第7話 「計測誤差」
朝、腕輪は、まだ温かかった。
冷たいに戻らないこと。
それだけのことに、私は、台所に降りる前に一度、息を整えた。
『差異:許容範囲内』
……ORIGO、最近、それしか言ってないよ。
ORIGOは、返事をしなかった。
ふつうなら流して、終わるところ。
……流して、いいんだっけ。
◇
味噌汁の匂いがした。
卵焼きの油の音。
「おはよ、姉さん」
灯真が、食卓に座っていた。
昨日の夕方、玄関に駆け込んできた弟は、今朝はいつもどおりに見えた。
ただ、椅子の角度が、ちょっとだけ、こっちを向いていた。
うちの弟は、心配を、心配って言わない。
代わりに、椅子の角度を調節する。
……知ってる。
「おはよ。お母さん、私の分」
「あるよ」
母の声。
「あかり、よく眠れた?」
「眠れた」
「ぼんやり、してない?」
「してない」
「……してない、って言うときの顔、毎回、同じ」
灯真が、味噌汁をすすって、ぼそっと言った。
「言わなくていい」
灯真は、何も言わずに、卵焼きを口に入れた。
うちの弟、たまに、こういうこと、言う。
「いただきます」
味噌と出汁の味が、いつもよりはっきりしていた。
◇
通学路の風が、家の温度を、背中から押し出した。
「あかりー」
半歩遅れで、こはるが追いついた。
「あかり、覚えてる?」
「初任務、終わったらさ、あの白いミルクティー、買おうよ、ってやつ」
もちろん覚えてる。
「真広が退院するまで、終わってないけど」
「終わってない、けど、みんな生きて帰ってる」
十分でしょ、と、こはるは付け加えなかった。
たぶん、こはるの中では、もう十分だった。
「うん、買おう」
「ご褒美感、欲しいよね?」
「めっちゃ、欲しい」
休み時間、こはるが購買の自販機から二本買った。
片方が、私の手に来た。
冷たい、ふつうの冷たさ。
井戸の、温度の抜けた冷たさじゃない。
ちゃんと、缶の冷たさだ。
ミルクの甘さと、紅茶の渋み。
舌の上で、ちゃんと、分かれて、来た。
「あかり……思ったよりふつう、だね。もっと美味しいのかと思った」
「私は、結構、好き」
「あかりがそう言うなら、よかった。最高のご褒美!」
こはるが、目を細めて笑った。
……たぶん、私も、笑った。
◇
教室に戻ると、律は、いつもの席にいた。
いつもの姿勢、窓の外。
ドアが、開いた。
「揃ったな」
黒瀬先生が、入ってきた。
穏やかな声だった。
穏やかなのに、いつもより、わずかに低い。
あの井戸で、聞いた声。
「真広は、今日、退院する。明日には、ここに来る」
よかった、と、こはるが小声で言った。
律は頷いた。
私も、たぶん、頷いた。
「昨日の任務、お疲れさん。全員、生還。よくやった」
「はい」と、こはるが返した。
律も頷いた。
私は、なんて言ったらいいか分からなくて、「……ありがとうございます」と、ずれた返事をした。
「報告書、上に上がった」
黒瀬先生は、教卓に資料を置いた。
「D-訓練井戸での『照合不能』ログ。複数回、出た」
計測誤差。
単語が、頭の奥で止まった。
……まだ、聞いてないのに。
「計測誤差として処理された」
計測誤差。
止まる場所がなかった、というほうが正しい。
黒瀬先生が、半拍だけ黙った。
その短さが、逆に重かった。
「おれは、再調査を上申した」
上申。
「ただ、別の新井戸が発生した。対応に人手が取られている。D-井戸の調査は、遅れる」
「はい」と、こはるが返した。
「人手が足りない」
「お前たちには悪いが、近々、訓練ではない本格的な駆除への参加が求められる」
本格的な駆除。
……ちょっと、待って。
訓練ですら、消えそうになったやつ、だよね。そりゃ人手足らないでしょ。
「肝に銘じておけ」
……肝に銘じる場所、もう、骨まで届いてますけど。
負けず嫌いが、口の中で、ぐっと、立ち上がった。
立ち上がって、それから、座った。
「来週、井戸による訓練の結果について、能力強化測定と、精神影響の測定を、実施する」
能力強化。
精神影響。
……強化、ね。
……精神、ね。
もう、いろいろ、来てるんですけど、ね。
右手首の、腕輪。
まだ、温かい。
……これ、測ってくれるの?
「以上だ」
黒瀬先生は、私の顔を、ちらっと見た。
見て、それから、静かに教室を出て行った。
いつもの穏やかな顔だった。
穏やかなのに、目だけが、ちょっと、ふだんより奥にあった。
「能力強化、ねえ」
こはるが、小声で言った。
「来週、ねえ」
律が、続けて、ぼそっと言った。
「……二人とも、語尾、似てる」
二人が、こっちを見て、同時に笑った。
……たぶん、私も、笑った。
◇
帰り道。
住宅街の生ぬるさが、夕方の中で、いつもより長く引いていた。
歩きながら、右手首の腕輪を見た。
冷たいに、戻っていなかった。
ORIGOは、知っている。
ずっと、私の温度を、知っている。
でも、職員会議の資料には、たぶん、書かれていない。
ORIGOが見たもの。
職員会議が、見なかったことにしたもの。
――その間に、私がいる。
なら、私もいつか、計測誤差として処理されるんだろうか。
能力強化、精神影響、計測。
……外から、何を、測るんだろう。
……腕輪の、これは、たぶん、測れないものなのに。
『差異:許容範囲内』
……ORIGO。
……今、どの差異を、許容してくれてるの。
返事は、なかった。
角を曲がった。
家の灯りが見えた。
玄関の前で、五秒、立った。
昨日も、ここで立った。
今日は、立つ理由が、ひとつ増えていた。
計測誤差。
思ってしまった瞬間、玄関の戸が、内側から開いた。
「あかり、おかえり」
母の声だった。
いつもの、声だった。
「……ただいま」
私の声は、いつもの声に、ちょっとだけ似ていた。




