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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
ソフィア編

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第3話 検閲官が来ました

創刊号が刷り上がる前日のことだった。



「無許可の印刷物の配布は、文書管理法第十七条に抵触する可能性があります」


印刷所の扉が開いて、最初に見えたのは書類の束だった。


次に、書類を抱えた男の姿。背が高い。姿勢が定規で測ったように真っ直ぐだ。黒い外套の下に文官の制服。襟元のボタンが一つ残らず留まっている。


顔を見た。若い。二十代の後半。表情が──ない。正確には、表情があるべき場所に何も載っていない。仕事以外の感情を持ち込まないと決めた顔だ。


(……王都から? 早い。創刊号もまだ出していないのに)


「失礼ですが、どちら様でしょう」


「王都文書管理局、検閲官オスカー・ブレンナー。この町で印刷業の届出が提出されたとの報告を受けて参りました」


検閲官。


わたくしは微笑んだ。フランツが奥で「げっ」と呟いたのが聞こえたけれど、聞こえなかったことにする。


(文書管理法か。調べてはいたけれど、まさか人が来るとは思わなかった)


届出は三日前に港の役所に出した。印刷業の開業届。法令に基づく正規の手続きだ。ただし──王都まで書簡が届くには通常一週間かかる。三日で検閲官が来るということは、この町の役人が早馬を飛ばしたか、あるいは別の筋で情報が流れたか。


どちらにしても、わたくしの動きを誰かが気にしている。


「どうぞ、お入りください。狭い場所ですが」



オスカー・ブレンナーは、印刷所の中を一巡した。


活字棚を確認し、印刷機の型式を手帳に書き取り、紙の在庫を数え、インクの成分を──匂いで確認した。


(鼻が利くのね。印刷に詳しいのかしら)


わたくしは椅子に座ってお茶を淹れながら、彼の動きを観察していた。


無駄がない。一つ一つの確認が手順書に沿っている。型式の記録は鋳造番号まで。紙の枚数を数える時、指を舐めない──紙を傷めないための配慮だ。書類を扱う人間の所作。


「確認は終わりましたか?」


「おおむね。ただし──」


オスカーが振り返った。手帳を閉じる。表情は相変わらずない。


「あなたが印刷しようとしている『新聞』という刊行物の内容を、事前に確認する必要があります。文書管理法第二十三条に基づく事前検閲です」


事前検閲。


刷る前に内容を見せろ、という意味だ。


(──さて。ここからが本番ね)


「分かりました。では、事前検閲の申請手続きを教えていただけますか? 申請書の書式と、提出先と、審査にかかる日数を」


オスカーの眉が──かすかに動いた。ほんの一瞬。想定していた反応と違ったのだろう。普通の印刷業者なら「事前検閲」と聞いた時点で尻込みする。


「……申請書は管理局の標準書式です。提出先は当局の地方出張所。審査は通常十四営業日」


「十四営業日。週刊の刊行物には長いですね。──ところで、文書管理法の全文を見せていただくことは可能ですか?」


「全文?」


「ええ。法令に基づいて事前検閲を受けるのですから、法令の全文を把握した上で申請したいのです。当然の権利だと思いますが」


オスカーが鞄から分厚い冊子を取り出した。革装丁。百ページ以上ある。文書管理法の法令集。


「どうぞ」


「ありがとうございます。──今夜中にお返しします」


「今夜中?」


「読むのに一晩あれば十分です」


オスカーの瞬きが一回多くなった。



一晩で読んだ。


正確には、蝋燭三本分の時間で読了した。前世で法務部門の契約書を何千通と読んだ経験がある。法令文書の構造は似ている。総則、定義、手続き、罰則、付則。読むべき箇所と読み飛ばせる箇所の嗅ぎ分けは体に染みついている。


そして──見つけた。三つ。


法の抜け穴。



翌朝。フランツの印刷所にオスカーが法令集を取りに来た。


わたくしは法令集と一緒に、申請書を差し出した。


「……これは」


「事前検閲の申請書です。ただし、第二十三条に基づく標準的な事前検閲ではなく、第四十一条の二に基づく『定期刊行物の包括審査申請』です」


オスカーの手が止まった。


「第四十一条の二は──」


「港湾都市における定期刊行物の簡易届出制度ですわ。もともとは関税通達や船荷目録など、港の業務に必要な刊行物を迅速に発行するために設けられた条文です。創刊号の内容を包括審査に提出すれば、以降の号は届出のみで発行できる」


オスカーの目が法令集に落ちた。該当箇所を確認している。


「……港湾業務に直接関連する刊行物に限る、と書いてありますが」


「創刊号の内容は港の物価情報と入出港一覧です。港湾業務に直接関連しますわね?」


沈黙。


オスカーが法令集のページを繰っている。条文を読み直している。わたくしは黙って待った。お茶を一口飲む。フランツが奥でインクを練りながら、こちらをちらちら窺っている。


「……第五十六条の但し書き」


オスカーが口を開いた。


「定期刊行物が港湾業務の範囲を逸脱した内容を掲載した場合、包括審査は取り消される。つまり、あなたが港の情報以外の記事を載せた瞬間に──」


「ええ。承知しています」


わたくしは微笑んだ。


「ですから、最初の号は港の情報だけです。忠実に。正確に。法令の範囲内で」


(──最初の号は、ね)


読者がつけば、法令の改正を働きかける根拠になる。実績という名の事実ほど、法を動かす力を持つものはない。


オスカーがわたくしを見た。


長い視線だった。検閲官が法の抜け穴を突かれた時の、あの独特の表情──怒りではない、もっと複雑な何か。規則を守る人間が、規則の内側から規則を超えようとする人間と出会った時の、戸惑いと、それから──


「……通ります」


短く言った。


「この申請は、法的に問題ありません」


申請書に印を押す音が、静かな印刷所に響いた。



オスカーが帰る間際、扉の前で足を止めた。


「一つ訊いていいですか」


「どうぞ」


「あなたは、あの法令集を一晩で読んで、三つの抜け穴を見つけた。──法律の専門家ですか」


「いいえ。ただの……元情報屋ですわ」


嘘ではない。噂屋。情報屋。毒舌の。──かつてそう呼ばれていた。


オスカーの眉がまた、かすかに動いた。


「法令を読む力のある人間が、港町で新聞を作ろうとしている。──注視させていただきます」


「どうぞ、ご自由に。わたくしは事実しか書きませんから、注視されて困ることは何もありません」


オスカーが背を向けた。真っ直ぐな背中。扉が閉まる。革靴の音が路地に遠ざかっていく。


(──面白い人ね)


規則を盾にしながら、規則の正しさを疑える目をしていた。法令の抜け穴を突かれて怒るのではなく、確認し、認めた。検閲官にしては──いいえ、検閲官だからこそ、法の文言に忠実だった。


フランツが奥から顔を出した。


「追い返したのか?」


「追い返してはいませんわ。法に基づいて、正当に許可をいただいたんです」


「同じことだ」


フランツが笑った。この三十年の印刷職人が初めて見せた、心底おかしそうな笑みだった。



その夜、創刊号の最終校正をしながら、ふと思った。


あの検閲官は、また来るだろう。


注視する、と言った。つまり次号も、その次も確認しに来るということだ。法を守る人間は、一度言ったことを曲げない。


(……厄介な相手がついたわ。でも)


悪くない緊張感だ。


法の内側でどこまでやれるか。その境界線を引くのが検閲官なら、境界線の際を歩くのがジャーナリストだ。


ペンを走らせる。『マーレブルク通信』創刊号。一面の見出しは「今週の入港船一覧と港湾物価指数」。


地味だ。果てしなく地味だ。


けれど、ここから始まる。


窓の外で、港の鐘が深夜を告げた。

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