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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
カティア編

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17/40

第7話 傷の手当てくらい、自分で出来る

失敗した。


自分でも分かっている。単独偵察なんかするべきじゃなかった。レオンが「今日は動くな」と言ったのを無視して、組織の中継拠点のもう一つ──港寄りの倉庫を覗きに行った。


覗くだけのつもりだった。


見張りが二人いた。それは想定内だった。見張りの交代時間に死角から近づいて、窓から中を確認する。それだけの予定だった。


三人目がいた。


屋根の上。こっちの接近を読んでいた。頭上から飛び降りてきた男を避けきれなかった。短剣が背中を掠めた。掠めただけだ。浅い。でも革のベストが切れて、シャツの下が裂けて、血が出た。


三人をどうにか振り切って逃げた。殴り倒す余裕はなかった。一対三、相手が最初から位置を押さえている状態では、撤退が正解だ。レオンならそう言う。


悔しい。



宿の裏口から入った。表から入るとグレタさんに見つかる。見つかったら大騒ぎになる。


階段を上がって、部屋の扉を閉めた。


壁にもたれて息を吐いた。背中が痛い。熱い。血が止まっていない感じがする。シャツの布が傷口に張り付いている。


ランプに火を点けた。棚から包帯と消毒用の蒸留酒を出す。グレタさんが用心棒用に常備してくれているものだ。


背中に手を回した。


届かない。


右手を左の肩甲骨の下まで回そうとしたが、傷が引き攣れて腕が上がらない。左手で右の背中に回しても、角度が悪くて布を当てられない。


「……くそ」


もう一回やった。届かない。痛い。


もう一回。布が傷口に触れた瞬間、鋭い痛みが走って手が止まった。蒸留酒が床にこぼれた。もったいない。


扉が開いた。


レオンが立っていた。


「裏口から血の跡がついている。お前か」


「……違う」


「嘘をつくな」


こいつとのやり取り、毎回これだ。


レオンが部屋に入ってきた。あたしの背中を見て、目が細くなった。


「座れ」


「自分でできる」


「できてないだろう。座れ」


「できる。手が、ちょっと届かないだけで──痛っ」


動いた拍子に傷口が開いた。新しい血がシャツに滲む。


レオンがため息をついた。短い息。あたしがこいつから聞いた中で、一番はっきりしたため息だ。


「──座れ。頼む」


頼む、と言われたのは初めてだった。


座った。ベッドの端に。背中をレオンに向けて。



「シャツをめくる」


「……ちょっと待って」


「何だ」


「いいから、ちょっと」


深呼吸した。別にやましいことはない。傷の手当てだ。医務室でメイにやってもらったのと同じだ。同じ──じゃない。メイは女の子だし、メイの手は小さくて柔らかかった。


レオンの手は違う。大きくて、固くて、剣ダコがあって──


「早くしろ。血が止まらないまま長引くと良くない」


「分かってるっての!」


シャツの裾をまくり上げた。背中の、肩甲骨の少し下。自分では見えない。


レオンの手が触れた。


冷たい。指先が冷たい。蒸留酒を含ませた布を傷口に当てる手は、手際がいいくせに丁寧だった。戦場で何度もやってきた手つきなんだろう。でも乱暴じゃない。


「……っ」


染みる。歯を食いしばった。


「深くはない。だが範囲が広い。逃げながら切られたな」


「逃げたんじゃない。戦略的撤退」


「同じだ」


布を替えた。血を拭き取って、新しい布を当てる。その上から包帯を巻き始めた。あたしの胴に腕を回す形になる。近い。背中に、レオンの呼吸が当たる。


「なぜ一人で行った」


低い声。怒っている──のとは少し違う。


「……待てなかった」


「待てなかった、じゃない。俺が止めた。それでも行った」


「うん」


包帯を巻く手が止まった。


「なぜ一人で全部背負う」


言葉が胸に落ちた。妙に重い場所に。


「……背負える力があるなら、背負うのが当然でしょう」


口から出た。考えるより先に。ずっと自分に言い聞かせてきた言葉だ。


学園の七年間。あたしの拳は誰より強かった。だから守った。だから一人で立った。頼れる相手がいなかったんじゃない。頼ろうとしなかった。頼ったら、その人も巻き込まれる。あたしの拳が届く範囲は、あたしだけで守るべきだと思っていた。


レオンの手が包帯を結んだ。


「その考え方が、お前をここに追いやったんだ」


息が止まった。


「一人で背負い続けた結果が、追放だ。殴られた側が善人面をして、お前だけが暴力令嬢と呼ばれた。弁明もできなかった。一人で全部抱え込んでいたからだ」


「──それは」


「違うか」


違わない。


違わなかった。全部、そうだ。一人で背負ったから、一人で追い出された。七年分の傷も、功績も、全部あたしの体の中にしか残っていない。誰も証言できない。誰も知らない。あたしが一人でやったから。


「……分かってる」


声が掠れた。


「分かってる。でも、変えられない。あたしは──こういう人間だから。目の前で誰かが殴られてたら体が先に動く。一人で突っ込む。止められない。そういうふうに、できてるんだ」


包帯の上から、レオンの掌が触れた。


背中の傷を覆うように。押さえるように。


温かい。さっきは冷たかった指が、いつの間にか温かくなっている。あたしの体温が移ったのか。それとも──


「なら、背負う相手を増やせ」


「……え?」


「一人で背負うのが変えられないなら、背負い方を変えろ。全部自分の背中に乗せるな。俺の背中も使え」


声が近い。背中のすぐ後ろから。低くて、無愛想で、抑揚がなくて。


──全然優しくない言い方なのに。


「……何それ」


笑おうとした。笑えなかった。


代わりに、涙が落ちた。


止められなかった。こらえようとしたのに。拳を握って、歯を食いしばって、泣くもんかと思ったのに。目の奥が熱くなって、ぼろっと一粒こぼれた。


一粒で済まなかった。


二粒。三粒。膝の上に落ちる。シャツに染みを作る。止まらない。


学園で、泣かなかった。殴った後も、睨まれた後も、一人で寮に帰って拳を水に浸しながら、一回も泣かなかった。泣いたら負けだと思っていた。守る側の人間は泣かないと決めていた。


断罪の夜も泣かなかった。門の外で「泣くのは一人になってからだ」と言って、結局泣かなかった。一人になっても泣けなかった。一度泣いたら止まらなくなると分かっていたから。


今、止まらない。


レオンは何も言わなかった。


背中から手を離さなかった。包帯を押さえるように、あるいはもう少し別の意味で。あたしが泣き止むまで、ただそこにいた。



どのくらい経ったか分からない。


涙が止まった。鼻がつまった。顔がぐしゃぐしゃだと思う。最悪だ。


「……見た?」


「何を」


「あたしの泣き顔」


「見ていない。背中しか見ていない」


嘘つけ。でもありがたい嘘だ。


鼻をすすった。袖で顔を拭いた。レオンの手が背中から離れた。少しだけ寒くなった。


「あんた──レオン」


「何だ」


「背中、本当に使っていいの」


「言ったことを撤回する性格に見えるか」


見えない。こいつは一度言ったことを曲げない。正論と同じくらい、約束は硬い。


「じゃあ使う。──でもあたしも、あんたの背中を守る。一方的に寄りかかる気はない」


レオンが立ち上がった。部屋の出口に向かう。


「当然だ。一方的な関係は長続きしない」


背中を見送った。広い背中。あの背中の向こう側を、あたしは戦闘中に何度も感じた。あの背中が、あたしに使えと言っている。


扉の前でレオンが足を止めた。振り返らなかった。


「明日は休め。傷が塞がるまで偵察はするな」


「……了解」


「素直だな」


「たまにはね」


レオンが出て行った。扉が閉まった。


一人になった。


一人なのに、背中がまだ温かかった。


包帯の上から手を当てた。レオンの掌があった場所。大きくて、固くて、剣ダコのある手。


(一人で背負わなくていい、か)


十九年と七年間。誰にも言われなかった言葉だ。


侯爵家では「強くあれ」と言われた。学園では「暴力はやめろ」と言われた。「一緒に背負う」と言われたのは初めてだ。


手紙の束に触れた。十一通。あの子たちが「ありがとう」と言ってくれた。それだけで十分だと思っていた。


でも今は──「ありがとう」だけじゃなくて、「隣にいる」と言ってくれる人間がいる。


窓の外、月が出ていた。


明日は休めと言われた。素直に従う。背中の傷が痛いのは本当だし、休むのも悪くない。


──こういう夜を、あたしは知らなかった。泣いた後に、少しだけ楽になる夜。


拳を開いた。


掌に、爪の跡が残っている。古い跡と新しい跡。何年分も重なった跡。


初めて──その掌を、握り直さなかった。


開いたまま、膝の上に置いた。


今夜だけは、拳を作らなくていい。

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