五之三
東海道の難所は続く。
つい先ほど大井川を渡ったばかりなのに、天に昇ってゆくような急峻な坂道が目の前に伸びている。
小夜の中山――。
箱根峠に勝るとも劣らぬ険しい勾配の峠道が、十兵衛たちの行く手を阻む。
長閑に広がる茶畑も、なんの気休めにもならぬ。
十兵衛たちは、お喋りなどする余裕もなく黙々と歩いた。
のぼりくだりが連続し、右に左に曲がる九十九折りの道が視界を遮る。
「おかしいな」ふと足をとめた十兵衛が、ぽつりと言った。「前に通ったときは、こんなに曲がりくねった道ではなかった気がするけど」
「どこかで道を間違えましたかね?」照潤が肩で息をしながら言う。
「ずっと一本道だったと思うわよ」穂波が首を傾げる。
「最初から違う道をのぼってきてしまったのでしょうか」箏太郎が道を振り返った。
「いや、峠道にさしかかったときには、一緒に大勢の旅人がいたから……。むう?」
「いかがしました、十兵衛殿?」
箏太郎の問いかけに、十兵衛は目つきを険しくした。
「旅人たちはどこへいった?」
「そういえば」と照潤が辺りを見回す。
気がつけば、霧がうっすらとでてきたようだ。
その霧が尋常のものではないと十兵衛は即座に気づいた。
「漂う霧から妖気が感じられる」
「引き返しましょうか?」不安げに箏太郎が言う。
「いや、もうすでに、相手の術中に陥っているようだ」
妖気を孕んだ霧は、見る見るうちに濃くなってきた。
そして、どこからか、赤子のような泣き声が、霧に反響するように聞こえてくる。
おぎゃあ、おぎゃあ……。
どこかに赤子を抱いた母親がいるのだろうか。
おぎゃあ、おぎゃあ……。
ただの赤子の泣き声とはいささか違う。どこか背筋を寒くするような、甲高く、それでいて湿り気を帯びた響きだ。
「なんだか、薄気味悪い声ですね」箏太郎自身の声は恐怖でうわずっている。
「ううむ」十兵衛は唸った。「中山峠には夜泣きの松と呼ばれる松の木があるけど」
「よ、夜でもないのに泣いていますよ」
「ともかく、声のするほうへいってみるしかなさそうね」
穂波が何気ない様子で歩きだす。度胸があるのか、無感情なのか。
「お待ちなさい。勝手に離れるんじゃありません」照潤が跡を追った。
たちまちのうちに霧に包まれてゆくふたりの姿を見ながら、十兵衛が、
「箏太郎、私たちも追うよ。ここで皆がばらばらになるのは、まずい」
穂波と照潤を追いかけ始めた十兵衛と箏太郎であったが、道を曲がると、そこにはすでに人影はなかった。
霧が濃いといっても、三間(五メートル半)先を歩いている人を見失うほどではない。まさか、ふたりが霧に溶けたわけでもないだろう。
「してやられた」十兵衛が振り返った。「箏太郎、私たちは離れないようにしよう」
と十兵衛は刀の下げ緒を鞘から解いて、箏太郎の右手首に結んだ。
「私も同じように縛って」
と十兵衛は左腕を箏太郎に差し出した。
言われるままに箏太郎は下げ緒で十兵衛の手首を縛る。
「これでふたりは離れ離れにはなるまいが……。さて、照潤と穂波を追うべきか、この迷路の出口を探すべきか」
見上げれば、樹々の梢が両側から重なり合って、道は隧道のようになっているし、前後を見てもどちらが今まできた道なのか、どちらがこれから進むべき道なのか、まるで見当がつかぬ。
「この幻術の元凶を探すべきではあろうが、それが一番難しいだろう」十兵衛は唇を噛んだ。「ともかく、道を進むしかないか」
「不気味ですね」箏太郎は頷いた。歯の根が合わず、手も膝も震えている。
「霧や道よりも、敵が襲ってこないことのほうが不気味といえば不気味だね」
と言いながらも、十兵衛の声にはどこか楽しげな響きがある。
「敵が襲ってきてくれれば、倒してこの迷路から抜けだせるだろ」
そんな十兵衛の空度胸とも思えぬ声の調子に、箏太郎の気持ちは落ち着きを取り戻してゆくのだった。




