六之六
十兵衛は八双に構える。
石鎚は両手で柄を掴み、大上段に構える。
静寂が砂浜を支配した。
聞こえるのは、岸を洗う漣の音ばかり。
波が三度ばかり寄せては引いた。
その時――。
石鎚が吠えた。
その咆哮の圧力だけで跳ね飛ばされそうになり、十兵衛は必死に踏ん張った。
石鎚の後ろに伸びた細い影が動く。
いや、動いたのは影でなく、尻から伸びた蛇である。
十兵衛がはっとしたときには、蛇は裂けんばかりに口を広げ、その牙を剥きだしにしていた。だが、噛みついてはこない。代わりに口から紫色の霧を吐きだす。
十兵衛は息をとめ、顔をそむける。毒霧だと察したからだ。
石鎚という男は、闘いに際しては潔癖だと十兵衛は思っていた。が、この瞬間、この男は卑劣漢に堕した。
「しゃあッ!」
一声叫び、石鎚が踏み込みつつ大長刀を振りおろす。
十兵衛の頭上から激烈な一撃が落ちてくる。隕石が落ちてきたような迫力だ。
十兵衛は、その太刀筋を冷静に見極めた。
波が引くように、すうっと一歩さがる。
鼻先一寸を切っ先が通り過ぎる。
振りおろされた大長刀が、大地に突き刺さる。
石鎚は太陽の光を真っ向から浴び、目を幻惑されて、間合いの目算を誤ったのだ。
十兵衛は、闘いの間中、太陽を背にして位置を取ることを念頭に置いていた。対して石鎚は妖魔と化し、心までも獣になり、位置取りなどは頭の片隅にもなかった。
そこが勝負の分かれ目であったろう。
十兵衛は一歩踏み込む。
その足が踏むのは、大長刀の峰だ。
そのままつつっと峰の上に足を運び、間合いに入るや、八双から刀を振りおろす。
刃は石鎚の脳天に喰い込み、首を割り、胴を裂き、股下まで斬りさげた。
「軍荼利明王よ、浄化の炎で障礙を滅したまえ!」
刀を引いて、そして横薙ぎに一閃。
十字に斬り裂かれた石鎚の体から、天空へむけて血柱が立ちのぼる。血飛沫が、十兵衛を真っ赤に染めた。
黒い妖気の靄が石鎚から湧きあがり、朝焼けの空へと消えてゆく。
ふうっと吐息をついた十兵衛は、大刀に拭いを掛け、鞘にしまった。闘いの最中に投げた脇差を探すと、石鎚の墓標のごとく砂浜に突き立っていた。
十兵衛はそれも納めると、突然着物を脱ぎ始めた。
慌てて箏太郎が顔をそむける。
十兵衛は素っ裸で、湖に入っていった。
そうして体を洗い始めた。体にこびりついた血糊を落としているのだった。
時は四月で、まだ水は冷たいだろうに、十兵衛は平気な顔だ。
ひとしきり体に水を浴びると今度は泳ぎ始める。白魚のように辺りを数週くるくる回る。そして、
「おい、箏太郎も入ってこいよ。気持ちいいよ」
背泳ぎで、ぷかぷかと浮かびながら、そんなことを言うのだ。水面に浮かぶ形の良いふたつの乳房と白い腹と、すらりと伸びた足が、波に揺れている。
「あの、十兵衛殿」遠くから、そっぽをむいたままで、箏太郎は呼びかけた。
「なんだい」
「あの、ここは、海に近いですから、塩気も強いと思うんですが」
「それがどうした」
「後で、体がべとべとになりますよ」
「あ」と十兵衛は頭を掻いた。「そりゃあ思いつかなかった」
浜にあがった十兵衛は、着物を着て、合羽で衣服に染み込んだ血を隠した。
「寺に帰って、水浴びをするとしよう。今晩は熱で倒れるだろうから、その間に着物を洗っておいてくれ、箏太郎」
「はい」
「此度の闘いでは、祓魔眼の力を使いすぎた。ふつかか三日は寝込むかもしれないし、ひどくうなされるかもしれない。けど、余計な世話は無用だよ。寝れば治るんだから」
そう言って、飄々と歩き始めた十兵衛を、浜名湖を吹き渡ってきた風が追い越し、合羽の裾をはためかせた。そんな爽やかな風も、十兵衛の心に兆した幽暗な感情を吹き払ってはくれなかった。
十兵衛は思うのだ。
石鎚弾右衛門という男とは、このような出会いでなければ――、妖魔に魅入られずに同じ柳生新陰流の一門として出会っていたのならば、よき好敵手として、よき先輩として、共に修行の日々を送れたかもしれなかったのだ。
人の出会いとは不思議なものだ。ほんのわずかに出会う時がずれただけで、敵にも仲間にもなるのだ。人との出会いが不幸であればあるほど、十兵衛は自分の、この祓魔眼をもって生まれた数奇な運命を呪わずにいられない。もし神が存在し、運命を操っているのならば、その神はよっぽど意地が悪いのだろう。
――いや、よそう。
十兵衛は首をふった。
箏太郎や照潤のような、心が静穏になるような出会いもある。それでいいじゃないか、私の運命もまんざら捨てたものじゃない――。
また、爽やかな風が、十兵衛を包んだ。




