第2話 私には丁度いい
潮の匂いは、インクの匂いに似ている。
どちらも鼻の奥にまとわりつく、少し苦い、けれど嫌いになれない匂い。前世の編集部では両方が混じっていた。校了間近の深夜、印刷所から届いたゲラ刷りを広げるたびに。
──三日間、馬車を乗り継いで辿り着いた港町マーレブルクは、まさにその匂いの町だった。
◇
港は賑わっていた。
帆船が何隻も停泊し、荷下ろしの怒声と波の音が混じり合っている。魚市場の脇を通り抜けると香辛料の匂いが鼻を突き、路地を一本入れば安酒場の看板が軒を連ねていた。
三カ国の商船が出入りする交易の結節点。人が動く。物が動く。そして──情報が動く。
(悪くない。むしろ、理想的ね)
宮廷の情報網は使用人と商人の口伝えに依存していた。それでも機能していたのは、わたくしという編集者がいたからだ。
この町には口伝え以上のものがある。活版印刷。
前世で当たり前だったものが、この世界ではようやく産声を上げた技術。王都でも数軒の印刷所が稀少本を刷っている程度だが、港町には商業的な需要がある。取引の契約書、船荷の目録、関税の通達──紙に刷って配る文化が、ここでは少しだけ根づき始めていた。
◇
宿を取り、翌朝から町を歩いた。
目当ては印刷所だ。マーレブルクには三軒あると宿の女主人が教えてくれた。
一軒目。王都の印刷所の支店。真鍮の看板が磨かれ、窓から見える印刷機も立派だ。客は貴族と大商会。──用はない。ここは権力側の道具だ。
二軒目。港の書類屋。船荷証明と関税書類を専門に刷っている。繁盛している。が、それだけだ。書類を刷る機械であって、情報を届ける装置ではない。
三軒目。
路地の奥にあった。看板の文字は半分剥がれ、窓硝子が一枚割れたまま布で塞がれている。扉を押すと、油とインクと埃の匂いが一度に押し寄せた。
(……この匂い)
前世の記憶が不意に鮮明になる。入稿前夜の印刷所。蛍光灯の下でインクの濃度を確認していた、あの空気。
「──何の用だ」
奥から声がした。白髪交じりの男が印刷機の脇に座っていた。エプロンにインクの染みが幾重にも重なっている。手は大きく、指先だけが異様に黒い。職人の手だ。
「印刷所をお訪ねしました。営業中ですか?」
「見ての通り、閑古鳥だ。客なら歓迎するが、買うものは何もないぞ。刷るものがない」
男はフランツと名乗った。マーレブルクで三十年、活版印刷を続けてきた職人。かつては教会の聖典や暦を刷っていたが、一軒目の王都系印刷所に仕事を奪われ、今は月に数件の依頼で食い繋いでいる。
「来月には閉める。機械を売って、息子のところに転がり込むつもりだ」
フランツは印刷機の横腹を叩いた。重い音がした。鋳鉄製。古いが、まだ動く。
わたくしは印刷機をぐるりと見て回った。活字の棚。インクの壺。紙の束──湿気で少し波打っている。保管が甘い。
(でも、素材は揃っている)
フランツの目が訝しげにわたくしを追っている。
「あなた、何者だ。貴族の令嬢がこんな場所に来る用があるとは思えんが」
「元、ですわ。今はただの無職です」
嘘ではない。爵位は剥奪された。わたくしはただのソフィアだ。
「──フランツさん。この印刷所、おいくらですか」
◇
交渉は三十分で終わった。
フランツが提示した額は驚くほど安かった。機械と活字一式、紙の在庫、そして路地裏の建物の借用権。わたくしが学園時代に密かに蓄えていた資金で足りる。
(情報網の運営には経費がかかる。その経費を自前で賄うために、社交界の隙間で小さな仲介業をしていた。そのときの蓄えが、まさかこんな形で役に立つとはね)
「本当に買うのか。この印刷所で何を刷るつもりだ」
フランツの目にはまだ疑念がある。当然だ。潰れかけの印刷所を買う若い女など、普通は怪しい。
わたくしは活字棚の前に立った。引き出しを開ける。小さな鉛の活字が、文字ごとに整然と並んでいる。ア行、カ行、サ行──いくつか欠けている文字があるが、基本的な活字は揃っている。
指先で一つ摘まんだ。ひんやりとした鉛の重み。鏡文字。
前世では、この重みをスマートフォンの画面が代替した。けれど本質は変わらない。文字は情報を運ぶ船だ。
「新聞を刷ります」
「……新聞?」
「週に一度、この町の出来事と取引の情報を紙面にまとめて配るんです。市場の物価、入港した船の一覧、天候の予測、港の規則の変更──商人が知りたい情報を、一枚の紙に」
フランツが眉をひそめた。
「そんなもの、誰が買う。港に行けば分かることだ」
「港に行けば分かる。でも、港にいない人は知らない。奥の路地で帳簿をつけている小さな商店主。船を下りたばかりの外国の商人。朝が忙しくて市場に出られない職人たち。──情報は、持っている人と持っていない人の間に溝を作るんです。わたくしはその溝を埋めたい」
前世の言葉で言えばジャーナリズムだ。でもその言葉はこの世界にはまだない。
だから、作る。
フランツは長い間黙っていた。インクに染まった指で顎を掻いている。
「……紙面の構成は。見出しはどうする。配布は」
(あら)
わたくしは少し驚いた。「どうやって」と問い返したということは、「なぜ」は受け入れたということだ。
「構成はわたくしが考えます。見出しは大きな活字で、目に飛び込むように。配布は最初、港の酒場に置かせてもらいます。無料で。読んだ人が欲しくなったら、次号から銅貨一枚」
「無料だと? 紙もインクもタダじゃないぞ」
「最初の五号は先行投資です。読者がつけば、広告を取れる。大きな商会に『紙面の隅に店の名前を載せませんか』と持ちかける。前世で──」
言いかけて、口を噤んだ。
「……以前、似たような仕事をしていたことがあるんです」
フランツの目が変わった。疑念ではない。もっと鋭い、職人が同業者を見定める時の目だ。
「あんた、印刷のことを知っているな」
「少しだけ」
嘘だ。かなり知っている。前世で何百回と印刷所に入稿した。レイアウトの基本、見出しの級数、紙面の視線誘導──体に染みついている。
フランツが立ち上がった。印刷機の前に歩み寄り、レバーを引いた。ぎし、と鋳鉄が軋んだ。
「この機械は三十年動いてる。まだ止めるのは早いかもしれんな」
◇
その夜、宿の部屋で紙面の構成を練った。
蝋燭の灯りの下、宿帳の裏紙に走り書きする。
一面:港の入出港情報と物価。商人が一番最初に見たい情報。
二面:町の出来事。規則の変更、工事の予定、集会の告知。
三面:各国の情報。商人たちが持ち込む噂を裏取りして載せる。
(……四面が問題ね)
四面目。ここに何を入れるかで、この新聞の性格が決まる。
物価情報だけなら便利な紙切れで終わる。でもわたくしが作りたいのは、それだけじゃない。
声なき声を届ける紙面。
港で働く荷運びの待遇。外国人商人への不当な関税。路地裏で起きている小さな不正。──誰も書かないから、誰も知らない。知らないから、変わらない。
(前世で学んだことが一つある。書かれなかった事実は、存在しなかったのと同じだということ)
ペンが止まった。
四人のことを考えていた。
リーリエの外交。カティアの戦い。メイの治療。ヴィオラの──よく分からない何か。
七年間、五人がやっていたことは全て「書かれなかった事実」だった。聖女の奇跡として書き換えられた。名前を奪われた仕事。存在を消された功績。
(わたくしたちに必要だったのは、正しく書いてくれる誰かだったのかもしれない)
──なら。
四面目の欄外に、小さく書いた。
『声なき声の欄』。
投書を受け付ける。匿名可。この町で、誰かに伝えたいことがある人のために。
蝋燭が一本燃え尽きた。新しいのに火を点ける。窓の外から波の音が聞こえる。
紙面の構成がまとまっていく。前世で何百号と作った雑誌のレイアウトが、手の中で形を変えて蘇る。
(週刊新聞『マーレブルク通信』。──悪くない響きね)
ペンを置いた。
指先にインクの染みがついている。フランツの印刷所で活字に触れた時のものだ。
前世では、この染みを洗い流してからオフィスに戻った。この世界では──洗わなくていい。
(わたくしの仕事は、ここから始まる)
窓を開けた。潮風が原稿用の紙をかすかに揺らした。
明日、フランツと正式に契約する。印刷工をもう一人雇う必要がある。紙の仕入れ先も探さなければ。配布ルートの選定。酒場の主人への挨拶回り。やることは山ほどある。
──ただ、一つだけ。
この新聞がいずれ王都に届く時が来るだろう。その時、紙面に載せる「事実」が、誰かの嘘を暴くことになるかもしれない。
それはまだ先の話。今はただ、この港町の小さな印刷所で、一枚目の紙面を刷るところから。
月が港の水面を白く染めている。波は静かだった。




