第6話 いつもの、はず
廊下の途中で止めた足を、もう一度動かした。
昇降口で上履きを脱ぎ、外に出る。
風が変わった。
校内の管理された冷たさが薄まって、代わりに夕方の生ぬるさが肌に当たった。
ゲートの判定機が私の手首に軽く触れて、すぐ離れた。
『校門:通過』
井戸の温度の抜けた感じが、まだ肌の表面に薄く貼りついている。
夕方の生ぬるさと層になって、混ざらなかった。
◇
「あかりー」
後ろからこはるが走って追いついてきた。
肩のリュックがぽんぽん跳ねている。
「待っ……ちょっと、待ってよ」
私の半歩横に並んだ。
息を整えながら、こはるが私を見た。
「真広くん、思ったより軽傷だって。検査も全部クリア。明日には病室出てるってさ」
「……うん」
「うん、じゃない、よかったね、でしょ」
「よかったね、です」
「素直になったね?」
「ならない」
こはるがふ、と笑った。
処置室では出なかった笑いだった。
「あ、そうだ。あかりさ、さっき処置室で『異常なし』が出たとき、目、ふっと、どっか行ってたよ」
「……どっか行ってた?」
「うん。ちょっとだけ。すぐいつもの顔に戻ったから、まあ大丈夫なんだろうな、とは思ったけど」
いつもの顔。
その単語に引っ掛かろうとして、引っ掛かれなかった。
「ねえ」
こはるが、横を向いたまま言った。
「あかりさあ、大丈夫って言うとき、毎回おんなじ顔だよね」
足が半拍遅れた。
「……そう?」
「うん。きれいに、おんなじ」
こはるはこっちを見なかった。
道のほうを見ていた。
たぶん、見られたら私が困ると分かっている。
「ま、生きて帰れたんだし、めでたしめでたしだね」
こはるはこっちを見て、うれしそうに笑ってた。
「真広くんに、明日ちゃんとお礼言いに行こ」
「うん」
角を曲がる。
こはるは反対側だった。
「じゃね」
「うん。また」
手を振って、こはるは行ってしまった。
◇
一人になった。
住宅街に入る。
夕方のぬるい光。
電信柱の長い影。
影の輪郭が、いつもよりはっきりと引かれていた。
光と影の境目——その線が、いつもならぼんやり滲んでいる場所だ。
道の向こうから自転車が来た。
お母さんと子供の二人乗り。
すれ違いざま、子供の輪郭の外側だけが揺れた気がした。
気のせい、と思おうとした。
でも目は、もう別のものを追っていた。
角の電柱。看板の文字。葉先の縁。
全部、いつもより少しだけ見える。
芸術が表現する「鮮明」って、もしかしたらこういうことか、と自分でもよくわからないことを考える。
たぶん疲れだ。
感傷にでも浸っているのか私。
右手首が温かかった。
ORIGOの腕輪は、いつも冷たい。
あの廊下で、初めて温かいと気づいた。
外に出れば戻るはずだ、と思っていた。
外気に晒されても、まだ温かい。
冷たいはずの金属が、夕方の生ぬるさよりほんの少しだけ温かい。
「……ねえ、ORIGO」
歩きながら、小声で訊いた。
誰もいない道だった。
「これ、なんで温かいの」
返事は来なかった。
判定だけが、頭の奥に落ちた。
『差異:許容範囲内』
……許容範囲内。
知ってる。聞いたことある。
でも今、それを聞きたいわけじゃなかった。
温かい理由を訊いた。
返ってきたのは、温かくても問題ないですよ、という判定だった。
私が訊いた問いの半分だけが答えられて、半分は外された。
……ORIGO。
もう一度、心の中で呼んだ。
返事はなかった。
◇
最後の角を曲がった。
家の灯りが見えた。
玄関の前で足を止めた。
たぶん五秒くらい。
息をゆっくり吐いた。
朝、出るとき、玄関でこんなに息を整えたっけ。
……ううん、整えなかった、と思う。
手をドアの取っ手に伸ばした。
◇
家の温度が頬に当たった。
外の生ぬるさが、家の温度に押し返されていく。
「ただいま」
声が少しだけ掠れた。
台所のほうから美香が小走りする音が聞こえる。
「おかえり。ちゃんと帰ってきたね」
エプロンをして、片手にお玉。
私の顔を一目見て、眉がほんの少しだけ動いた。
「……ちょっと顔、白くない? 訓練、大丈夫だった? どこも怪我してない?」
膝から力がふっと抜けた。
今日、何度目だろう。
でも、今度のはいちばん優しい抜け方だった。
……反則だ。
お母さんの声は、反則だ。
「あかり?」
「ちょっと、足、しびれただけ」
しびれてない、と自分にツッコんでおいた。
「怪我はしてない。私じゃなくて、真広がちょっと」
「真広くん?」
「うん。でも大事はなかった」
「そっか。大事がないなら、よかった」
美香が笑った。
つられて、私も少しだけ笑った。
「うん。本当に」
私の声は、ちゃんといつもの声に戻っていた。
……戻った、と思う。
◇
食卓についた。
いつもの、家の匂いだった。
いつものはずなのに——その『いつも』が、ずいぶん遠かった。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいま!」
灯真の声だった。
帰ってくるには、いつもより少し早い気がした。
「姉さん無事?」
いつもなら、まず部屋に行くのに食卓に駆け込んでくる。
「無事。だから今、これから迎える、今日のいちばん楽しい時間を邪魔しないで」
「……姉さん、いや、なんでもない。俺の分ある?」
灯真は私から目を逸らして、台所のほうを見た。
遅れてきたみたいに、リュックの肩紐を直す。
三人で手を合わせた。
「いただきます」
スプーンを握る。
いつものカレーだった。
いつもの辛さ。いつもの味。
……いつもの、はず。
でも舌の上で、味がいつもより少しだけ輪郭を持っていた。
甘さの場所と辛さの場所が、はっきり分かれて並んでいる。
……鮮明って、味にも来るのか。
心の中で私は、ちょっと文句を言った。
いまは味、楽しみたかったのに。
「あかり、無理してない?」
美香が向かいから訊いた。
「……してない」
「目が、ちょっと疲れてる気がするけど」
スプーンが半秒止まった。
「……気のせいだよ」
「気のせいなら、いいんだけど」
美香は私の皿に、もう一杯カレーをよそった。
頼んでない。
でも、断らなかった。
「無理しなくていいからね、あかり」
お玉を置きながら、美香が言った。
顔は、いつもの笑顔だった。
「うん」
私の口も、いつもの形になっていた。
……たぶん。
灯真が、自分のカレーをすごい速度で食べていた。
顔は伏せたまま、ちらっと私を見た気がした。
たぶん、見えた、と思う。
私の口の形が、いつもより半秒遅れたことに。
スプーンをもう一口運んだ。
家の温かさが、ちゃんと肌に届いていた。
ただ、右手首の腕輪だけが、その温かさに馴染んでいた。
馴染んで——冷たいには、戻らなかった。




