三之三
翌朝になると、十兵衛は誰よりも早く起きだしていた。
「ああ、お腹がへったよ。朝ご飯はまだかなあ」
そんなことを言って、みんなをあきれさせたものである。
宿を発てば、今度は穂波が、
「せっかくだから、海岸沿いを歩きましょうよ。名にし負う千本松原というのを見ながら歩くのも、趣があっていいと思うのよ」
などと言いだした。
照潤はふくれっ面である。
「物見遊山の旅ではないのですよ。わきまえなさい」
十兵衛はにやにやしながらふたりの話を聞いていた。
「いいんじゃないかな。急ぐ旅でもないし」
「まあ、十兵衛殿まで」照潤はふくれっ面をさらにふくれあがらせたのだった。
作左衛門が笑った。
「照潤さんはお若いから、これから先もまだ機会があると思われるでしょうが、じっさい齢をとってみれば、一度逃した機会というのは、二度訪れることはまずないとわかります。特に、我らは、もう東海道をくだることは生涯ないでしょうから、美しい景色を見られるなら見ておきたい。ぜひ、ごいっしょしたいものです」
年長者の作左衛門にそう言われては、生真面目な照潤も渋々頷かざるをえない。
街道を逸れて松林を抜け、砂利まじりの海岸を歩くと、折り重なって続く松のむこうに雄大な富士山がどっしりと構えている。
青い空が果てしなく広がり、風が吹き渡って潮の香りをはこんでくる。
皆、胸いっぱいに爽やかな空気を吸いこみ、わざわざ遠回りしたかいがあったと、穏やかな心持ちになったのだった。
おさちが語るには、
「なんでも、かつて武田軍が攻め寄せたときに、この松原は切り払われてしまったそうです。ですが、その後、何年もかけて町の人々が松を植え、このように生い茂るほどまで蘇らせたそうです」
「戦とは嫌なものですね」
武田家旧臣の家柄である箏太郎は、その話に胸を痛めたようだった。
そうして吉原宿で一泊し、翌日の夕刻に清水に着いた。
おさちの家は、太物店を営んでいて、間口も広く、見たところなかなかに繁盛している様子だ。
暖簾をわけておさちが店に入ると、帳場に座っていた番頭らしき恰幅のいい中年男が、「旦那様っ」、と引きつった声音で叫び、奥からおさちの夫とおぼしき三十がらみの男が飛びだしてきた。
痩身だが背が高く、彫りの深い顔立ちで、なかなかの男前である。
ひそかにおさちに想いを寄せる箏太郎は、嫉妬の炎が心の底にぽっと燃え、胸が焼けるようだった。
おさちの夫は履物も履かずに土間に飛びおりて、
「おさち、よかった、よかった、よく無事で」
手を握って、涙を浮かべている。
「ええ、迷子になって、大山を、まったく反対のほうにおりてしまいまして、危ない目にあったところを、こちらのかたがたがお助けくださったのです」
「おお、それはそれは、たいへんお世話になりました。なんとお礼を言ったらよいものか」
「皆さまは、尾張までのご道中。今日は家に泊まってもらい、ぜひ、ゆっくりと羽を伸ばしていただきたいと思っています」
「ええ、ぜひ、ぜひ、そうしてください」
一同はそのまま陽当たりのいい座敷に通され、店の者が湯浴みの用意もしてくれた。庭に、人が脚を伸ばしてくつろげるほどの大きな盥を置いて湯で満たし、周りに衝立を並べ立て、ゆっくりと疲れを癒やしてもらおうという心づかいである。
箏太郎が体を洗っていると、おさちがきて背中を流してくれたが、今度は着物を着て袖を襷がけにしていて、残念なようなほっとしたような、複雑な心境であった。
皆が汗と垢と埃を落とすと、すぐに豪勢な料理がならべられた。港町だけあって、新鮮な魚が目にまぶしいほどだ。
「私たちまで、泊めていただくうえに、このようなご馳走をいただき、なんだか申し訳ありません」作左衛門夫婦は恐縮しきりである。
「部屋はあまるほどありますし、お魚はいくらでも手にはいります。どうぞ、ご遠慮なさらず、おくつろぎください」おさちは笑いながらもてなすのだった。
そうして、皆様二、三日ご逗留くださいまし、と言う。
「明日、皆様のお着物も洗濯いたしましょう。こう申してはなんですが、ここまでの道中でずいぶんお召し物に埃や垢がしみついているご様子」
もう、下にも置かぬ大歓待である。




