第5話 声だけが、まだ届く
回転は、こちらを向いたまま、止まらなかった。
鏡の破片が、風を巻いて、唸っている。
一枚一枚が、刃だった。
律の白銀の線が、走った。
線が、回転に触れて——裂けた。
律が裂いたんじゃない。
律の線のほうが、裂けた。
黒瀬先生の杭が、飛ぶ。
弾かれて、乾いた音を立てて、床に落ちた。
「……勝てる相手じゃないな」
先生の声が、一段、低かった。
わかってる。わかってるけど、と思った瞬間
再構成体が、回転ごと、間合いを詰めてきた。
◇
「陣形! 散らずに、固まれ!」
黒瀬先生が、真広を、岩盤の窪みに下ろした。
戦うために、真広を、置いた。
真広が、壁にもたれる。
いつもいちばん前にいたあの背中が、いま、いちばん後ろにいた。
律が、その前に立った。
白銀の線を、何本も、低く張る。
斬るための線じゃない。
受けるための線。
律が、真広の代わりを、引き受けていた。
「壁、いくよ!」
こはるの足元から岩盤がせり上がって、私たちの右半分を、覆った。
飛んできた破片が、岩の壁に、何枚も、刺さって止まる。
黒瀬先生は、前に出た。
杭を、続けざまに。
一枚、二枚、破片を撃ち落とす。
撃ち落としながら——先生の腕に、赤い線が、走り続ける。
破片が、幾重にも掠めていく。
だが、先生は、止まらない。
私は、中央にいた。
真広の、すぐ隣。
守られる側の、いちばん内側。
見なきゃ、いけない。
あれを、見なきゃ、いけない。
ひと呼吸ぶん、私は、目を、伏せていた。
この目は、いちばん近くの真広を、見落とした目だ。
でも。
見えない所が、あるなら。
——せめて、声だけは、切らさない。
目を、上げた。
◇
「あかり」
隣で、真広が言った。
壁にもたれたまま、軽い声で。
「これくらい、寝てれば治る。気にすんな」
真広は、自分の足のことを、言っていた。
自分の足のこと、だけを。
私が見落としたことには、触れもしなかった。
たぶん、気づいて、すらいない。
責められたら、まだ、よかった。
責められなかったことが、喉の奥に、刺さった。
消耗戦だった。
黒瀬先生が撃ち落とす。
こはるが壁を上げ直す。
律が線を張り替える。
破片は、減らない。
削られているのは、こっちだった。
こはるの壁に、ひびが入る。
律の線が、また一本、裂ける。
先生の息が、少しずつ、上がっていく。
『反応——』
ORIGOが、何か、言いかけた。
聞いている、余裕が、なかった。
◇
回転を、見た。
破片の一枚一枚に、私の顔が、映っていた。
回るたびに、私が、何人も、すれ違っていく。
ぐるぐると、自分が、流れていく。
その中に。
一枚だけ。
私が、映らない破片が、あった。
ほかは全部、私を映すのに。
その一枚だけ、黒いまま、何も、返さない。
——鏡じゃ、ない。
なぜ、と考える前に、目が、それを、追っていた。
回転の、法則が、見え……る。
鏡じゃない一枚が、上に来るのは、二回に一回。
来る半拍前に、縁が、わずかに、ぶれる。
「先生!」
声が、出た。
「回転の、上! 次の、次! 鏡じゃない一枚が来ます! 縁がぶれたら、その半拍後!」
黒瀬先生は、訊き返さなかった。
杭を、握り直しただけだった。
一枚目——違う。
二枚目——違う。
縁が、ぶれた。
「今っ!」
杭が、飛んだ。
鏡じゃない一枚に、刺さった。
◇
回転が、崩れた。
風が、ほどけた。
破片が、ばらばらと、床に落ちていく。
その中で、鏡じゃない一枚だけが——
落ちて、なお、鳴っていた。
カタカタ。
カタカタ、と。
壊れたはずの何かが、まだ、震えている音。
「撤退! いまのうちだ!」
黒瀬先生が、真広を、抱え上げた。
片腕で。
もう片方は、まだ、杭を握ったまま。
「後ろ、持ちます」
律が、最後尾に回った。
線を、置きながら。
走った。
動く井戸の、変わり続ける通路を。
途中、視線が、つるりと、滑った。
触れちゃ、いけない。
見ない。寄らない。
脇を、抜ける。
カタカタ、という音が、背中で、だんだん、遠くなった。
遠くなっても、消えは、しなかった。
井戸の、出口の縁が、見えてきた。
早くあそこを抜けたい。
一心で走っていた。
目の奥が、白く焼けた。
井戸の黒が、接続室の白に、裏返っていく。
◇
足の裏の感覚が変わった。
接続室だ。
接続室の空気には、温度があった。
冷たい、けれど、ちゃんと冷たい。
比べられる冷たさだった。
井戸の、あの、温度の抜けた感じが、肌から、ゆっくり、剥がれていく。
膝が、抜けた。
今度のは、笑ったんじゃない。
ただ、力が、抜けただけだった。
「いやー……死ぬかと、思った」
こはるが、その場に、座り込んだ。
一回、息を吸って。
「……本当に、死ぬかと、思った」
二回目の「死ぬかと思った」は、一回目より、ずっと、重かった。
誰も、軽口では、返さなかった。
黒瀬先生が、真広を、下ろした。
それから、私たちを、ひとり、ひとり、見た。
「……全員、いるな」
短く、息を吐く。
「よし」
担架が、来た。
真広が、運ばれていく。
運ばれながら、片手を、ひらっと振った。
「治る、治る」と、口の形が、言っていた。
私たちは真広を見送ると、重い足をあげて、接続室から出て、処置室へ向かう。
白い台と、白い光。
学校のゲートでくぐる検査より、ずっと丁寧だった。
係の人が、手首に、機械を当てていく。
こはる。律。私。
ひとりずつ、判定が、落ちた。
『浸食因子付着:なし』
『バイタル:基準内』
『総合判定:異常なし』
……異常なし。
後日、詳しく見るらしい。
でも、いま出た判定は、異常なし。
さっき運ばれていった担架の重さに、何ひとつ、届いていない。
前に、黒瀬先生が認可AIを読み上げた時の「異常なし」は、信じてない声だった。
今度は、誰も、読み上げてすらいない。
機械が、ただ、そう出した。
疑問符をつける人が、ひとりも、いなかった。
——なんかおかしくないか。
「今日のことは、おれが報告書に書く」
黒瀬先生が、自分の腕の処置を受けながら、言った。
「お前らは、もう、上がっていい」
報告書、という言葉に、私は、何も、返せなかった。
あの井戸の何を、どう書くんだろう。
たぶん、書ける言葉は、そんなに、多くない。
◇
軽い挨拶をして、処置室を出た。
力の抜けた頭の隅で、ふと、思った。
——ORIGO。さっき、井戸の中で、何か、言いかけてた。
ひとつ前の井戸でも、何か、落としていた。
なんだったろう。
思い出そうとして、思い出せなかった。
手を伸ばした先に、何も、なかった。
機械は、異常なし、と言う。
ORIGOだけが、何か、言いかけて——その何かを、私は、もう、持っていない。
右手首の腕輪に、触れる。
ORIGOの腕輪は、いつも、冷たい。
井戸より、冷たいときも、ある。
なのに。
今は——微かに、温かかった。
冷たいはずのものが、温かい。
ただ、それだけのことに、私は、廊下の途中で、足を止めた。
ORIGOは、何も言わなかった。




