一之五
「ありましたあっ」
日記を掲げて箏太郎が叫ぶ。
「なんと書かれているのです?」照潤が目を輝かせた。
「これは、関ケ原の頃の記述ですね。逃避行の途中で山賊に襲われた折、萩野弦三郎が目覚ましい働きをして追い払ってくれた。褒美に父信玄より受け継いだ銅鏡をあたえた。あの者は今、戦場にでている。無事帰ってくることを願っている。ふうむ、信松尼様が祖父の身を気にかけてくださっていたとは」
箏太郎は、感涙にむせびだしそうな様子である。
「で、その先は?」十兵衛が訊いた。
「その先ですか?特にこれと言って……」
「箏太郎殿」と照潤があきれたように言った。「それでは、銅鏡の謎がまるで解けてはいないではありませんか。あなたのお祖父様が銅鏡を頂いた裏づけにしかなりません。何故、銅鏡が謎の男に狙われるのか、それほどに秘めた価値があるのか、あるとすればどのような秘密が隠されているのか、そういう記述を見つけていただかないと」
「はあ、すみません。私のはやとちりでした」
十兵衛は、箏太郎の少年らしいそそっかしさに微笑みながら、
「まあ、めげることもない。続けよう」
「その前に」と照潤が腰をあげた。「夕餉にいたしましょう。すぐにおもちいたします」
「これは御造作をおかけする。では」と十兵衛も腰を浮かせた。「私は汗を流すとしよう。井戸はいずこかな?」
「まさか、井戸で沐浴でもするおつもりですか?」
「さようだが」
「ここは寺です。女人が外で肌を曝けだすなど言語道断。盥をご用意しますので、奥のお部屋で体をお清めください」
「これは気づかぬことで」
十兵衛は、自分も箏太郎のそそっかしさを笑えんなと苦笑するのだった。
照潤が寺の厨にいって間もなくして、小坊主が水のはいった盥を抱えてもってきてくれた。触ってみれば、水ではなく、ほどよく温かい湯であった。寺の気遣いに感謝しつつ、十兵衛は照潤に言われた通り、奥の部屋にいって、着物を脱ぎ、体を拭き始めた。
ここ数日、ばたばたとしていて、体を拭く暇すらなかった。こびりつく垢や汗を久しぶりに拭き取り、十兵衛は生き返ったような心もちであった。
と――。
十兵衛が体を拭く背後の、乱雑に置かれた着物の側で、影が動いた。
はたしてどこからはいってきたのか、いつからそこにいたのか――?
音もなく、気配もなく、一抱えほどの大きさの影は、もぞもぞと動き、着物を漁り始めた。
それは、人影であった。
人がうずくまって、着物をまさぐっているのだ。
そのまるで気配のない人の存在に気づいたのは、十兵衛の剣術修行で鍛えられた感覚によるものであった。
十兵衛は振りむきざま、手にした濡れ手拭いを振った。
兵法家の妙と言うべきか、ただの濡れ手拭いは板のような硬さとなり、影にむけて振りおろされる。
だが、その影もただ者ではないようだ。
風を切って襲いくる手拭いを、一間も飛んで躱した。
「曲者っ!」
十兵衛が叫び、影が襖を倒して部屋から逃げ去ってゆく。
その物音と叫声に振りむいた箏太郎の目に映ったのは、部屋から飛びだしてきた、全裸の十兵衛の姿であった。
引き締まった体に、小ぶりだが形のよい双丘がふくらんでいて、その頂上の薄紅色の乳暈。
箏太郎は一瞬ではあったが、その美しい肢体に釘づけになった。
先に転がりでてきた謎の影など、まるで視界にはいらない。
十兵衛は照潤にたしなめられていたのもかまわず、縁側にでると、その影を睨んだ。
「箏太郎、刀っ」
声に応じて、箏太郎は、目を離そうとしても離せぬ、十兵衛のきゅっと小高く盛りあがった尻を見ながら、手近にあった自分の刀を投げた。
それを振りむきもせずに左手で受け取った十兵衛は、刀身を鞘走らせ、
「何者かっ」
十兵衛の誰何に、庭先でうずくまっていた影が、残照のなかで、ゆっくりと立ちあがる。
背丈は小柄で、山吹色の着物に手っ甲脚絆をつけて、顔は布で覆われている。胸のふくらみから察して、女子のようである。
「乱破かっ?」
十兵衛の戸惑いに、小柄な影は布の間からのぞく目が笑ったようである。と見えた刹那、その手が素早く動いた。同時に十兵衛が体を捻った。捻った胸元をかすめるようにして、黒い物体が走り、奥の柱に突き刺さった。十字手裏剣であった。
十兵衛が手裏剣に気を取られた瞬間には、すでに忍は姿を消していた。
「いったい何奴……」
先日の少年の一味であろうか。しかし、それにしてはあの少年にあった妖気のようなものは感じられなかった。不審に思いつつ、十兵衛は忍の消えた庭をじっと見つめるのだった。
そこへ、膳を運んできた照潤と小坊主ふたりが、庭先に現れた。
「何をしておいでですっ!」
照潤の叱声が飛んだ。
「はあ、まあ、これはその……」
十兵衛は頭を掻き掻き、そそくさと奥へと引っこんでいった。




