第10話 あと三人
道場の朝は早い。
日の出と同時に木剣の素振り。五十本。あたし自身の鍛錬のためでもあるし、子どもたちへの手本でもある。
「カティア先生ー! 五十本終わりましたー!」
「嘘つけ、三十八で数え間違えたの見てたよ」
「えー!」
トビー。十一歳。救出した五人の中の一人で、家族が見つからなかった子。グレンツに残って、うちの道場に住んでいる。元気がよくて嘘がへたで、少しだけ昔のあたしに似ている。
「やり直し。今度は声出して数えな」
「はーい……」
道場、と言っても大層なものじゃない。砦壁の近くの空き家をグレタさんの口利きで借り受けて、板の間を敷いて、木剣を並べただけ。看板は手書き。『グレンツ道場』。マルコが「もうちょいマシな名前なかったのか」と言ったけど、分かりやすいのが一番だ。
孤児院も兼ねている。トビーの他に、近隣の村から身寄りのない子が二人来ている。三人分の飯を毎朝作る。最初は全部焦がしていたが、グレタさんに手取り足取り教わって、どうにか食べられるものが出せるようになった。味は相変わらず大したことない。でもトビーは「うまい!」と言って食べる。優しい子だ。あるいは味覚が鈍いだけかもしれない。
◇
道場には近所の子どもたちも通ってくる。剣術を教えている──というより、体の使い方を教えている。
「剣は最後の手段だ。まず逃げ方を覚えろ。逃げ方が分かってから、初めて立ち向かい方を考える」
学園では教えてもらえなかったことを、あたしが教える。
誰かに腕を掴まれたときの外し方。暗い道で後をつけられたときの対処法。怖い目に遭ったときに声を上げる練習。
「声を出すのは恥ずかしくない。助けてって言うのは弱くない。一番強い技は、助けを呼ぶ声だ」
子どもたちが真剣な顔で頷いている。
──あたしが学園にいた頃に、こういうことを教えてくれる大人がいたら。
いなかった。だから自分がなる。
◇
昼過ぎ。
道場の掃除をしていたら、グレタさんが紙の束を持ってきた。
「カティア、これ。商人の荷に混じってたんだけど、うちの酒場宛てに届いてた。差出人は──どこだい、この町。マーレブルク?」
マーレブルク。聞いたことのない港町の名前だ。
紙の束を受け取った。丁寧に折りたたまれた、大判の紙。広げる。
──新聞だった。
『マーレブルク通信 創刊号』
活版印刷。黒インクの匂いがまだ新しい。見出しが大きくて読みやすい。紙面の構成が妙にこなれている。段組み、リード文、小見出し。この世界の印刷物とは思えないほど洗練されている。
一面の記事に、目が釘付けになった。
見出し。
『"暴力令嬢"の真実──学園の守護者だった侯爵令嬢』
心臓が止まった。比喩じゃなく。
記事を読んだ。
──「クラウディア王立学園で"暴力令嬢"と呼ばれた侯爵令嬢カティア・ベルンハルトの暴力事件について、本紙は複数の関係者への取材を行った」。
──「カティア嬢が暴力を振るったとされる相手は、全員が学園内での不正行為に関与していた人物であることが、複数の証言と記録から裏付けられた」。
──「カティア嬢の行動は、学園内で弱い立場にあった生徒を保護するためのものであり、"暴力"とされた行為の実態は"守護"であったことが明らかになっている」。
記事は事実だけで構成されていた。感情的な表現はない。「かわいそう」とも「正義の人」とも書いていない。証言と記録を並べて、読者自身が判断するように組まれている。
この文章。この構成。
(……ソフィア)
確信はない。でも、この文章の冷静さ。事実を積み上げて読者の判断に委ねるやり方。穏やかなのに刃がある文体。あたしが知っている人間で、こういう文章を書けるのは一人しかいない。
ソフィア・クラインツァール。毒舌の噂屋。情報を武器にも盾にもする女。
「あいつ……勝手なことを」
声が震えた。笑いながら、目が熱くなった。最悪の組み合わせだ。
あたしは名前を出すなとも、記事にしてくれとも、何も頼んでいない。ソフィアが勝手に調べて、勝手に書いて、勝手に刷って送ってきた。
──勝手に。あたしの七年間を、正しい名前で呼んでくれた。
「暴力令嬢」じゃない。「守護者」。
紙面がぼやけた。涙だ。また泣いてる。最近涙もろくなった。レオンのせいだ。あいつが泣いていいと教えたから。
「どうした」
声。振り返った。
レオンが道場の入り口に立っていた。三日間の調査から戻ってきたところらしい。旅装のまま。フードを下ろしている。
「おかえり」
「ああ。──泣いてるのか」
「泣いてない。目に汗が入っただけ」
「目に汗は入らない」
新聞をレオンに渡した。レオンが黙って読んだ。読み終わるまで、あたしは鼻をすすりながら待った。
レオンが新聞を折り畳んで返した。
「事実だろう」
「……うん」
「事実が書かれているだけだ。泣くようなことじゃない」
「うるさいな、分かってるよ。分かってるけど──」
七年間。十三回。一度も、誰にも言えなかったことが。紙に印刷されて、人の手に届いて、「事実」として世に出た。
あたしの拳は暴力じゃなかった。
知ってた。知ってたよ、自分では。レオンにも言ってもらった。でも「世界に向けて言ってくれる人」がいるのは、また別の話だ。
「……ソフィアに、礼を言わなきゃ」
「差出人は匿名だ」
「でもソフィアだよ。文体で分かる」
「お前に文体が分かるのか」
「ばかにするな。あたしだって本くらい読む」
レオンが何か言いかけて、やめた。口元が──ほんの少し、動いた。笑ってはいない。でも笑いを噛み殺している。
「何よ」
「いや」
このやり取りにも、慣れた。
◇
新聞をもう一度広げた。
一面の記事の横に、小さな囲み記事がある。
『港町マーレブルクで週刊新聞創刊。編集長は匿名の令嬢。活版印刷による定期刊行物は王国初の試み。購読者は創刊一ヶ月で三百部を突破──』
港町。匿名の令嬢。活版印刷。
(やっぱりソフィアだ)
あの女、追放先でとんでもないことを始めている。新聞。この世界で初めて。情報を紙に乗せて、人の手に届ける仕組みを、一から作り上げた。
──あいつらしい。
紙面の端まで読んだ。三面に小さな記事がある。
『クラウディア王国、外交条約の更新に難航。隣国フェーレンとの通商交渉は三ヶ月連続で暗礁に──』
外交。リーリエ。
『辺境の山村で原因不明の疫病が収束。地元の医療者の尽力により──』
医療。メイ。
全部載っている。断片的に、小さな記事として。ソフィアが集めた情報の中に、四人の影がちらちらと見え隠れしている。
あいつら、全員やってる。
散り散りになって、全員それぞれの場所で、自分の力で戦ってる。
道場の窓から外を見た。グレンツの午後の空。雲が流れている。
あたしはここにいる。この町で。子どもたちと、グレタさんと、マルコと、ハンスと、ユーリと。そしてレオンと。
居場所がある。拳を振るう場所がある。守るものがある。
悪くない。悪くない人生だ。
◇
夕方。
道場の前で子どもたちが遊んでいる。トビーが木剣を振り回して、他の二人が逃げ回っている。「振り回すなって言ったでしょ!」とあたしが怒鳴る。日常だ。
レオンが道場の柱にもたれて、それを眺めていた。
子どもたちに剣術を教えるあたしを、黙って見ている。旅装は解いて、いつもの黒い上着だけ。腕を組んで、頬の傷痕に夕日が当たっている。
目が合った。
「何見てんの」
「帰ってきた」
「それはさっき聞いた」
「もう一度言っている」
──ああ。
そういうことか。
「帰ってきた」は「ただいま」じゃなくて、「ここが帰る場所だ」って意味なんだ。
「……おかえり」
もう一度言った。さっきとは少し違う声で。
レオンが柱から背を離して、道場の中に入ってきた。トビーが「レオン先生おかえりー!」と飛びつく。レオンが「先生じゃない」と言いながら、トビーの頭を不器用に撫でた。
あたしは新聞を丁寧に畳んで、懐にしまった。手紙の束の隣に。十一通の手紙と、一枚の新聞。あたしの七年間の証。
拳を握った。
いつもと同じ拳。でも今は、この拳が守るものの形が分かっている。この道場。この子たちの笑い声。あの新聞を書いてくれた友達。散り散りになっても、どこかで戦っている四人。
暴力令嬢は引退しない。
引退しないけど、一人で殴りに行くのはやめた。背中を預けられる相手ができた。帰る場所ができた。待ってる子どもたちができた。
──次に拳を振るう時は、もっと大きなものを守るためだ。
窓の外、夕日がグレンツの砦壁を赤く染めている。
どこかで、あの四人も同じ空を見ているだろうか。
リーリエは交渉のテーブルで。ソフィアは印刷所で。メイは誰かの手を握って。ヴィオラは──たぶん寝てる。
笑った。
大丈夫だ。あいつらなら。あたしたちなら。
夕日が沈む。明日もここで、子どもたちと木剣を振る。
それがあたしの幸せで、あたしの戦い方だ。
カティア編、完です!!
次はソフィア編でございます!




