第4話 記事にするのは事実だけです
創刊号は三日で完売した。
──と言っても、刷った部数は百部。港の酒場五軒に二十部ずつ、無料で置かせてもらっただけだ。
◇
完売を知ったのは、酒場の女将から「追加はないのか」と怒鳴り込まれた時だった。
「お客がな、あの紙を持って帰っちまうんだよ! 店で読ませるつもりだったのに!」
「読まれているということですわね。嬉しいです」
「嬉しいじゃないよ。二号目はいつ出るんだ。うちの常連が訊いてるんだ」
(──予想より早い反応ね)
宿に戻り、読者の反応を分析した。
一面の入港船一覧と物価指数は、小さな商店主たちに重宝されていた。これまで港に直接行かなければ分からなかった情報が、紙一枚で手に入る。酒場で紙面を広げながら翌日の仕入れを相談している商人の姿を、何軒かで見かけた。
二面の町の出来事欄も好評だった。港の桟橋の改修工事日程、来週の祭日の変更──小さな情報だが、知らないと困るものばかりだ。
三面の各国情報は、まだ薄い。裏取りに時間がかかる。商人たちの持ち込む話は大半が噂で、事実として掲載できるものは限られていた。
そして四面。『声なき声の欄』。
創刊号には何も載せていない。「投書を受け付けます。匿名可。印刷所の戸口の箱に入れてください」と告知しただけだ。
今朝、箱を開けた。
三通入っていた。
◇
一通目は、港の荷運び人夫からだった。
「賃金が半年間据え置きなのに、荷の量は増えている。組合に訴えたが取り合ってもらえない」
二通目。外国人の商人。
「入港税が昨年から二割上がったが、公式な告知がなかった。港の役人に聞いても曖昧な返答しかない」
三通目。字が拙い。子どもか、あるいは文字を覚えたばかりの大人か。
「路地裏の井戸が壊れて三ヶ月になる。直してほしい」
(……三通。たった三通。でも、この三通は今まで誰にも届かなかった声だ)
裏取りが要る。賃金の据え置きは事実か。入港税の変更に正式な手続きはあったのか。井戸はどこの管轄か。
一つ一つ確認する。足で稼ぐ。前世の取材の基本だ。書くことは最後。走ることが先。
◇
第二号の準備をしている最中に、オスカーが来た。
予告なし。扉を開けて、「包括審査に基づく定期確認です」と言った。
(来ると思っていたわ)
「どうぞ。お茶を入れますね」
「結構です。紙面の確認だけです」
「お茶を飲みながらの方が、紙面の味わいも深まると思いますけれど」
オスカーは答えずに創刊号を手に取った。一面から四面まで、一字一句読んでいく。速い。この人も文書を読み慣れている。
「……物価情報は正確ですか」
「港の掲示板の数字と、わたくし自身が市場で確認した数字を照合しています。誤差があれば両方を併記する方針です」
「入港船一覧の情報源は」
「港湾管理所の公開記録です。非公開情報は含まれていません」
オスカーが紙面を置いた。
「法令の範囲内です。問題ありません」
「ありがとうございます」
立ち上がりかけたオスカーが、四面目に目を止めた。
「『声なき声の欄』。──投書欄ですか」
「ええ。匿名の投書を受け付けて、裏取りの済んだものだけを掲載します」
「匿名の投書を」
「はい」
沈黙が落ちた。
オスカーの目がわたくしを見ている。表情はない。けれど、視線の奥に何かが動いた気がした。
「事実だけを書くのなら、問題はない。ですが──」
「ですが?」
「事実だけでも、書き方次第で武器になる。あなたは、それを分かっていて書いている」
(──鋭い)
この人は検閲官だ。文書が人を動かす力を持つことを、仕事として知っている。事実であっても、配置と見出しと文脈で意味が変わることを。
わたくしが噂屋と呼ばれたのも同じ理由だ。事実を伝えていた。ただし、いつ、誰に、どの順序で伝えるかを選んでいた。それだけで社交界のバランスが保たれていた。
「おっしゃる通りですわ。事実は武器にもなります」
お茶を一口飲んだ。
「──でも、盾にもなるんです。だから慎重に書くんです」
オスカーがわたくしを見た。長い視線。前回と同じ──いいえ、少し違う。前回は法の番人が侵入者を見る目だった。今日のは、もう少し複雑な何かだ。
「……次号も確認に来ます」
「ええ。お待ちしています。次はお茶も召し上がってくださいね」
扉が閉まった。
◇
第二号を刷った。
一面は先週と同じ構成。物価と入港船。ただし、数字の変動に短いコメントを添えた。「小麦粉が先週比で一割上昇。南方の不作の影響か」。事実と、事実に基づく推測。感想ではなく、根拠のある分析。
二面に港の桟橋工事の続報。工期が遅れている理由を、職人への取材で掴んだ。資材の納入が滞っている。納入業者を取材したら、発注元の港湾管理所が支払いを三ヶ月滞納していると分かった。
三面に、隣国との通商条約の更新についての情報。これは商人たちの間で噂になっていたが、裏取りに手間がかかった。フェーレン王国の通商大使が関税交渉に難航しているという話──
(……フェーレン王国の通商大使。リーリエが追放された先に、小さな港国があったはずだけれど)
繋がるかどうかは分からない。ただ、情報の糸を手繰る癖が抜けない。
四面。『声なき声の欄』に、初めて投書を載せた。
井戸の件だ。裏取りをした。路地裏の井戸は港湾管理所の管轄で、修繕の予算は半年前に計上されていた。ただし、予算が別の用途に流用された形跡がある。
事実だけを書いた。「路地裏三番井戸、修繕予算計上済み。現時点で未着工。管理所への取材では『人手不足』との回答」。
解釈は書かない。読者が自分で考える。
(……声を届けるのがわたくしの仕事。答えを出すのは、この町の人たちだ)
◇
第二号を酒場に置いた翌日、フランツが印刷所に駆け込んできた。
「追加だ。二百部刷れるか」
「二百?」
「商人の組合から注文が来た。組合員全員に配りたいとよ。──それから、あの井戸の記事を読んだ港の親方が、管理所に怒鳴り込んだらしい」
わたくしは笑った。
声に出して、笑った。
港町の小さな印刷所の、インクの匂いの中で。
(──この感覚。前世で取材記事が反響を呼んだ時と同じだ。書いた言葉が、誰かの足を動かす)
フランツが呆れたように言った。
「あんた、笑うと別人だな」
「あら。わたくし、いつも笑っていますけれど」
「嘘つけ。普段は笑ってるフリをしてるだけだ。今のは本物だ」
──返す言葉がなかった。
印刷職人は、紙の質とインクの濃度と──どうやら、人の表情の真贋も見分けるらしい。
「……二百部、刷りましょう。インクが足りないかもしれません」
「俺の伝手で仕入れる。任せろ」
フランツが腕まくりをした。
活版印刷機が、がしゃん、と音を立てて動き始めた。
紙にインクが乗る。文字が刻まれていく。わたくしの言葉が、わたくしの名前では出ないけれど、この町に届き始めている。
窓の外に港の喧騒が聞こえる。追加の二百部。来週はもっと増えるかもしれない。
(──情報は、止められない。止めようとする者が、いずれ情報に飲まれる)
あの検閲官の真っ直ぐな背中を、ふと思い出した。




