一之三
あの白皙の美少年が萩野家に現れたのは昨夜遅くなってからであった。
萩野家は、箏太郎の祖父弦三郎が若き日に松姫の逃避行に随従したことを誇りにしているくらいで、後は取り立てて自慢するものなど何もない平凡な家であった。
松姫とは武田信玄の娘で、四十年ほど前、武田家滅亡の折にここ八王子まで苦難を重ねて落ち延びてきた女性である。銅鏡は、逃避行の途次に松姫様の危難を救ったご褒美として頂いたものなのだそうで、神棚に祀って大切にしていたのだった。
家は八王子千人同心の同心身分で、役目がないときは田畑を耕すという、半士半農の生活を送っていた。母親はすでに他界している。
そんな何の変哲もない家だから、見ず知らずの者が、しかも夜更けに突然訪ねてくるなど、いまだかつてなかったことだった。
最初、父の仙之助が居間で少年の応対をしていた。
箏太郎はひと間置いた自室で書物を読んでいたが、やがて、ふたりの声が高くなり、怒声すらも板戸を通り抜けて聞こえてくるようになった。
これはただごとではないと、箏太郎は刀を手に居間へとむかった。
箏太郎が板戸を開けるのと、仙之助が斬られるのが同時であった。
仙之助が倒れた拍子に行灯を押し倒し、流れだした油を火が伝い、襖に燃え移り、床板を焼き、瞬く間に部屋全体が紅蓮の炎に包まれた。
――父上!?
胸を斬り裂かれ、仰むけに倒れている仙之助に近寄った箏太郎に、
――銅鏡を……。
そう血を吐きながら呟いて仙之助はこと切れた。
――おとなしく銅鏡を渡さぬからそうなる。おぬしも同じ運命をたどりたくなければ、素直に銅鏡を差しだせ。
少年は不気味な笑みを浮かべながらそう言った。
箏太郎は怒りにまかせて少年に斬りこんだ。
だが、少年はなんなく箏太郎の刀を躱した。
後は、十兵衛が見た通りであった。
箏太郎はときに言葉を詰まらせ、体験した出来事をひとつひとつ思いだしながら話した。
時折、顔をしかめたのは、父の死を、殺された悔しさを、ぎゅっと胸の底に押し沈めているかのようであった。
十兵衛は箏太郎から銅鏡を受け取って、表、裏とくるくる回しながら観察した。裏面に四聖獣と思しき生きものや唐草のような文様が施されている。よく手入れされていて、さすがに文様の奥には緑青が浮いてはいたものの、鏡は十兵衛の顔を綺麗に映した。火災に遭ったのにまったく煤汚れひとつついていないのが不思議ではあったが、見る限り青銅でできたただの銅鏡だ。わずかな妖気が感じられたが、これが古代に作られた遺物だとすれば、長い年月を経るうちにいくばくかの妖気が宿ったとしてもおかしくはない。
はたして、この銅鏡にどれほどの価値と、どんな意味があるのか。人ひとりの命を奪っても手に入れたいほど貴重なものなのだろうか。
「おおい、皆の衆」
十兵衛は集まって片づけを手伝っていた村の衆に、
「この銅鏡のことだが、何か知らぬか?」
そう訊いて回った。
村人たちは顔を見合わせて、首を捻った。
「さて、初めて見るのう」
「仙之助殿にも、亡くなった先代にもそんなものがあるなんぞ、ひと言も聞きはせなんだ」
「松姫様をお助けしたことがあるとな?先代はそんな自慢をするような人ではなかったからの」
などと、何ひとつ知っている者はいなかった。
ただ、そのなかのひとりが、
「松姫様に頂いたものなら、信松院にいって訊いてみると何かわかるかもしれねえ」
そう教えてくれた。
松姫は仏門にはいって信松尼と名乗り、草庵を結んで一族の菩提を弔っていたが、それがやがて寺となったのが信松院であった。
なるほど、と十兵衛は思った。信松院へといけば、信松尼から銅鏡の由来を聞いている者がいるかもしれないし、日記のようなものがあればそれに何か書かれているかもしれない。
そうこうしているうちに、代官所から役人がやってきて検分を始めたが、十兵衛が関所で使ったのと同じ木札を見せて多少の説明をすると、何か得心した様子で帰っていった。
箏太郎が首を傾げていると、十兵衛は、
「ここから先は我が柳生家がすべて引き受けよう。お父上の仇討ちの手助けもしてあげるよ」
そう言って力強く頷いた。
翌日には、近所の寺で葬儀があわただしく執りおこなわれた。
きっと、辛く、悲しく、苦しいであろうに、箏太郎は感情を鎮めて、悲愴な様子など微塵も見せなかった。まだ元服したばかりの、十五の少年とは思えぬ、凛とした姿であった。




