七之四
春日井原、というのは、名古屋の北東に広がる荒野であった。
小さな集落が点在する他は見渡す限りの草原が続いている。
その荒野の中ほどにある朝宮の地に、徳川義直は直垂を着、行縢をはき、綾藺笠をかぶった狩装束で、馬にまたがり寥々とした景色を眺めていた。薄い雲が覆った灰色の空が、その景色をいっそう空虚にしていた。
供の者は、驚くほど少ない。
鷹匠や数人の小者の他は、騎馬の者がわずかに二十人である。
義直ほどの大大名が鷹狩りをするときには、徒士、騎馬、獲物を追いたてる勢子など、場合によっては千人もの藩士領民が集められるのが普通であった。
この鷹狩りがほんの五日前に急遽決まったこともあるが、実際は、百人以上もの藩士が、狩場のいたるところに隠れ潜み、たったひとりの娘の到来を待ちかまえていたのである。
「遅いのう」
義直は鞍上から、隣の馬にまたがる普賢丸に、声をかけた。
「狩りを始めて、もう、ふた刻(四時間)にもなるというのに、いっこうに例の娘は現れぬではないか」
「必ず、現れます」普賢丸は確信するように言った。「それまでは、ごゆるりと狩りをお楽しみなされませ」
「突然襲ってきたらいかがする」
「そこまで愚かな女とは思えません。それに、十重二十重に人数を配しておりますれば、十兵衛めの接近が探知できぬことなど、ゆめありえませぬ」
馬を進めた義直は、手にした鷹を空に放った。
鷹は勢いよく蒼天に舞いあがり、幾度か弧を描いて飛んだかと思うと、地上目がけて急降下した。草むらの中からふたたび姿を見せたときには、爪に小さな野兎を掴んでいる。
捕らえた獲物の小ささに、いささか落胆しながらも、義直は戻ってきた鷹を腕にとめた。
その時。
背中に奇妙な温かさを感じた。
そして、柔らかな胸の感触。
――女だ。
義直は直感した。同時に喉をならして唾を飲みこんだ。脇の下から細い腕が伸び、胸元に匕首が突きつけられている。
周囲にいた供の者たちは、一様にどよめいた。
その女が、義直の背後に現れるまで、誰も気配に気づかなかったのだ。まるで煙かなにかのように、突如湧き出たとしか見えなかった。
「皆様、お静かに。中納言様、ご無礼をお赦しくださりませ」女が言った。まだ少女のような声である。
「む、現れたか。お主が柳生十兵衛か?」声の震えを押し殺すようにして義直が訊いた。
「いえ、私は十兵衛の仲間のひとりにございます」
そう、今、義直の背後にピタリと胸をつけて、馬の背にまたがる娘は、公儀隠密の穂波である。
「これより、私の言う通りに馬を動かしていただきます」義直の耳朶に吐息をかけるように言って、そして周囲にむかって、「供のかたがた、それから、そこかしこにお隠れになっているかたがた、どうか、その場にお留まりくださるよう願います。決して我らの跡を追ってきませぬよう。もし私の申すことをきいていただけぬときは、中納言様のお命にかかわるものとお心得くださりませ」
十兵衛がみずから現れる、それを家臣たちが捕らえるものと想像していた義直は、額にも脇の下にも冷たい汗をかいていた。まさか十兵衛が仲間を使って、このような大胆な方法をとるなどとは、思いもしなかった。
「いかがせよと申すのじゃ」
「ここより東にむかって馬を駆けさせてください」
鷹を鷹匠に渡すと、義直は手綱を操った。
速足で馬を走らせる義直に、
「駆け足でお願いします」
願うというより脅迫するような、穂波の声だ。
藪に沿って進み、小川を渡り、荒れた道を駆け、一里(四キロ)ほども馬を走らせると、広大な敷地に堂塔伽藍を有する寺が見えてきた。
密蔵院であった。
かつては七百余りの末寺をもつ天台宗の壮大な寺院であったが、戦国の頃に衰退し、今は復興の最中である。
南の総門とその先の仁王門をくぐり、境内に馬をいれると、左手に古色をおびた多宝塔があった。
さらに奥の本堂の前まで義直が馬を進めると、背にあった温もりがすっと消えた。首を巡らせば、階の下で、今まで背中にいた女と尼僧、それに武家の若者が膝をついて頭をたれている。
この歳若い者たちが、あの六道冥衆を――、僧侶である界嶄は別にしても、あの剣の達人である上に妖魔と融合した四人の男たちを討ち果たしたというのが、義直には信じられぬ。
「どうぞ、本堂へおあがりくださりませ」
穂波にうながされても、忌々しげに三人を眺めていた義直であったが、やがて馬からおりた。即座に立ちあがって轡をとった若者に手綱を渡し、義直は本堂へとあがっていったのだった。




