第1話 社交界の情報網が消えた日
ソフィア編スタートです!!
知っていた。今夜、何が起こるか。
──止められなかったのではない。止めなかったのだ。
◇
舞踏会の広間に聖女の声が落ちた瞬間、わたくしは心の中で時計の針を合わせていた。
「あなたたちを、聖女を苦しめた五人の悪女として、断罪します」
予定より十二分遅い。王太子殿下の演説が長引いた分だろう。あの方は原稿を読むのが遅い。──もっとも、原稿を書いたのがご自身かどうかすら怪しいけれど。
わたくしの情報網がこの計画を掴んだのは三週間前。聖女マリアベルの侍女が、王太子付きの文官に渡した封書の写し。卒業舞踏会での五人の公開断罪。罪状の一覧。追放の段取り。
写しを取るのに半日。裏取りに四日。残りの十六日間は──逃げるか留まるかを、考えていた。
結論は出ている。
留まる。
◇
逃げれば、わたくし一人は助かる。けれど残った四人への追及が激しくなる。「ソフィアが逃げた。ということは罪を認めたのだ」「残りの四人も同罪だ」。マリアベルならそう使うだろう。あの聖女は状況を編集する天才だ。
(──前世の上司にもいた。素材は何であれ、自分に都合のいい記事に仕上げる編集長)
四人のために、ではない。
計算だ。わたくしが断罪の場にいることで、聖女の計画は予定通りに進む。予定通りに進めば、予定通りに崩れる。崩れ方まで読めている計画ほど御しやすいものはない。
──少なくとも、そう思いたかった。
◇
「第一の悪女──カティア・ベルンハルト!」
マリアベルの声が広間に鞭のように飛んだ。
「暴力令嬢! この女は聖女の取り巻きを脅迫し、暴力を振るいました!」
カティアの拳が白くなるのが見えた。
(──十三回)
カティアが学園で拳を使った回数。わたくしの情報網は正確だ。十三回。相手は全員、学園内の人身売買組織の末端。カティアはそれを嗅ぎ取り、標的にされた子どもたちの前に立った。
わたくしは知っていた。何度か情報を渡したこともある。「明日の放課後、東棟の裏に近づかないほうがいいわ」。あの時のカティアの目──一瞬だけ鋭くなって、すぐに「ああ」と頷いた。
弁明しないだろう。カティアは。あの子は自分の拳で守ったものを、言葉で証明しようとはしない。それが彼女の強さであり、愚かさであり──わたくしが尊敬する理由だ。
(あなたの秘密は、わたくしの情報網の中で最も厳重に管理されている項目よ。安心して)
カティアがこちらを見た。
頷いた。小さく。誰にも気づかれない程度に。
──伝わっただろうか。カティアは勘の鋭い子だ。たぶん。
◇
「第二の悪女──ソフィア・クラインツァール! 毒舌の噂屋! 悪意ある噂で聖女の評判を傷つけた罪!」
わたくしの番だ。
広間の視線が集まる。好奇、侮蔑、そして怯え。社交界で「噂屋」と呼ばれた女に、何を見られているか分からないという怯え。
(──皮肉なものね。あなたたちの派閥争いが暴走しなかったのは誰のおかげだと思っているの)
七年間。わたくしはこの社交界の情報の流れを管理していた。派閥の暴走を抑え、汚職の芽を摘み、宮廷という巨大な生き物の血流を整えていた。誰にも頼まれていない。報酬もない。
「悪意ある噂」。
笑いそうになる。わたくしが流したのは裏取りの済んだ事実だ。聖女の虚偽を指摘しただけだ。
けれど、事実と噂の区別がつかない人間には、同じに見える。
「……左様ですか」
それだけ口にした。表情は動かさない。マリアベルが期待している反応──涙、怒り、弁明──のどれも与えてやる気はない。
情報を扱う人間にとって、最大の武器は沈黙だ。
◇
「第三の悪女──メイ・リンドグレーン! 男誑しの魔女!」
メイの小さな体が揺れた。唇を噛んでいる。
(──メイ。あなたの治療記録、わたくしの手元にあるのよ。知っていた?)
知らないだろう。メイの治療記録──聖女の恋人の持病のことも、回復魔法が素手の接触を必要とすることも──わたくしの情報網は全て掴んでいた。
「誘惑」の正体が「治療」であることを証明する材料なら、今この場で差し出せる。
──しない。
今出しても握り潰される。王太子殿下はマリアベルの言葉しか信じない。この場で真実を叫んでも、聖女の涙の前には届かない。
情報は、出すタイミングが全てだ。
(もう少し待って。もう少しだけ)
◇
「第四の悪女──ヴィオラ・ネーベルシュタイン! 居眠り令嬢!」
──返事がない。
マリアベルが苛立ったように「ヴィオラ・ネーベルシュタイン!」と繰り返した。
寝ている。
断罪の真っ最中に、こくりこくりと小さな頭を揺らして。
わたくしの情報網には、ヴィオラに関する報告が一つだけ異質な形で残っている。「分析不能」。七年間で「分析不能」と記録されたのはヴィオラだけだ。
いつ眠るか、何を言い出すか、予測がつかない。ただ──ヴィオラがぽつりと口にする言葉は、不思議なほど「当たる」。
半年前、ヴィオラが学園の中庭で寝ぼけながらわたくしに言った。
「ソフィアさん、春の舞踏会のあと、港町に行くと素敵なことがありますよ」
意味が分からなかった。今も分からない。ただ──今夜の断罪が三週間前に分かった時、一番最初に思い出したのがこの言葉だった。
目を覚ましたヴィオラが「いい夢、見てて」と言った。広間が凍りついた。マリアベルの演出を根底から崩す天然の爆弾。
──ヴィオラの頬に涙の跡があった。笑っているのに。
(あの子の涙は何の涙だろう。いつか分かる日が来るのかしら)
◇
「そして第五の悪女──氷の女王、リーリエ・ヴァイスフェルト!」
リーリエは動じなかった。予想通りに。
王太子殿下が婚約破棄を宣言し、リーリエが「承知いたしました」と一礼した。そこまでは台本通り。
──次の瞬間、リーリエが国王陛下の側近に封書を手渡した。
「七年間お預かりしておりました外交暗号鍵の一式です」
(……ああ。やるわね、リーリエ)
これはわたくしの台本にはなかった。リーリエ独自の判断だ。この場で暗号鍵を返すということは、「この鍵がなければ外交が止まる」という事実を広間の全員に突きつけたということだ。
ハインリヒ卿の顔色が変わった。あの人だけは分かっている。
「聖女様ならきっと、おできになりますわよね?」
微笑。完璧な微笑。刃のような微笑。
マリアベルの仮面が一瞬だけ剥がれた。あの目。計算が狂った時の、あの目。
わたくしは瞬きを一つ多くした。リーリエなら気づくだろう。
(見事な一面記事だわ。見出しは──「氷の令嬢、七年分の爆弾を返却」)
◇
広間を出た。
回廊を歩く。窓から月明かりが差し込んで、石畳に格子模様を描いている。
五人分の足音はもう聞こえない。それぞれの方向に散っていった。カティアの固い革靴の音。メイのかすかな足取り。ヴィオラの覚束ない歩調。リーリエの迷いのない踵の音。
わたくしだけが、しばらく回廊に立ち止まっていた。
(──予定通り)
呟いてみる。声には出さない。
予定通り。断罪も追放も想定の範囲内。四人がそれぞれの判断で動いたことも──リーリエの暗号鍵の返却を除いて──把握していた。
なのに。
指先が冷たい。
(……予定通りなのに、どうして手が震えているのかしら)
七年間張り巡らせた情報網が、今夜断たれた。何百人もの「目」と「耳」が送ってくる断片を、わたくしが編集し、意味を与え、流すべき場所に流していた。それが消える。派閥が暴走する。デマが走る。社交界は遠からず自壊する。
(それはもう、わたくしの問題ではない)
言い聞かせた。けれど、七年間の癖は抜けない。
前世の記憶が蘇る。最終号の校了を終えて、がらんとした編集部を振り返った日。デスクに残った赤ペンと付箋。あの時と同じ温度が、胸の奥にある。
──でも。
あの時と違うことが一つある。
前世では、終わった。廃刊で全てが終わった。
この世界では、まだ終わっていない。
情報は止められない。情報を止めようとする者が、いずれ情報に飲まれる。それは前世で学んだ、たった一つの確信だ。
マリアベルはわたくしを追い出すことで、情報を止めたつもりでいるだろう。
(──甘い。情報の流れは、一人の人間を消しても止まらない。ただ制御を失うだけよ)
月明かりの回廊を歩き出す。
行き先は決めていなかった。けれど──ヴィオラの言葉が頭の片隅に残っている。港町。春の舞踏会のあと。
あの子の言葉は「当たる」。
「……港町、ね」
声に出してみた。活版印刷が普及し始めた港町があると聞いたことがある。商人が行き交い、情報が集まる交易の結節点。
情報を握っていた女が、情報を届ける側に回る。
(人生の原稿に勝手に赤を入れられたなら──自分で新しい原稿を起こせばいい。今度は、わたくしの名前で)
春の夜風が頬に触れた。少しだけ、潮の匂いがした気がした。




