第5話 匿名の情報提供者が増えています
第五号を出した週から、投書箱が溢れ始めた。
◇
朝、印刷所の戸口に着くと、木箱から紙片がはみ出している。
昨夜のうちに入れられたものだ。数えた。十四通。先週の倍以上。
一通ずつ、奥の机で広げる。蝋燭に火を点ける。まだ夜明け前。港の鐘がぼんやりと聞こえる。
「港の南倉庫で検品をごまかしている業者がいる。荷札を張り替えて税を逃れている」
「東地区の路地に住む寡婦が家賃を不当に釣り上げられた。大家は港湾管理所の親戚だ」
「関税局の職員が特定の商会だけ通関を早めている。賄賂の噂がある」
投書の字はさまざまだった。達筆な商人の書体。慣れない手つきの労働者の文字。時々、子どもの筆跡も混じる。
(声なき声。こんなにたくさん、この町に溜まっていたのね)
社交界の情報網を運営していた時と同じだ。情報は常に存在している。ただ、受け取る場所がなかっただけ。わたくしが箱を置いた瞬間、水が低い方に流れるように、声が集まり始めた。
一通一通に目を通す。裏取りが必要なもの。すぐに記事にできるもの。慎重に扱うべきもの。三つに分ける。
(前世の編集部と同じ作業だ。違うのは──あの頃は何十人もいたスタッフが、今はわたくし一人だということ)
嘘だ。一人ではない。フランツがいる。
印刷の親方は朝から晩まで機械を回し、インクを練り、活字を組んでくれている。口は悪いが腕は確かだ。先週、紙面のレイアウトを提案したら「こっちの方が読みやすい」と自分で活字の配置を変えてきた。三十年の職人の勘は、わたくしの前世の知識を時々超える。
でも、取材と記事はわたくし一人でやるしかない。足で稼ぐ。人に会う。話を聞く。裏を取る。
今日も朝から港を歩く。
◇
南倉庫の検品ごまかしの件。三日かけて裏取りした。
港に出入りする荷馬車の数を数え、通関記録と照合し、倉庫の外から出入りする人数を朝昼晩と記録した。
結果──通関記録上の荷物の量と、実際に倉庫に入る量に差がある。月にして二割ほど。
これだけでは記事にならない。「差がある」という事実は書ける。だが原因を断定するには証拠が足りない。
(焦らない。事実を積み重ねる。いずれ証拠は揃う)
寡婦の家賃の件は、大家への直接取材で確認が取れた。確かに半年で三割の値上げ。しかし大家の言い分は「修繕費の増加」。双方の言い分を併記して掲載する。読者が判断すればいい。
関税局の優遇の件は──慎重に扱う。役人の不正は、証拠なしに書けば名誉毀損になる。
(情報は武器になる。だから慎重に)
◇
投書の中に一通、毛色の違うものがあった。
「クラウディア王国の王立学園で、生徒が一人行方不明になったと聞いた。商人仲間の噂。詳細は不明」
指が止まった。
学園。
(……カティアが守っていた場所)
あの子が追放された後の学園。守る拳がなくなった学園で、生徒が行方不明──
投書を机に置いた。手が、わずかに震えた。
カティアの情報は断罪の夜以来、入ってきていない。あの子がどこにいるかも分からない。でもこの投書が事実なら、カティアが恐れていたことが現実になっている。
裏取りが要る。クラウディアの情報は港町からでは遠い。商人の伝手を辿るか、それとも──
(今のわたくしにできることは限られている。けれど、この情報を記録しておく。いつか、必要な人に届ける日が来る)
投書を別の引き出しにしまった。鍵をかける。
◇
その夜。
深夜まで取材ノートを整理していたら、印刷所の扉が叩かれた。
こんな時間に客は来ない。フランツは自宅に帰っている。
扉を開けると──オスカーが立っていた。
片手に紙包み。もう片方の手に、小さな瓶。
「……検閲ですか? 随分と夜遅い検閲ですね」
「検閲ではありません」
オスカーが紙包みを差し出した。
「パンとチーズです。近くの店が閉まる前に──」
言葉が途切れた。
(……差し入れ?)
わたくしはしばらくオスカーの顔を見た。相変わらず表情がない。けれど、耳の先がわずかに赤い。夜風のせいだろうか。
「それから、これは」
小瓶を差し出す。
「インク。管理局の備品ですが、品質検査で弾かれたものです。使用には問題ない。捨てるよりは──」
「検閲のためにここにいるのであって、差し入れのためではない、と」
オスカーの耳がもう一段赤くなった。
「……先週の号で、インクの擦れが目立ちました。法令に基づく印刷物の品質維持の観点から──」
「はいはい。いつもありがとうございます、オスカーさん」
受け取った。パンはまだ温かい。
奥の机にパンとチーズを広げる。オスカーは帰るかと思ったが、扉の前に立ったまま動かない。
「……座りますか? お茶くらい出せますけれど」
「いえ。長居する理由が──」
「投書の裏取り作業を見学するのも、検閲の一環では?」
我ながら強引だ。でもオスカーの足が一歩、印刷所の中に踏み込んだ。
◇
お茶を二杯分淹れて、向かい合って座った。
オスカーはお茶を一口飲んで、机の上の投書の束にちらりと目をやった。しかし手は出さない。検閲官としての矜持だろう。申請されていない文書を勝手に読むことはしない。
「……あなたは毎晩、こうして作業を?」
「ええ。投書が増えてからは特に。裏取りに時間がかかりますから」
「一人で」
「一人です。フランツさんは印刷が仕事ですから」
沈黙が落ちた。印刷機の鋳鉄が夜の冷気で軋む音がする。
「この町には」
わたくしはパンをちぎりながら言った。
「声を上げられなかった人が、たくさんいたみたいです。投書箱を置いただけで、こんなに集まる。誰かに聞いてほしかったのに、聞いてくれる場所がなかった」
オスカーが黙って聞いている。
「わたくしがやっていることは、新しいことじゃないんです。ただ、箱を置いただけ。受け取る場所を作っただけ。声は最初からあった。──前の場所でも、そうだった」
(宮廷でも。七年間。声はあった。ただ、わたくしが拾い上げて、形にしていただけ)
オスカーのお茶が冷めている。飲み忘れているのだろう。
「……文書管理法には」
オスカーがぽつりと言った。
「報道の自由に関する条文はありません。この国の法律は、情報を管理することは定めていても、情報を届けることは想定していない」
「ええ。だから、わたくしが作ろうとしているものには、まだ名前すらないんです」
「名前がないものは、法で守れない」
「法で守れないものは、実績で守るしかない。読者が増えて、この新聞がなくなったら困ると思う人が増えれば──法は後からついてきます」
オスカーが初めて、わたくしの目をまっすぐ見た。
「……あなたは、危険な人だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
オスカーが立ち上がった。お茶は半分残ったままだった。
「次号も確認に来ます」
「ええ。──差し入れは、チーズより果物が好みですわ」
扉の向こうで、小さく息を吐く音が聞こえた。ため息か、それとも笑いを噛み殺した音か。
革靴が路地を遠ざかる。
わたくしは冷めたお茶を飲み干した。パンは美味しかった。まだ温かかった。
投書の束に視線を戻す。まだ三通、裏取りが終わっていない。
──でも、少しだけ。
あの人の真っ直ぐな背中のことを考えてから、ペンを取った。




