六之一
「む?」
萩野箏太郎と手首と手首を下げ緒でつないだ柳生十兵衛は、ふと足をとめた。
今まで周囲を覆っていた霧が、急に晴れてきたのだ。
「なぜ急に霧が消えてゆくのでしょう?」箏太郎は首を傾げる。
「単純に考えれば、照潤か穂波が敵を倒してくれたんだろう」十兵衛が答える。
「おふたりとも、無事ならいいのですが。しかし、ここはどこなのでしょうね」
手首に巻いてふたりをつないでいた下げ緒を解いて、十兵衛も頭をひねる。
「歩いてきた感じでは、まだ中山峠を越していない気がするけどね」
と十兵衛はひときわ丈高い櫟の木を見つけると、幹に手をかけた。
「十兵衛殿、なにをされるのですか?」
「登って辺りを見渡してみるのさ」
「はあ、では、私が登りますよ」
「いや、いいよ。箏太郎、ちょっとかがんでくれ」とかがませた箏太郎の肩に乗り、「ようし、このまま立ってくれ」
立ちあがった箏太郎の肩を足場に枝につかまり、栗鼠のようにするすると木の天辺近くまで登っていった。
「何か見えますか?」
木の根元で聞く箏太郎に、十兵衛は、
「うん。あっちに富士山があって、こっちに城があるな。あれは……、掛川城か?」
と、木の幹を抱えてすべりおりてきた。
「どうやらここは、掛川の南にあるなんとかいう山のようだ。おい、箏太郎、私たちは小夜の中山峠から、三里(十二キロメートル)ばかりも飛ばされたようだよ」
「え、三里どころか、三十町(三キロメートル)も歩いた気がしませんが」
「うむ、完全に敵の幻術にしてやられたというところだな」
そうしてふたりは、掛川目指して山をくだり、麓に着いたころにはすでに日が暮れかけていた。
「照潤さんと穂波さんとは、もう会えないのでしょうか?」箏太郎は不安げだ。
「なに、ふたりには、名古屋の柳生道場を目指すと伝えてある。むかう場所は同じなのだから、またそのうち出会えるんじゃないか」十兵衛は呑気なものである。
掛川宿に着いたふたりは、適当な旅籠屋を見つけた。
「面倒だ、ひと部屋でいいだろ」
などと十兵衛は箏太郎とふたりきりで泊まることもまったく平気だ。
旅をしているとつい忘れがちだが、箏太郎の目の前にいる十兵衛は、実は女なのだ。
「いや、私が困るのですが」箏太郎は困惑した。
「うん、なに、私に何かするつもりなの?何かしたらどうなるかわかってるよね?」
「いえいえ、そういった意味ではなくって、そのう、なんといいますか」
剣の達者である十兵衛に夜這いなどかけようものなら、即座に命脈は尽きる。そんなことは、言われなくとも箏太郎にはわかっている。わかってはいるが、ひとつの部屋で女とふたりきりで夜を過ごすとなると、年頃の箏太郎の男の部分が落ち着きをなくすのだ。そこがなんとも、もどかしいほどに説明しづらい。
十兵衛には箏太郎の困惑が理解できない。
十兵衛は部屋にはいると、箏太郎の前で平気で着物を脱いで、白い肌を見せるし、
「ここには風呂があるそうだよ。いっしょにはいろうか」
などと平気な顔で言うし、思春期の箏太郎にとってはたまったものではない。
女十兵衛は、色恋に興味がないという穂波の説は正しいようだ。箏太郎を男と見ていないのか、男に裸を見せるのも平気なのか……。
しかたがないので、箏太郎は、極力十兵衛のほうは見ず、ずっと壁にむかって座っていることにしたのだった。
翌日は、見付宿に泊まった。また十兵衛といっしょの部屋だったものだから、箏太郎は神経をすり減らし、夜は緊張してろくすっぽ眠れず、朝になれば目の下に隈をつくり、くたびれはててへろへろになって街道を歩くのだった。
天竜川に着いたふたりは、土手で渡し舟の順番をまった。
大井川とは違い、舟で川を渡るので、幾分気が楽である。
昼時のぽかぽかとした陽気で、川は穏やかに流れ、渡し舟をまつ旅人も多い。
そんな風景を眺めていた十兵衛と箏太郎は、ふと気配を感じて振りむいた。
見付宿のほうから街道をやってくる黒ずくめの集団が目にはいった。
墨染直綴に、網代笠をかぶった雲水が十人ばかり、列をなしてこちらにくる。手にもつ錫杖を地に突くたびに、シャリンシャリンと遊環が心地よい音色を奏でる。
箏太郎が目を見張ったのは、その雲水行脚の集団ではなく、十兵衛のほうだ。
十兵衛は、雲水の行列を睨みつけながら、刀の鯉口を切ったのだ。




