第8話 組織の元締めは
帳簿の数字は嘘をつかない。人間は嘘をつくけど、金の流れは正直だ。
レオンの物置小屋。木箱の上に帳簿を広げて、二人で突き合わせ作業を続けていた。倉庫から押さえた帳簿と、レオンがフェーレン側の情報筋から引き出した取引記録。筆跡は違うが、数字が合う箇所がいくつもある。
「この記号、分かるか」
レオンが帳簿の余白に繰り返し出てくる略記を指差した。二文字の頭文字。取引の承認者を示しているらしい。
「G・V」
「ゲオルク・ヴェルナー」
レオンの声に感情はない。事実を述べているだけだ。
「……知ってる名前?」
「クラウディアの侯爵。王都の南領を治めている。表向きは篤志家で、孤児院の設立や慈善事業への寄付で知られている」
「孤児院」
笑いそうになった。笑えなかった。
孤児院を作って、慈善家の顔をして──裏では子どもを売っている。孤児院から子どもを「選んで」組織に流す。表と裏が完璧に噛み合っている。
「こいつが、あのオークションの仮面なしの男?」
「断定はできないが、状況証拠は揃っている。帳簿の承認記号。資金の流れ。そしてもう一つ──」
レオンが別の書類を出した。封蝋の残骸が付いた紙片。誰かの文書から剥がされたものだ。
「この封蝋、見覚えがあるか」
じっと見た。紋章が半分潰れているが、形は読み取れる。
翼を広げた鷹。下に盾。盾の中央に──
「ヴェルナー家の紋章だ」
あたしは侯爵家の娘だ。王都の上位貴族の紋章は、社交界で嫌というほど覚えさせられた。母の教育に感謝する日が来るとは思わなかった。
「それだけじゃない」
レオンが封蝋を裏返した。裏面に別の刻印がわずかに残っている。小さな聖印。
「これは──」
「聖女の書簡に使われる副印だ」
◇
沈黙が落ちた。
小屋の外で風が吹いている。壁の隙間から冷たい空気が入り込む。帳簿のページがかさりと揺れた。
聖女の副印。
公式の神殿文書ではなく、聖女が個人的に発行する推薦状や嘆願書に押される印。あたしは学園で何度か目にしている。マリアベルが「この生徒を特別に推薦します」と書いた文書に押していた、あの印だ。
「ヴェルナー侯爵は、聖女マリアベルの政治的支援者だ。マリアベルの聖女認定に際して最も強く推した貴族の一人であり、神殿への寄進を通じて聖女の権威を後押ししてきた。見返りに聖女の政治的影響力を自身の事業に利用していた」
レオンが淡々と説明する。
「……聖女は、知ってたの」
「組織の具体的な運営には関与していない。だがヴェルナーの"事業"の性質を知らなかったとは考えにくい。少なくとも──黙認していた」
黙認。
知っていて、黙っていた。子どもが売られていることを。学園の中で組織が動いていることを。あたしがそれを止めようと拳を振るっていることを。
全部知っていて──「暴力令嬢」と呼んだ。
(あいつは)
拳を握った。いつもの癖だ。爪が掌に食い込む。
──違う。今は違う。
拳を開いた。もう一度握った。今度はゆっくりと。爪を立てずに。
怒っている。あたしは今、怒っている。でも暴発はしない。ここで壁を殴っても何も変わらない。レオンに八つ当たりしても意味がない。
あたしの怒りは、あたしの拳は、殴るべき相手に届くまで取っておく。
「カティア」
レオンがあたしの名前を呼んだ。こいつがあたしを名前で呼ぶのは珍しい。大抵は「お前」だ。
「何」
「顔色が悪い」
「怒ってるから」
「分かっている。だが──」
「大丈夫。暴れない。もう学園の時みたいに一人で殴りに行かない」
約束したから。背中を使えと言ったのはあんただ。なら、あたしも勝手には動かない。
レオンがあたしを見た。確認するような目。あたしが本当に大丈夫かどうかを。
「──大丈夫だって。信じなさいよ」
「信じている」
短い。短いのに、重い。こいつの言葉はいつもそうだ。
◇
怒りの底が静まるまで、少し時間がかかった。
小屋の隅に座って、壁に背中を預けた。包帯の傷はもう塞がりかけている。レオンが巻き直してくれた包帯は、まだ巻かれたままだ。
頭の中を整理する。
ヴェルナー侯爵が資金を出していた。聖女が黙認していた。あたしが学園で殴った十三人は、ヴェルナーの組織の末端だった。あたしが「暴力令嬢」として排除されたのは──
「あたしが邪魔だったんだ」
声に出した。
「あたしが学園で組織の末端を潰し続けていたから。あいつらにとって、あたしは目障りだった。断罪は──嘘をつくためじゃなくて、あたしを排除するため。組織を守るために」
レオンが頷いた。
「聖女にとって、お前は二重の邪魔者だった。組織の運営を妨げる存在。そして同時に、聖女の"善良な守護者"という嘘を揺るがす存在。お前がいる限り、本当に子どもを守っているのは誰なのかという疑問が──」
「消えない」
「ああ」
あたしは天井を見上げた。板の隙間から空が見える。曇り。
七年間。
あたしは組織と戦っているつもりだった。でも同時に、知らないうちに聖女の仮面を脅かしていた。あたしの「暴力」がなければ、聖女は何もしなくても「学園は安全です」と言い続けられた。あたしが殴るたびに、「なぜ聖女がいるのに暴力沙汰が起きるのか」と誰かが疑問を持つかもしれない。
だから消した。あたしを消せば、組織は自由に動ける。聖女は安全に嘘をつける。一石二鳥。
(──あの子たちを)
エルザの顔が浮かんだ。手紙を書いてくれたあの子たち。
あたしがいなくなった学園で、エルザは消えた。あたしが排除されたから。聖女が、黙認したから。
怒りが腹の底で煮える。熱い。でも暴発しない。この怒りは鍛えて刃にする。
「証拠は?」
「帳簿。封蝋。フェーレン側の取引記録。状況証拠としては十分だ。だが──」
「だが?」
「ここから先は国を跨ぐ案件になる。ヴェルナーはクラウディアの侯爵だ。フェーレンの捜査権限は及ばない。クラウディア国内で法的に裁くためには、クラウディア側の協力者が──」
「いない」
あたしは追放された人間だ。クラウディアに味方はいない。
──いや。
一人、浮かんだ。
リーリエ。
リーリエ・ヴァイスフェルト。公爵令嬢。七年間、王国の外交を一手に担っていた女。追放された今もどこかで──たぶん、何かを動かしている。あの人は黙っていられる人間じゃない。
外交ルート。国を跨ぐ案件なら、国と国を繋ぐ窓口がいる。リーリエならそれができる。
でも、リーリエがどこにいるか分からない。連絡の取りようがない。
「……すぐには無理だ」
「ああ。だが手はある。時間はかかるが」
レオンが帳簿を閉じた。あたしに向き直った──のではなく、窓のほうを向いたまま言った。
「お前は間違っていなかった」
「……え?」
「七年間。十三回。一度も、間違っていなかった」
背中を向けたまま言った。あたしの方を見ていない。窓の外の曇り空を見ている。
心臓が跳ねた。一回、大きく。
なんでだろう。怒ってたはずなのに。腹の底が煮えていたはずなのに。こいつのたった一言で、胸の真ん中が別の温度になった。
「……そんなの」
言いかけて、止まった。
「そんなの、分かってた」と言おうとした。嘘だ。分かってなかった。自分では分かっていたつもりだったけど、誰かに言ってもらったのは初めてだ。正しかったと。間違っていなかったと。
「……ありがと」
小さい声。自分でも聞こえるか怪しい。
レオンは答えなかった。窓から離れて、帳簿を革袋に入れ始めた。何事もなかったように。いつも通りの無表情で。
でもこいつの耳が赤いのを、あたしは見逃さなかった。
──いや。曇りの日の光の加減かもしれない。たぶんそうだ。うん。そういうことにしておく。
◇
小屋を出た。
曇り空の下、グレンツの町が広がっている。汚くて、雑で、煩くて。それでもここがあたしの場所になりつつある。
証拠はある。相手の顔も名前も分かった。聖女が黙認していたことも。
でも、ここから先は拳だけじゃ届かない。法と外交と──あたし一人では持っていないものが要る。
リーリエ。ソフィア。メイ。ヴィオラ。
あの四人の顔が浮かんだ。散り散りになった夜から、もう何ヶ月も経つ。みんな元気だろうか。みんな、どこかで戦っているだろうか。
(いや──あいつらのことだ。戦ってないわけがない)
リーリエは交渉で。ソフィアは情報で。メイは治療で。ヴィオラは──あの子は何をしているんだろう。寝てるのかもしれない。でもきっと、起きてる時に何かしてる。たぶん。
手紙の束に触れた。十一通。ぼろぼろになってきた。
エルザ。あの子を取り戻す。組織を潰す。ヴェルナーを法の前に引きずり出す。
一人じゃできない。でも一人じゃない。
隣にレオンがいる。遠くに、四人がいる。
拳を握った。今度は爪を立てずに。
「──やるよ」
誰に言ったわけでもない。自分に、かもしれない。
風が吹いた。南から。港の匂いがした。




