から敵意が消えていた。代わりにあるのは、純粋な疑問。


「回復魔法です。素手で触れて、体の内部に力を通して、炎症や損傷を治します」


「聖女のヒーリングとは違うのか」


「全然違います。聖女のヒーリングは広範囲で表面的。私のは一人ずつ、狭くて深い。だから慢性疾患にも対応できます」


ニクラスが腕を解いた。一歩前に出た。


「体の中の状態を、触れるだけで把握できるのか」


「触診じゃなくて──力を通す過程で、異常のある場所が分かるんです。熱の偏りや、組織の硬さで」


ニクラスの目が鋭くなった。「手術で切り開かなくても、中の状態が見えるということか」


「見えるというか……感じる、に近いです」


「お前、名前は」


「メイ・リンドグレーンです」


「メイ」


繰り返された。ぶっきらぼうに。


「──村に泊まる場所はない。うちの診療所の空き部屋を使え。ただし条件がある」


「条件?」


「お前の魔法を、俺に説明しろ。全部だ。原理、限界、副作用。全部。医者として知っておく必要がある」


条件というより、好奇心だ。この人は治すことに真剣な人だ。


「……はい。説明します」


「それと」


「はい」


「村の人間に『魔女』と呼ばれるかもしれない。俺には止められない」


ああ、またか。


──でも。


「慣れてます」


ニクラスの眉がわずかに動いた。何か言いかけて、やめた。


「……来い」


背中を見せて歩き出した。診療所の扉を開け放したまま。


入り口の木の板──『診療所』の文字が、夕日を受けて光っていた。


この村に、私の手を必要としている人がいる。


──ここでいい。ここがいい。


革鞄を握り直して、診療所の扉をくぐった。


消毒液の匂いがした。学園の医務室と同じ匂い。少しだけ、懐かしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ