第10話 あと二人
連載第三回が出た朝、港町が静かだった。
いつもなら配布開始の時間には酒場の前に人だかりができるのに、今日は──誰もいない。不気味な静けさだった。
三十分後、理由が分かった。全員、もう手に入れていたのだ。夜明け前に配布した紙面を、開店前の酒場の前で取り合って。わたくしが到着した時にはもう読み終えている。
◇
連載第三回。『聖女の奉納金と消えた資金──数字が語る七年間の真実』。
帳簿の数字。公式記録との差額。支援者への謝礼の流れ。──全て事実。全て数字。感想は一行もない。
三回の連載を通して、読者は自分の目で事実を辿り、自分の頭で結論に辿り着いた。
わたくしが書いたのは道筋だけだ。歩いたのは読者自身。
◇
反響は、津波のように来た。
王都の商人ギルドが連載の全三回を複写し、議会に提出した。「奉納金の使途について公式の調査を求める」──商人たちの嘆願書には八十七名の署名が並んでいた。
北部と東部の対立で揺れていた貴族たちの間にも、紙面が広がった。聖女の「支援者」として謝礼を受け取っていた貴族の名前は記事にしていない。けれど帳簿の数字を見れば、該当者には心当たりがあるはずだ。
「名前を出さないのがえげつない」とグスタフが笑った。「名前がないから、心当たりのある奴全員がびくびくしてる」。
(名前を出さなかったのは、情報源の安全のためよ。──結果的にえげつないのは、否定しないわ)
◇
聖女側からの反撃は、予想通り来た。
「新聞の発行停止を命じよ」──聖女の支援者から王都の管理局に正式な要請が出された。
オスカーのもとにも通達が届いた。「マーレブルク通信の発行停止審査を行え」。
オスカーが印刷所に来た。通達を見せてくれた。今度は管理局長の署名入り。正式な命令だ。
わたくしの手が冷たくなった。
「──どうなりますか」
「発行停止審査には、法的根拠の審査が含まれます。記事に法令違反があるかどうかを、管理局が検証する」
「法令違反は──」
「ありません」
オスカーが言い切った。迷いのない声だった。
「全三回の連載を、私は全て事前に確認しています。公開情報のみで構成され、名誉毀損にあたる表現はなく、文書管理法の規定に完全に準拠している。──法的に問題はない。私が保証する」
オスカーが管理局に返答書を送った。
「当職の検閲審査の結果、当該刊行物に法令違反は認められず、発行停止の法的根拠は存在しない。よって審査請求は棄却相当と判断する。文書管理官オスカー・ブレンナー」
わたくしは返答書の写しを読んで、長い間黙っていた。
この一枚の紙が、どれほどの重みを持つか。管理局の正式な検閲官が、自分の署名と地位をかけて「問題ない」と宣言した。これを覆すには、オスカー自身を処分するか、法令そのものを改正するしかない。
「……あなた、これを出したら立場が危うくなるのでは」
「法に基づいた判断です。──立場が危うくなるなら、法の運用に問題があるということです」
(この人は──)
わたくしは笑った。泣きそうだったけれど、笑った。
◇
発行停止は、却下された。
オスカーの返答書が管理局を通り、法務官の確認を経て、正式に「問題なし」の裁定が出た。
『マーレブルク通信』は生き残った。
そして──王都に調査委員会が設置された。聖女マリアベルの奉納金の使途と、断罪された五人の令嬢の処遇について、正式な調査が始まる。
◇
調査委員会設置の知らせと前後して、グスタフが四つの噂を持ち帰ってきた。
「クラウディアの南にある小国で、通商条約が締結されたらしい。交渉をまとめたのは、どこの国にも属さない若い女の外交顧問だそうだ」
(──リーリエ)
「国境の砦町グレンツで、人身売買組織の拠点が潰されたって話もある。元締めは聖女の支援者だったヴェルナー侯爵の関係者。潰したのは地元の用心棒と、フェーレンの捜査官らしい」
(──カティア。やっぱりあなたは拳を止めなかったのね)
「それから南の山間の村に、手で触れて病を治す若い薬師が来ているって噂。聖女のヒーリングとは全然違う、もっと丁寧な治療らしい」
(──メイ)
三人の消息を聞いて、胸の奥が温かくなった。皆、散り散りになった先で、自分の力を使っている。
そして四つ目。これはグスタフではなく、投書箱に入っていた。差出人のない小さな手紙。丸い字。少し歪んでいる。
『ソフィアさんの新聞、夢で読みました。とても素敵でした。──五人は、大丈夫です』
……意味が分からない。夢で新聞を読んだ?
筆跡に覚えがあった。半年前、「港町に行くと素敵なことがありますよ」と寝ぼけながら言った子の字だ。
(ヴィオラ。あなたは一体、何を見ているの)
手紙を引き出しにしまった。カティアの秘密の隣に。いつか全てが繋がる日まで。
◇
調査委員会設置の知らせを受けた日、印刷所でフランツとお茶を飲んでいたら、扉が開いた。
オスカーだった。
いつもの黒い外套ではない。私服だ。白いシャツに、よれたジャケット。手には──紙袋。中から果物が覗いている。
「……今日は検閲ですか?」
「いいえ」
オスカーが一歩、踏み込んだ。
「管理局を辞職しました」
わたくしの手からお茶の杯が落ちかけた。
「──は?」
「法務の知識を、別の場所で使いたいと思いました。──具体的には」
オスカーが紙袋を机に置いた。果物の上に、一枚の紙が載っている。
手に取った。
履歴書だった。
「あなたの新聞の、法務担当になりたい」
わたくしはしばらく、その履歴書を見つめていた。几帳面な文字。一切の飾りがない、事実だけの経歴。まるでこの人の文章のように。
「……検閲官が味方になるなんて、反則ですわ」
声が掠れた。
「検閲官ではありません。もう辞めましたから」
「では何ですか」
「あなたの新聞の──」
「法務担当。聞きましたわ」
フランツが奥から大声を出した。「採用!」
「わたくしが決めます!」
振り返って怒鳴ったが、もう顔が緩んでいるのが自分で分かった。
◇
夕方、新聞の紙面を組みながら──ふと、四面の隅に小さなスペースが空いていることに気づいた。
「ここに何か入れましょうか」
オスカーが横から覗き込んだ。早速、法務担当として紙面の確認をしている。真面目だ。
「……求人広告はどうですか」
「求人?」
「たとえば──『優秀な薬師を募集。港町の診療所にて。経験不問。温かい手をお持ちの方歓迎』」
前に聞いた噂がある。港町の南に、山間の村から薬師が来ているという話。名前は分からない。ただ、その薬師は手で触れて人を治すのだという。
(──まさかね。でも、もし)
「良い広告ですね」
オスカーが小さく頷いた。
活字を組む。小さな求人広告。紙面の片隅に。
誰に届くか分からない。でも──届くべき人のもとに、届いてほしい。
◇
窓の外に夕陽が差し込んでいる。港の海面が金色に光っている。
印刷所にはインクの匂いと、果物の甘い匂いと、フランツの煙草の匂いが混じっている。
そしてもう一人分の──真面目な制服の匂いではなく、洗いざらしのシャツの匂いが。
「第一号から考えると、ずいぶん遠くまで来ましたわね」
「……まだ途中です。連載は反響を呼びましたが、調査委員会の結論が出るまでは」
「ええ。まだ途中。──でも」
印刷機に手を触れた。フランツが三十年回してきた鋳鉄の機械。わたくしの言葉を紙に刻む、この町で一番正直な道具。
「この新聞は、止まりませんわ」
オスカーが隣に立った。果物をかじりながら。ジャケットの袖にインクが少しついている。もう、気にしていないようだった。
夕陽が印刷所の奥まで届いて、活字棚の鉛の文字を一つ一つ照らしている。
小さな光。小さな文字。
それが束になれば──世界だって、変えられる。
ソフィア編完です!!




