三之四
この日は、おさちが着物を洗濯してくれるというので、一同は借りた着物で、部屋でごろごろしていた。
すると、手持ち無沙汰に縁側で庭を眺めていた穂波が、ふと言いだしたものである。
「洗濯物が乾くまで、ただのんべんだらりとしていても、まったくつまらないわ」
「だからといって、そぞろ出歩くというわけにもいかないでしょう」照潤が顔を険しくした。「敵はまだひとりしか倒せていないのです。残りの敵が、いつどこで襲ってくるかわかったものではないのですよ」
「じゃあ、いっそのこと、三保の松原を見にいきましょうよ」
「また、そんなことを。どういう理屈でそんな結論になるのです。だいたい、千本松原と同じ松原でしょう。たいした違いはないと思いますよ」
「くらべるにしても、一度見物してみないことにはね。羽衣の松というのも見ておきたいわ」
「十兵衛殿、あなたからも何か言ってください」
「いいんじゃないかな。敵もまさか、我らが物見にうつつをぬかすなどとは、思ってもいないだろうしね。わざわざ追ってきはしないでしょうよ」十兵衛は着流し姿で、腕枕をして寝転んでいる。組んだ白い脚が、裾を割ってちらりと見える。
「またそんな呑気なことを」照潤の眉間に皺がよった。
「じゃあ、決まりね」穂波は楽しそうに笑うのだった。
その話をおさちにすると、
「でしたら、知り合いの漁師に舟をだしてもらいましょう」などと言う。「三保の松原は、湾を挟んだむこう側の三保半島にあります。半島は、清水港の南端に突きでていまして、ここから歩くとすると、折戸湾を回ってぐるりと大回りしなくてはいけません。舟で湾を渡ったほうが、よっぽどはようございますよ」
そうして十兵衛一行と作左衛門夫婦は、丁稚小僧の案内でその漁師の家までゆき、二艘の小舟に揺られ、折戸湾をひとまたぎして三保半島に渡って、無数の松に覆われた半島を徒歩で東へと横断して、海岸に着いた。
松籟がさわさわと耳に心地よく、一行を歓迎してくれているようだ。
おさちは家で着物を洗ってくれているし、丁稚小僧は帰したので、十兵衛、照潤、箏太郎、穂波に、作左衛門とお絹の六人での気ままな松原見物である。
作左衛門夫婦は、衣服を洗濯してもらうのは断っていた。もうひと晩おさちの家に泊めてもらうのも気が引けるようで、旅支度でここにきていて、見物が終わればそのまま旅立つつもりらしい。
黒ずんだ色をした砂浜が彼方まで続き、左手に松原が映え、右手には穏やかな太平洋が水平線を描き、北へと目をむければ、蒼天を背景に、残雪も清爽なる富士山が迫るように座している。
「ここ数日、ずっと富士山を眺めてきましたが、見飽きないものですね」あれほどくるのを渋っていた照潤が、吐息まじりに言う。
「十兵衛殿はよく旅をされているようですが、もう何度も目にしているのではないですか?」
箏太郎が訊くと、十兵衛は、
「ここから眺めるのは初めてだけどね。何度見ても、富士山は心を穏やかにしてくれるよ」
やがて、一行は息を呑むようにして眺める壮大な景色の中に、黒い点があるのに気づいた。富士山の裾野から溶け出したようなその黒い異物は、じょじょに大きくなってくる。針の先ほどであったのが、小指の先ほどに、そして親指の先ほどに。
それは、着流し姿の侍であった。懐手をして、景色を楽しんでいるかのような、まったく何気ない様子で、砂浜をこちらに近づいてくる。
それが、六道冥衆のひとりであると気づくまでに、皆が時を要したのもしかたがない。八日ほど前に、信松院において短時間顔を合わせたきりだったし、十兵衛でさえも、その男の発する妖気を感じ取れるまでは、そうとはわからなかった。
皆が皆、油断をしていたということもあった。十兵衛が言ったように、まさか、こんな場所へまで敵が追ってこようとは思いもよらなかったのだ。
男がにたにたとした、人を見くだすような薄笑いを浮かべていると見て取れるまで、さほどの時はかからなかった。
男は、悠々と歩きながら、するりと刀を抜いた。
十兵衛と箏太郎も刀を抜き、照潤が杖がわりにしていた棒を構え、穂波が腰から短刀を閃かせた。
突如、爽やかな空気を一変させて、鋭い殺気が辺りを包んだ。
その緊迫感に押しだされるように、作左衛門夫婦は、松林のほうへと身を移した。
男は背が高く、細面で、口元に笑みを浮かべながらも、まるで肉食獣が獲物を睨むような鋭く尖った目でこちらを見つめてくる。
十兵衛は油断なく、兄と揃いの三池典太を構える。
十七間(三十メートル)ほどの距離まで近づいた刹那、男が、だっと砂浜を蹴って走りだした。




