四之二
箏太郎は、力いっぱいおさちを抱きしめ、その柔らかさと温かさに陶酔していった。
体の位置を上下いれ替え、組み敷き、おさちの首筋に顔をうずめ、無我夢中で肌を吸いまくった。
初めて味わう女の肌の味は、甘美で、少ししょっぱくて、箏太郎を恍惚とさせてゆくのだった。
箏太郎の愛撫にこたえるように、おさちは箏太郎の頭を抱き、額に熱い口づけをする。
そのおさちのふっくらとした唇を、箏太郎は無性に吸いたくなって、顔をあげた。
と――。
箏太郎は悲鳴をあげた。
屋敷の内どころか、町内中に轟き渡るほどの絶叫であった。
絶叫しつつ、箏太郎は飛びあがり、夜具を跳ね飛ばし、部屋の隅へと飛び退った。
行灯の薄い明かりに照らされた、おさちの顔――。
目尻が吊りあがり、口が耳まで裂け、長く伸びた舌がちろちろと蠢いているではないか。
「化け物ッ!?」箏太郎は叫んだ。
布団のうえに起きあがったおさちの、裂けた口がにいっと笑った。
「化け物とは無体なことをおっしゃる。これこのとおり、わらわはおさちであるぞよ」
「お、おさちさんの言葉づかいではない」
箏太郎は、部屋の隅にあった刀を拾って、鞘から引き抜いた。
おさちらしき者は、ひとつ舌打ちをした。
「十兵衛が、熱にうなされているので標的としたのに、まるで隙がなかった。そこで、おぬしに標的を変えたというに、うかつであったわ」
「標的、とは、何のことだ?」
そこへ、けたたましく床を踏み鳴らす音がし、
「箏太郎殿っ!?」
叫びを聞きつけて、照潤が二階へと駆けあがってきたようだ。
おさちは、大きく舌打ちをして、部屋から飛びだした。
ちょうど部屋の前まできていた照潤と鉢合わせしたが、照潤はおさちの異様な容貌に面食らいつつも、手に持った得物の棒を突きだした。
ひらりとおさちは身を躱し、階下へと階段を駆けおりてゆく。
廊下で待ち受けていた穂波が足蹴りを放つが、それもするりと躱してしまう。
「な、なにごとですっ?」
寝間からおさちの夫が顔をだしたところへ、おさちがすがりついた。
「そ、箏太郎様が、箏太郎様が、私を手籠めに」
「な、なんとっ?」
夫はおさちを抱き寄せた。暗がりのせいで、おさちの変容がわからなかったのだろう。
と、おさちは、夫の首筋に食いつかんと、口を開いた。
すると、いつの間にそこにいたのか。
十兵衛が起きだしていて、おさちにむけて刀を振るった。熱のある体だから、むろん、たいした力もこもっていなければ、刀の速度もたいしたことはない。
おさちは、ぱっと夫から離れて、刀を躱して、
「お、おのれえ、忌々しいことよ、柳生十兵衛」
地を這うような声で言うと、雨戸を蹴破って、庭へと飛びだした。
十七夜の月が煌々と闇を照らし、おさちの白い肢体を浮かびあがらせた。
箏太郎、照潤、穂波の三人が、追ってゆく。
十兵衛は無念、先のひと振りが精いっぱいだったようで、その場にうつ伏せに倒れてしまっていた。
おさちの夫は唖然としていたが、唖然としつつも、ともかくおさちの跡を追いはじめた。
おさちは、猿のように垣根を飛び越え、裏路地を走り抜けてゆく。
異様な光景である。
一糸まとわぬ裸の女が乳房を揺らしながら、月夜の清水を駆けている。
夜中だからよかったものの、昼日中であったら、道行く人々からどう見られたか。狐が憑いた女と見られたか、はたまた、心を病んだ女と見られたか。
走る裸の女。
追う四人。
その行く手に、塀のかどから、ふと影が差した。
恰幅のよい、中年の牢人者であった。肩に釣り竿を担ぎ、左手に魚籠をさげているところを見ると、この男は、港で夜釣りをした帰りらしい。
「お助けぇっ!」おさちが牢人に駆け寄る。「お助けください、囚われて辱めを受けていたのを逃げだしてまいったのです。どうぞ、お助けを」
裸ですがりつくおさちを、牢人は大きな目を見開いて、魚籠を放り捨て、腕をとって引き寄せた。
憐れ、この親切心があだとなろうとは、牢人者は思いもよらぬ。




