四之六
箏太郎と美倉の距離は、一間(百八十センチ)と少し。
ちょうど一足一刀の間合いだ。
一歩踏み込めば相手を斬れ、一歩退けば攻撃を躱せる。
箏太郎にとっての頼みの綱は、美倉に支配されている牢人の本来の魂だ。彼が動きをとめてくれなければ、箏太郎は、数呼吸後には冥土へと旅立つことになるだろう。
大上段に構える美倉の刀の切っ先が、きらりと月光を反射した。
刹那――。
美倉が動いた。
大きく踏みこみ、白刃を振りおろす。
激烈な一撃が箏太郎の頭上から襲来する。
だが、同時に箏太郎も動いていた。
踏みこみつつ美倉の首元を狙って刀を振る。
しかし、美倉の一閃のほうが速い。
刃が、箏太郎の額を割る――。
と見えた瞬間、ぴたりと美倉の腕がとまった。
箏太郎は、刀を返し、峰で美倉の首筋を打つ。
喉の奥で低く呻いて、美倉は昏倒したのだった。
美倉が目覚めるまで、さほどの時はかからなかった。
だが、その隙に、美倉はほどかれた帯で腕をぐるぐるに縛られて、地面に転がされていた。
その視界いっぱいに、先ほどまで刃を交えていた箏太郎の顔があった。
「おのれ、放せ。今放せば、命だけは助けてやる」
美倉が恫喝したが、こんな状況だ。
周りにいる三人は誰も意に介さない。
「私たちは、あなたが気を失っている間に、色々と思案しました」
箏太郎が言った。冷静な声音である。
「あなたには、これに乗り移ってもらいます」
箏太郎が指さす先には、穂波の手に魚が一匹、ぴくぴくともがくように動いている。牢人が釣ってきたのであろう、魚籠のなかにいた鰺だ。
「ば、馬鹿な」美倉の声はうわずっている。「そんなものに乗り移れるものか」
「私たちは、あなたが今乗り移っているご牢人の命を助けたい。けれど、あなたが拒むなら、ご牢人には気の毒ですが、ここで死んでいただきます」
箏太郎が、刀の刃を美倉の首に当てた。
「ま、待て、ひとつ訊きたい」
「なんでしょう」
「俺の魂をその魚に移したあと、どうするつもりだ。まさか、三枚におろして食うわけではあるまいな」
「そんな気持ちの悪い」吐き捨てるように言ったのは穂波である。「私たちにも慈悲はあるわ。あなたを清水港に放してあげる。一生、大海原を泳ぎまわるといいわ」
「そ、そんな」
「やらなきゃ、このまま刀を引くぞ」
そう言った箏太郎が刀を動かしたわけではなかったが、美倉が震えたせいだろう、首筋に血がにじんだ。
「わ、わかった、わかったから」美倉は血だけでなく冷や汗もだらだらだ。
穂波が、美倉の口に魚をもっていくと、美倉はいかにも嫌々といった顔で魚をくわえた。
たちまち、牢人の体が干からびていく。
魚を口から離すタイミングが難しい。
早すぎれば美倉の魂が、牢人から魚へと移りきらないだろうし、遅ければ、牢人が木乃伊になって死んでしまう。
「ちょっと思ったんだけど」しぼんでいく牢人の体を見ながら穂波が言った。「乗り移る途中で魚を離したら、美倉の魂はどうなるんだろう。牢人と魚に分裂するのかな。ふたり、というか、ひとりと一匹に」
「さて」と箏太郎は頭を捻った。
「そんなことわかるはずがありません。余計なことは考えず、魚を離す機を見極めましょう」
照潤に言われ、箏太郎と穂波はじっと牢人を見つめた。
乗り移る対象の大きさは関係ないのだろう。牢人の体はどんどん干からびる。
「もういいんじゃありませんか?」照潤がおっかなびっくり言う。
「そうねえ、こんなもんでしょう」穂波の冷酷にも聞こえる言いようである。
「そうですね」箏太郎も頷く。
穂波が、ぱっと牢人の口から鰺を引き離した。
すぐに、牢人の息を確かめた箏太郎が、
「大丈夫、生きています」と牢人の頬を軽く叩いた。「大丈夫ですか、声が聞こえますか」
数呼吸のあとに、うむと牢人が唸った。
「ご牢人、お名前は?」
箏太郎が訊く。むろん美倉の魂が残っていないかの確認だ。
「島尾、八惣次」牢人はかすれた声で答えた。
「ご在所は?」
「今は……、江尻の宿で、用心棒を……、やって、おる……」
「どうやら、美倉の魂は魚に乗り移ったようですね」箏太郎が安堵する。
「念のため」と穂波が、「魚籠には何の魚が入っているの?」
「鰺が三尾……」
「当たってるわ」
「では、この美倉魚を海に放してやりましょうか」箏太郎が訊く。
「ふん、切り刻んでやればいいのに」にべもなく穂波が言う。
「魚も生き物です。無用な殺生はなりません」照潤がたしなめる。
と、三人が油断する瞬間を見すましていたのだろう、美倉魚が、穂波の手をぬるりと抜け出して、その細い首に食いついた。
「ざまをみろ」
と魚の美倉が言ったかどうかはわからぬ。
なにせ、美倉が首に食いついた瞬間には、穂波は短刀で魚を串刺しにしていたからだ。
魚ゆえ、断末魔の叫びなどはあげはせぬが、頭を短刀で貫かれたまま、痙攣するように、体をじたばたさせている。
「ふん、油断を見せれば、必ず食いついてくると思っていたわ」
穂波にはお見通しだったようだ。
「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ」
指を二本立てて穂波が真言を唱えると、魚から黒い靄のようなものが湧きあがり、悲鳴をあげつつ空に消えていった。
「妖魔相手とはいえ、なんと無慈悲な」照潤が片手拝みに魚を拝む。「羯諦、羯諦、波羅羯諦」
やせ細った牢人島尾を、江尻の宿まで送っていって、おさちの家に帰った三人を迎えたのは、おさちの夫の静かな非難であった。
「ご病人もおられるので、今すぐにとはいいません。お体が回復なさいましたら、どうぞ、お立ち退きください」
そうしておさちを見舞うことも許されず、翌朝、家の者が起きださぬうちに、十兵衛一行はおさちの家を去ったのであった。
箏太郎にとっては、胸が引き裂かれるような、苦しみに満ちたおさちとの別れであった。




