第9話 あなたは取材対象ではありません
脅迫の手紙は、三通目から数えるのをやめた。
◇
連載第二回を出した翌日から、手紙が届き始めた。
「記事を取り下げろ」「港から出て行け」「身の安全を考えるなら」
差出人はない。筆跡はばらばら。けれど封蝋の紋章が一通だけ残っていたものがあり、それはクラウディアの貴族のものだった。聖女の「支援者」に連なる家だ。
(……追い詰められているのは、あちら側ね)
脅迫が来るということは、記事が効いているということだ。効いていなければ無視すればいい。わざわざ脅迫するのは、無視できないからだ。
フランツには伝えた。「危険かもしれない。離れたいなら──」
「馬鹿を言うな。三十年やってきた印刷所を、紙切れ一枚で閉めてたまるか」
フランツはインクの缶を棚に叩きつけて、それ以上何も言わなかった。
◇
オスカーにも伝えた。
脅迫の手紙を見せた瞬間、オスカーの表情が──初めて、はっきりと変わった。
怒り。
それまで見たことのない、明確な怒りだった。眉が寄り、唇が引き結ばれ、手帳を握る手が白くなった。
「……これは脅迫罪に該当します。管理局ではなく、治安判事の管轄です」
「届け出ますか?」
「届け出るべきです。しかし──」
「しかし?」
「差出人が特定できなければ、実効的な対応は難しい」
分かっている。脅迫の手紙は匿名だ。封蝋の紋章も偽造の可能性がある。
「では、気をつけて過ごすしかありませんわね」
「……護衛をつけるべきです」
「護衛? 港町の新聞屋に?」
「検閲対象の安全確保は管理局の──」
「そんな規定はないでしょう」
オスカーが黙った。耳が赤い。
「──私が同行します」
「え?」
「取材の同行確認です。記事の内容が法令に抵触しないか、現場で確認する必要がある。──規定にはありませんが、前例もありません」
(……この人は、本当に)
わたくしは笑いを噛み殺した。検閲官が取材に同行する。前代未聞だろう。けれどオスカーの顔は真剣そのもので、冗談を言っている表情ではなかった。
「──では、お願いしますわ。明日から忙しいですよ。連載第三回の取材がありますから」
◇
それから一週間、オスカーはわたくしの取材に同行した。
港で商人に話を聞くとき、横に立っている。路地裏で情報提供者に会うとき、三歩後ろにいる。記事の裏取りで役所を回るとき、黙って付いてくる。
邪魔かと思ったが、意外にそうでもなかった。
オスカーは話を聞く時、相手の目を見る。口は挟まない。メモも取らない。ただ聞いている。その真面目な佇まいが、不思議と情報提供者の警戒を解くことがあった。
「あの堅物の文官が一緒にいるなら、信用できるだろう」
ある商人がそう言ったのを、聞こえないふりをした。
◇
連載第三回の校正を終えた夜。
印刷所に二人きりだった。フランツは明日の印刷に備えて先に帰っている。
わたくしは校正刷りを読み返していた。奉納金の不正支出。支援者への謝礼の詳細。聖女の権力構造。──全て、数字と証拠で構成した。一点の瑕疵もなく。
目が疲れて、椅子の背にもたれた。
蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れている。オスカーは向かいの椅子で、手帳に何かを書いていた。今日の同行記録だろう。真面目だ。どこまでも。
「……オスカーさん」
「はい」
「護衛のお仕事、お疲れ様です。もう遅いですから、帰られた方が」
「帰ります。──校正が終わったら」
「わたくしの校正を待っているんですか?」
「……検閲対象が完成するまで、確認の義務が──」
「ありませんわ、そんな義務」
オスカーが黙った。
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が一度大きく揺れて、二人の影を壁に映した。
わたくしは目を閉じかけていた。疲れている。一週間、取材と校正と脅迫への対応で、ろくに眠っていない。椅子の上で、意識が少し遠くなった。
──気づいたら、肩に何か温かいものが載っていた。
目を開けた。オスカーの外套。黒い布地。まだ体温が残っている。
オスカーは立ったまま、視線を逸らしていた。
「……風邪を引きます」
「あなたの方が寒いでしょう」
「文官の制服は厚手です。──問題ありません」
嘘だ。制服のシャツだけで、この人の腕に鳥肌が立っている。
「オスカーさん」
「はい」
「なぜ、ここにいるんですか。検閲のためだけなら、もうとっくに帰っていい時間です」
長い沈黙。
蝋燭が音を立てて燃えている。外から、遠くの波の音。
「……俺は」
一人称が変わった。いつもの「私」ではなく。
「あなたの書く文章が、好きだ」
わたくしの心臓が、一つ大きく脈を打った。
「事実だけを書いている。感情に流されない。けれど──読む人の心を動かす。言葉を、信じている人が書く文章だ」
オスカーはまだ目を逸らしている。耳は赤い。けれど声は震えていなかった。
「最初に創刊号を読んだ時から──この文章を書く人間に、会ってみたいと思った。検閲の任務がなくても」
(……ああ)
わたくしは人の嘘を見抜くのが仕事だ。七年間、社交界の仮面の裏を覗き続けた。甘い言葉の裏にある打算を、何百回と見てきた。
この人の言葉には、嘘がない。打算もない。ただ──不器用な、剥き出しの本心だけがある。
「オスカーさん」
「はい」
「わたくしは人の嘘を見抜くのが仕事なんです」
「……知っています」
「あなたの言葉に、嘘はありませんわね」
オスカーがようやく、こちらを見た。
真っ直ぐな目。法の番人の、あの不器用な目。
「──取材対象に恋をしてはいけないのは知っていますわ。前世の編集部で、厳しく教え込まれましたもの」
わたくしは外套を肩に乗せたまま、立ち上がった。
「でもあなたは取材対象ではありません。検閲官で、法の番人で、差し入れの下手な人で」
オスカーの耳が限界まで赤くなった。
「……差し入れは、次から改善します」
「果物がいいと言いましたわよね」
「覚えています」
わたくしは笑った。蝋燭の灯りの中で、たぶんこの港町に来て一番穏やかな顔で。
外套を返した。指先がかすかに触れた。オスカーの手は、冷たかった。ずっと外套なしで座っていたのだから当然だ。
(──この人は、本当に不器用で、本当に真っ直ぐだ)
「明日、第三回を刷ります。──見届けてくださいますか、検閲官殿」
「……職務として」
「ええ。職務として」
夜の印刷所に、蝋燭の灯りだけが揺れていた。
二人の間に、言葉にならない何かが──けれど確かに、在った。




