二之四
箱根の山は天下の険――。
後の世に唱歌として唄われるように、箱根八里の道程は、旅人を苦しめる東海道きっての難所中の難所である。
小田原をでて、箱根の関所に到着したときには、照潤、箏太郎、おさちの三人は疲労困憊で。十兵衛のみが、涼しい顔で芦ノ湖越しの富士山を眺めている。
青空に映える富士山は天辺にまだ雪を宿し、重厚で、静黙として湖の彼方から一行を見おろしている。
「八王子からでも富士山は見えますが」照潤がはあはあ息を切らしながら言った。「箱根から見る富士山は格別ですね」
おさちが笑って答える。
「清水から見る富士山も雄大でよいものですよ。まあ、私は見慣れてしまっておりますが」
「しかし、こういう美しい山容を目の当たりにすると、疲れが吹き飛ぶような気がします」
箏太郎が言うと、
「うん、癒やされますわね」と照潤が溜め息をついた。
「まだ箱根峠が残っていますよ、箏太郎様」おさちが微笑んだ。「峠を越えれば後はくだりですが、くだりはくだりで骨が折れるものです」
箏太郎が頬を赤らめておさちを見た。赤いのは何も急勾配をのぼってきたせいばかりではない、昨夕と今朝に見た彼女の胸を思いだしたものらしい。
「これからまだのぼり道があるということですか?」箏太郎はがっくりと肩を落とす。
「そうですよ」おさちが頷いた。
十兵衛は、そんな一行の会話を聞いているだけで、話には加わろうとはしなかった。雑談が苦手なのだろう、普段は余計なことはほとんど言わない、いたって無口な娘だった。
箱根の関所に着くと、十兵衛、照潤、おさちが、役人に連れていかれそうになった。手形は八王子で急遽手配したものであったが問題はないはずだ。だが、江戸方面からでる、いわゆる出女ということで、特別の改めがあるらしい。
しかし、十兵衛が懐から木札を取りだして役人に見せると、横柄だった役人の態度が一変し、小腰をかがめて、お通りくださいなどと慇懃に言う。
一行はいっせいに首を傾げたが、十兵衛は平然とした顔で関所を抜けてゆくのだった。
「あの木札はいったい何なのですか?」
照潤が訊いても、十兵衛は微笑を返すのみであった。
関所をでると、目の前が箱根宿である。
宿を探したが、どこも客が多く、相部屋でしか泊まれなかった。部屋も男女別々だった。疲れが取れないばかりか、箏太郎にいたっては、またおさちの裸が拝めるものと期待していただけに、落胆することこの上ない。
とかく、十五の少年の頭のなかは、女体への関心でいっぱいである。
木々の梢が天を覆い隠さんばかりの箱根峠の道は九十九折であったが、くだり坂が続くため幾分楽ではあった。けれども、おさちの言った通りで、足を踏ん張りつつ坂をおり続けるというのも、これはこれで脚や腰に応えるものがあった。
そうしてもうそろそろ麓にたどり着こうかという頃、それは山中という集落の手前であったが、ふっと、すれ違う人の姿が絶えた。
いや、これまでもひとけが途絶えることはたびたびあったが、これほど人の気配を感じず、鳥の囀りと木々の葉擦れの音しか聞こえなくなることはなかった。どこか不安感を呼び起こさせる、森のなかの静けさであった。
十兵衛が、曲がり道を曲がったところで不意に足をとめた。一行も立ちどまると、十間(十八メートル)ほどむこうの道の真ん中に人影があった。
侍である。
十兵衛と照潤と箏太郎は、見覚えがある。数日前に八王子の信松院で、襲ってきた侍のひとりだ。
「六道冥衆、と言ったな」
十兵衛が呟いた。
「どうやら、敵はひとりのようですね」照潤が息を呑んで言った。
「こちらは、おさちさんを除いて三人。充分有利に闘えますよ」と箏太郎が刀の柄を握った。
「いや、まって」十兵衛がふたりを制止した。「敵には妖魔が取りついている。下手に手をだすと、どんな竹箆返しがまっているかわからない。慎重にゆこう」
木漏れ日がまだらに影を落とすなか、男は腰を落として刀の柄に手をかけた。




