七之五
義直が本堂にはいると、須弥壇にむかって左のほうに赤い着物を着た女が座っていた。義直はそのまま右手の上座に座った。刀は鞘ぐるみ外し、いつでも手に取って抜けるように左側に置いた。
「お初にお目にかかります」女が深々と頭をさげて言った。「将軍家剣術指南役、柳生宗矩が娘、鞘花にございます。されど願わくば、通称である十兵衛とお呼びくださりたく存じます」
「そなたの兄とは江戸の城中で幾たびか会うたことがある。挨拶を交わした程度ではあったがな。兄十兵衛も態度には見せぬものの、内心では権威を屁とも思っておらぬ男だったが、さすがは血を分けた兄妹よ。なんとも小面憎いものかな。このような真似をして、なんの咎めも受けぬとは思うておらぬな」
「思うております」
「何?」
「中納言様におかれましては、私にも、ましてや我が父にも尾張の従兄にも、なんの咎めだてもなさりはいたしませぬ」
「なぜそう言いきれる」
「中納言様のお心には、まだ一握の良心が残ってございます」
「わかったふうなことをよう言える」
「妖魔に魅入られ、真にお心が邪悪に染まっておいでなら、ここに至るあいだに、案内した娘を捕らえることも、命を奪うこともできたはずです」
「そなたに会うために、従順なふりをしていたにすぎぬ」
「そうは思えませぬ」
「わしはそなたを殺してでも、信玄の財宝の鍵である銅鏡を手にいれるつもりだ」
十兵衛の眉がぴくりと痙攣し、怒りに震える両手で膝を掴んだ。そして声も震わせつつ、言った。
「信玄の財宝?そんなもののために、六道冥衆と我らは命をかけて剣を交えてきたのですか?」
「家臣が主のために命をかけるのは当然。莫大な財宝が手にはいればわしが次の将軍の座につくことも夢ではなくなる。なれば、家臣の死も報われるというものだ」
「馬鹿馬鹿しい」吐き捨てるような十兵衛の声であった。
「なんじゃと?」
「財宝?将軍の座?なんという見さげ果てた野望かな」
「おのれ、聞き捨てにできぬぞ」義直の額にたちまち青筋が浮かびあがった。
「強者に唯々諾々従う武士たち、勝者に踏みつけられ貧困に喘ぐ牢人たち、汗みずくになって働けど働けど搾取され続ける百姓たち。怨嗟の声が世に満ち満ち、慨嘆が嵐となって吹き荒れておるのが、その耳には聞こえなさらぬか」
「それがどうしたというのじゃ」
「右大将様が公方になろうが、中納言様が公方になろうが、そんなことは私の知ったことではございません。民の上に立つ者の性根がもとから変わらねば、未来永劫、苦衷にさいなまれて、のたうち回る者は日本の大地からなくなりはいたしませぬっ」
「そ、そこへなおれ、成敗してくれるッ!」
叫びが本堂にこだまし、義直は左手で刀を掴んで片膝を立て、柄を右手で握りしめた。
「私が言いたいのは、権力争いなどというくだらないことは上のほうで勝手にやってくれということです。それに巻き込まれて人生を狂わされた無辜の少年がひとりいるということです」
「黙れ、匹婦めッ!」
義直は怒りをほとばしらせ、刀を抜こうとした。
が、
「ぬう」
ひとつ唸ったまま、硬直して動かない。
不審に思った十兵衛も動こうとしたが、体がまるで鉄の塊にでもなったかのように、微動だにできない。
なにかの妖術にかかったとはわかるが、いったい誰がかけたのか。
ただ固まっているように見えて、ふたりの体は、よく見れば白い綿のような物に上から覆われていた。
さらに目を凝らせば、綿ではなく、蜘蛛の巣のようだ。
蜘蛛の糸がふたりの体に絡みついている。
本堂の入り口の戸がすっと開いた。
喉の奥で笑いながら、小柄な人影がはいってきた。人を嘲るような不快な笑声である。
「ふ、普賢丸……」
わずかに動く唇で、義直が呟いた。
普賢丸はなんらかの妖術を使って身を隠し、義直の跡をつけてきたのだろう。
この分では、外にいる三人も金縛りにされ、身動きが取れなくなっているに違いない。
普賢丸は義直を一瞥することもせず、十兵衛の前に立った。
そして、おもむろに十兵衛の着物の襟に手を差しいれた。しばらく着物のうちをさぐると、目当ての物を見つけて取り出した。
十兵衛の腹に晒で巻きつけていた銅鏡である。




