四之三
肝を潰したような顔をしていた牢人は、左手におさちを掻き抱き、右手に抜き放った刀を握り、走ってくる箏太郎たちを、狛犬のような形相に変じて睨んだ。
「おのれらっ」牢人は凄みをきかせた太い声で怒鳴った。「この女子にいかなる不埒な所業におよんだか?返答次第では容赦せぬぞッ!」
だが、近づいてきた者たちを、月明かりのもとで見れば、年若い男と女ふたり、それに遅れてきたのは生真面目そうな男だったから、ちょっと戸惑った様子である。今、左腕に抱いている裸の女は、辱めを受けたようなことを言っていたが、どうにも平仄が合わない気がするのだろう。
「そ、その人を放してくださいっ」箏太郎が訴えるように言った。「危険です、離れてください」
「何を言うておるか、小童。この女子は、お主らにひどい目にあわされて、これ、このとおり、震えておるではないか」
「その人をよく見てください、あなたが思っているような、か弱い女子では……、あっ!?」
箏太郎の言葉が叫声に変わった。
おさちの、いったんはもとに戻っていた口が、また化け物のように耳まで裂けている。
「離れてっ!」
箏太郎が叫んだが、もう遅い。
おさちが、牢人の首元に、かぶりついている。
牢人が悲鳴をあげた。
夜気をつんざくような、凄まじい悲鳴であった。
おさちは牢人の首筋に蛭のように食いついて離れようともしない。
するとどうしたことか。
おさちの全身が、まるで干からびていくように、見る見るうちにしぼんでゆくのだ。
みっちりと張っていた肌が、次第に、干し柿のように皺くちゃになってゆく。
なんというおぞましさか。なんという身の毛もよだつ光景か。
チョウチンアンコウのある種は、小さな雄が自分よりも何倍も大きな雌に食いつき、じょじょに一体化していく習性をもつという。箏太郎たちの目の前で繰り広げられている光景は、一体化というより、おさちの身体から何かが抜け出し、牢人の身体へ移っているようだ。
それははたして……?
木乃伊のようにしぼんでゆくおさちを、呆然と見ていた箏太郎であったが、やがてたまりかね、ほとんど無意識のうちに走り寄り、体当たりをした。
はずみで、牢人とおさちは離れ、ふたりは棒が転がるように路上に倒れた。
箏太郎はひざまずき、すぐにおさちの体を抱きあげた。気を失っているが、死んではいない。まだ息をしている。
「遅かったな、小僧」
牢人が立ちあがった。
しかし、その様相、そして口調は、ついさっきまでの牢人のそれとは少しく違う。
「俺の魂はもう、女からこの男へ完全に移っておるぞ」
そう、おさちが食いついて移動させていたもの――、それは、おさちを支配していた魂であった。
「俺は、六道冥衆の美倉董之進。妖魔塗仏を宿す者だ。魂を人から人へと移す。それが俺の手に入れた能力よ」
「つまり」と照潤が言った。「あなたは、おさちさんに乗り移り、操り、さらに箏太郎殿へと魂を移し、我らを内側から壊滅する算段だったのですね」
「ふむ、正確に言うなら、十兵衛に乗り移って操るつもりであったが、うまくいかなんだ。ゆえにその小僧に標的を変えたのだが、またしくじってしまった、というわけだな」
牢人者に魂を移した美倉は、刀をもつ腕を振った。刃が唸って虚空を斬り割く。
「その女の力では、おぬしらに太刀打ちできぬゆえ、こんな冴えない男に乗り移る破目になってしまったが、しかし、悪くない。この男、そこそこ兵法の心得があったと見える」
美倉は、牢人の無精髭に包まれた顔を歪めて、低く笑った。
「ちなみに、魂を移すには、大量の人間の精気が必要だ。本来なら、乗り移るさいにすべての精気を使いはたし、肉体は干からびて死んでしまうはずだが、その女は運がよかったな。いまだ命脈を保っておる」
箏太郎は、近づいてきたおさちの夫に、おさちを託した。
「家に連れて帰って、手当てをしてあげてください」
こくりと頷いて、夫はおさちを抱きあげた。
走ってゆくおさちの夫の背に向けて、美倉が言った。
「精のつくものを食わせてやるといい。根気よく養生を続ければ、もとの体に戻るやもしれぬぞ。戻らぬやもしれぬ。わからんがな」
その言葉の、無責任な調子を聞いて、箏太郎の頭の中で何かがぷつんと切れた。




