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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
ソフィア編

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第6話 私がいなくなったからでしょうね

その知らせは、港に入った商船の船長がもたらした。



「クラウディアの社交界、荒れてるぜ」


馴染みになった商人のグスタフが、酒場でそう言った。取材の一環でグスタフとは週に一度会う。各地の情報を持ち帰る彼は、わたくしにとって一番の情報源だ。


「北部の侯爵家と東部の伯爵家が手切れ寸前だそうだ。仲裁する人間がいないってよ。それから、去年の秋に揉み消された横領事件の噂が再燃してて、社交界の半分が疑心暗鬼になってる」


「情報の出所は?」


「王都に出入りしてる仲買人。三人から同じ話を聞いたから、たぶん本当だ」


パンを噛み切りながら、頭の中で地図を広げた。


北部の侯爵家と東部の伯爵家。この二家の対立は七年前からくすぶっていた。領地の境界紛争。わたくしが情報の流れを調整して、双方に「今動けば不利になる」という認識を持たせ続けることで、辛うじて均衡を保っていた。双方の使用人から定期的に状況を聞き取り、危険な兆候があればさりげなく牽制の噂を流す。地味で、終わりのない仕事だった。


(──わたくしがいなくなれば、あの均衡は三ヶ月持たない。三ヶ月で崩れるだろうと、断罪の夜に計算していた)


計算通りだ。


横領事件の再燃も想定内。あの事件はわたくしが揉み消したのではない。証拠を第三者に預け、関係者に「いつでも表に出せる」と示すことで、再発を防いでいたのだ。わたくしという抑止力が消えれば、預けた証拠を管理する者もいない。


「大変ですわね」


「他人事みてえに言うな。お前さん、もしかしてクラウディアの──」


「ただの港町の新聞屋ですわ」


グスタフの目が訝しげだったが、それ以上は訊かなかった。商人は踏み込みすぎない。



印刷所に戻ると、オスカーが来ていた。


今日は差し入れではなく、真面目な顔だった。いつも真面目だけれど、今日の真面目は角が立っている。


「クラウディアの宮廷文書管理局から通達が来ました」


「通達?」


「港湾都市における印刷物の監視を強化せよ、と。──名指しではありませんが、『マーレブルク通信』の存在が王都に届いているようです」


やはり。第五号の井戸の記事が、どこかを通じて王都に流れたのだろう。港町の不正を暴く記事が増えれば、王都の人間は警戒する。


「具体的に何を?」


「記事の事前チェックの頻度を上げろとのことです。現状の包括審査ではなく、号ごとの確認に切り替える可能性がある」


号ごとの確認。つまり事前検閲の強化だ。毎号、刷る前にオスカーの承認が要るということになる。


「……あなたは、それに従うんですか」


オスカーの表情が動かない。


「法に基づく指示であれば、従います」


「法に基づいている、と思いますか?」


沈黙。


長い沈黙だった。フランツが奥で活字を組む音だけが響いている。かちり。かちり。鉛の文字が並んでいく音。


「……通達には法的根拠の記載がありません。管理局長の署名もない。運用指針の変更に過ぎず、法令の改正ではない」


オスカーの声は平坦だった。けれど──指先が少し白くなっていた。通達の紙を握っている。


「つまり、現行の包括審査は有効のままですか」


「有効です。──今のところは」


わたくしは息を吐いた。


「オスカーさん」


「はい」


「あなたは法の番人ですわね。法が正しく運用されているかを見守る人」


「そうです」


「わたくしは事実の番人になろうとしています。事実が正しく届けられているかを見守る人。──似ていますわね」


オスカーが目を逸らした。それから、ぽつりと言った。


「……社交界の混乱。あなたの耳にも入りましたか」


「ええ」


「戻りたいのですか」


その問いに、一瞬、胸の奥が軋んだ。


戻りたいか。


七年間の仕事。宮廷の毛細血管。何百人もの声を拾い、編集し、流していた日々。誰にも知られず、誰にも感謝されず、それでも回り続けていた歯車。


(あの情報網は、わたくしの七年間だった)


「……いいえ。戻りたくはありません」


嘘ではない。戻りたいのではない。ただ──


「でも、あの情報網は七年間のわたくしそのものでした。なくなったと聞くと、どこかが痛い」


声に出してみて、自分で驚いた。こんなことを他人に言うとは思わなかった。ましてや検閲官に。


オスカーが黙って聞いている。表情は相変わらずない。けれど、聞いている。背筋を伸ばしたまま、一言も挟まずに。


「あなたの七年間は、無駄ではなかったと思います」


低い声だった。


「……なぜそう思うんですか。わたくしの七年間を知らないでしょう」


「知りません。でも──なくなって初めて困る人がいるということは、それが必要だったということです。あなたがいなくなって社交界が混乱しているなら、あなたがいた七年間は確かに機能していた」


(──ああ)


不意に、目の奥が熱くなった。


泣いてはいない。泣くつもりもない。わたくしは泣かないと決めている。情報を扱う人間は、感情で判断を曇らせてはいけない。


でも。


七年間。誰にも言えなかった。誰にも気づかれなかった。見えない仕事は、見えないまま奪われた。


それを──「必要だった」と、ただ事実として認めてくれた人がいる。


「……ありがとうございます」


小さく言った。声が少し掠れた。


オスカーは何も答えなかった。代わりに、鞄から小瓶を取り出した。


「インクです。前回のとは別の種類です。こちらの方が紙への定着が良い」


「……検閲用のインク支給ですか?」


「品質維持の観点です」


わたくしは笑った。今度は、本物の笑みで。


フランツが奥から「また来たのか検閲官」と呆れた声を出した。



夜。宿の窓から港を見下ろした。


社交界が壊れていく。わたくしが七年かけて組み上げたものが、崩れていく。


それはもう、わたくしの仕事ではない。


わたくしの仕事は、今ここにある。港町の小さな印刷所。投書箱に溜まる声。インクの匂い。フランツの職人の手。そして──法の番人の不器用な差し入れ。


(わたくしは戻らない。でも、いずれ──書く日が来るかもしれない。あの七年間の真実を)


まだその時ではない。まだ早い。


でも、その日のために──事実を集め続ける。


ペンを取った。取材ノートを開く。


クラウディア宮廷の混乱。派閥の暴走。横領事件の再燃。──そして、学園の行方不明事件。


全てを記録する。いつか使う日のために。


月が雲に隠れた。港の灯台だけが、暗い海を照らしている。

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