五之四
照潤は、立ちどまって辺りを見回した。
十兵衛たちと離れ離れになって、もうずいぶん経つ。
「ううむ、この森は複雑な迷路のようになっていますね。迷路は右手か左手の壁――、今は樹々に沿って歩けば、やがて出口にたどりつくとは言われていますが」
聞いていた穂波は鼻で笑った。
「それは、人間が作った迷路の話でしょう。この森の迷路は、妖魔の力で作ったいわば幻覚によるものなんだから。人間界の法則など役に立たないに決まってるじゃないの」
「おだまりなさい。そんなことは言われなくともわかっています。いちいち人のあげ足を取るようなことを言うんじゃありません」
「じゃあ、この迷路から抜け出す方法を教えてほしいものだわ」
「それがわからないから途方に暮れているのでしょう。嫌みばかり言ってないで、穂波さん、あなたも抜け出す方法を考えなさい」
「じゃあ、考えを述べさせてもらうけど」穂波の挑むような言いかたである。「敵は何が狙いで、こんな面倒なことをしているのかしら」
「それは、私たちを惑わせて」
「惑わせて?」
「分断して」
「分断して?」
「ううむ」
「でしょう。敵のやってることが理解できないのよ。このまま迷路のなかで迷わせて、飢え死にするのをまつなんて、悠長な作戦よね」
「そうですね、我々を分断してひとりずつ撃破するのでしたらわかりますが、敵は襲ってもきませんね」
「襲ってくるとしたら、いい加減襲ってきてほしいものだわ」
「ここで立ちどまっていても、それこそ餓死するのをまつだけです。ともかく、歩きましょう」
ふたりはしばらく歩いた。人間界の法則など役に立たぬと言いながら、きっちり右手の樹々に沿って歩く照潤である。そうして樹々に沿って歩いているうちに、ふと気がついた。
「もう何度も辻を右に曲がっているのに、もとの場所に戻るでもなし、先に進んでいるでもなし……。妖魔の力で作った迷路とはいえ、ここまで自然界の法則を無視しているとは。もう滅茶苦茶ですね」
が、いつもはあげ足を取ってくるはずなのに、穂波の声が聞こえてこない。
「穂波さん?」
照潤は振り返った。しかし、そこには人影どころか生き物の気配すらない。
「穂波さん、どこにいるのですッ!?」
嗄れんばかりに大声で呼べども、その声はむなしく森の深奥へと吸い込まれてゆく。
「これは、いつの間にか、穂波さんとも分断されてしまったようですね」
ただ離れ離れになって道に迷っているだけか、敵に捕まっているか、はたまた、自分ひとりが脱出路を見つけ出して、照潤を置いて去っていった、という可能性も、あの穂波ならありうる。
「愚かな」
そう言ったのは、穂波にではなく照潤自身にである。
仲間が自分を見捨てて逃げた、などという考えが、寸時でも心によぎった自分を叱ったのだ。
「必ずあるはずです、この迷路を抜け出す方法が。くじけてはなりません」
みずからを叱咤し、六尺の樫の棒を杖がわりに突いて、照潤は歩きだした。
そうして、四半刻も歩いただろうか、空を見あげても霧に阻まれて天道の姿さえも見えぬから、時間の感覚がまるで狂ってしまっている。
ぜえぜえと息をしながら、照潤の頭にひとつの案が浮かんだ。
――道に惑わされず、真っすぐ進んでみたらどうだろう。
ひたすら真っすぐ進めば、いつか森から抜け出せるのではないか。
しかし、どちらへ進めばよいものか、まるで見当がつかない。東西南北のどちらがどちらかすらも、まったくわからないのだ。
――いや、目指すのは出口ではない。
この迷路が妖魔の仕業なら、その妖魔を倒すことが、出口への一番の近道かもしれない。
――とすれば、妖気を探ってそちらへむかえばいい。しかし、私には、妖気を感じとる力はない。では、どうする?
照潤は頭を回転させて必死に考えた。
――わからぬ……。
考えれば考えるほど、頭は混乱し、正解がかえって遠のいてゆくのだ。
「心を落ち着けよう」
照潤は地べたに座り、足を組み、座禅の姿勢に入った。
その口から、静かに経が流れ出る。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」
心を無にし、般若心経を唱え続けた。
「舎利子是諸法空相」
すると、どうしたことであろう。
今まで周囲を閉ざしていた霧に揺らぎが生じ始めたではないか。
「得阿耨多羅三藐三菩提」
妖魔の作り出した幻覚であるだけに、経には弱いと見える。
「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経」
全文を唱え終わったときには、周囲の霧は晴れ、樹々の重なる半町(五十メートル)ほどむこうに、何かがいる気配を、照潤は感じとったのであった。




