五之一
箱根八里は馬でも越すが、 越すに越されぬ大井川――。
馬子唄を体現するごとく、柳生十兵衛たちも、先日来の雨によって増水した大井川を渡ることができず、もう二日も部屋でごろごろしている。
島田の宿は、雨で足どめされた旅人でいっぱいで、どうにか取れた四畳半のひと部屋に四人は逗留していた。
「今日あたりは雨がやむといいですね」
心底から願うように、萩野箏太郎が呟いた。
女三人と狭い部屋で寝泊まりせねばならないから、年頃の箏太郎にとっては、うれしいというより苦痛でしかなかった。むせるような女の体臭が心を惑乱させるし、気軽に屁もひれない。
「今朝がたよりは小降りになってきましたよ。明日には川を渡れるといいですね」
照潤が慰めた。彼女は暇潰しなのか、心を落ち着けるためなのか、ずっと写経をしている。
「雨があがっても、川の水が引かなければ、渡れないかもしれませんよ」
「では、あと数日はこのままということですねえ」照潤が顔を曇らせる。
「こうもずっとひと部屋に詰めっきりじゃ、気持ちがくさくさしてくるわ」穂波が顔を顰める。「ねえ、箏太郎さん、ちょっと付き合ってちょうだいな。気晴らしにいきましょうよ」
「いいですよ」と気軽に応じた箏太郎であった。
が、
「おまちなさい」と照潤がとめた。「こんな雨降りにどこへゆくと言うのです」
「宿の裏に納屋があったわ。あそこなら、あまり人が来ないでしょ」
「そんなひとけのない場所で何をしようと言うのです」
「男女がひとけのない場所ですることと言えば、ひとつしかないでしょう」
「な、なんとふしだらな」照潤は顔をけわしくして、声音を数段高くした。
「おさちさんと別れてからこっち、あの人のことを想って自分で慰めているのを見るのも、もういいかげんうんざりしてきたの。だから、私がすっきりさせてあげようって言ってるのよ。ねえ、箏太郎さん」
いつそんな行為を、穂波に見られていたのか、箏太郎は知らぬ。
箏太郎は羞恥で顔を真っ赤に染め、照潤は怒りで顔を真っ赤に染めた。
「なんという破廉恥な人です、あなたは。にょ、にょ、女人のくせに、殿方に、そんな卑猥なことを」
「まったく。尼さんて、修行のしすぎで男を知らないから、頭がカチカチになっちゃうのね」
「な、なんですって」
「本当は男のことが気になるくせに、修行だ戒律だって、我慢しちゃってさ。気持ちを押さえずに素直になりなさいよ」
「な、な、な、なんと、聞くに堪えぬ悪口雑言の数々」怒りで剃った頭から湯気を出しながら、照潤は十兵衛に振りむいた。「十兵衛殿からも何か言ってください」
着流し姿で、手枕で寝転がっていた十兵衛は、
「私も、男女のことは、まったくわからないからねえ」
などと、にやにやしている。
「十兵衛さんだって」と穂波が言う。「剣術修行ばかりしてるものだから、男に興味が湧かないのよ」
「そうなのですか?」と照潤も、十兵衛の性癖にちょっと興味をそそられているようだ。
「どうだろうねえ」十兵衛は他人事のような顔だ。
「宮本武蔵がそうだって言うじゃないの」なかばからかうように、なかばあきれたように、穂波は続けた。「剣術じゃなくったって、何かに打ちこみすぎると、色恋に興味がなくなっちゃうのよ。それとも、生来色恋に興味がないから、剣術に打ちこめるのかしら」
「そうかもしれないねえ」
「男女は互いに好かれたいから、見た目だって綺麗にしようとするし、性格だって明るくなるというものだわ。興味がないから、そう無愛想でいられるのよ」
穂波の持論を聞いて十兵衛は、くすくす笑っている。
剣術の修練を通じて人格を陶冶することを旨とする柳生新陰流も、こと一個人の性的趣向まではいかんともしがたいようだ。
「じゃ、箏太郎さん、いきましょう」
穂波の誘いに、箏太郎は必死の面持ちで首を左右に振った。
「け、けっこうです」
「ちぇ、つまんないの。あんたもいつか十兵衛さんや照潤さんみたいになっちゃうんだから」
そう言って、ひとりで部屋を出ていこうとする。
「おまちなさい、どこにゆくのですか?」照潤がそれをとがめた。
「箏太郎さんが駄目だっていうんなら、他の男を見繕ってくるのよ」
「馬鹿を言うんじゃありません。そこに座っていなさいっ!」
あまりの照潤の剣幕に気押されたのか、穂波はふくれっつらをして、部屋の隅にどっかと腰をおろしたのだった。




