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第4話 見ていたのに、見落とした

 ——何の音。虫が、群れている音。


 走りながら、肩越しに、後ろを見た。


 通路から、音が抜けている。

 私の呼吸も、足音も、抜けたままだ。


 その無音を引っ掻いて追ってくるのが、這う音、それだけ。


 ……人の、手だった。


 指を五本、脚みたいに折りたたんで、岩肌を掻いて、追ってくる。

 ひとつじゃない。


 壁を、天井の縁を、床の継ぎ目を、埋めていく。


 さっき音だけ聞いたときは、まだ、ましなものを思い描いていた。

 違った。


 手だ。

 手の形をした何かが、群れて、追ってくる。


「先生」

 真広の声が、薄く届いた。


 無音の通路で、その一言だけが、妙に、遠かった。


「あれ、振り切れますか」


 黒瀬先生は、すぐには答えなかった。

 通路の先を見て、それから、私たちを見た。


「……無理だ」


 その二文字が、空気の置き場所を変えた。


 そして——先生の声に引きずられるみたいにして、音が、戻ってきた。


 私の呼吸。みんなの足音。

 戻ってきた音の隙間に、手の這う音が、当たり前みたいに、混ざっていた。


「あの速さと数だ。走れば、背中を取られる。——ここで、迎える」


    ◇


「陣形。真広、前。律、右。おれが左を迎え撃つ」

「あかりと三枝は、中央だ」


 中央。

 三人に守られる側。

 いちばん、安全な場所。


 ——わかってる。わかってる、けど。


「あかり」

 こはるが、私の袖を引いた。


 爪の小さな赤が、暗がりで、やけにはっきり見えた。


「足元はあたしが持つ。あかりは、上、見てて」


 こはるの足元から、岩盤が低くせり上がって、私たちの立つ場所を、ほんの少しだけ、高くした。


 手が、来る。


 壁を、天井を、床を埋めた手は、すぐには跳びかかってこない。

 指先だけをこちらへ向けて、岩肌に貼りついたまま、止まった。


 ——息を詰めて、何かを待っている。


 私は、自分の心臓の音が、やけに大きく耳に届くのを、聞いていた。


 ——前も、右も、左も、後ろもない。

 囲まれるって、たぶん、こういうことだ。


 どこも「前」で、どこにも背中を預けられない。


 ——見るんだ。私が。


『——』


「……向こうも、見てるね」

 こはるが、小声で言った。

「品定めでもしてるのか。すっごい、嫌」


 誰も、笑わなかった。

 こはるも、笑ってなかった。


    ◇


 先生が、動いた。


 腰の杭を左手が抜いて、投げるより先に、もう当たっていた。

 左の壁の手が一体、砕けて、黒い粉になった。


 それが、合図だった。


 止まっていた手が、一斉に、跳ねる。


 ——来る。真広の前。


「来るぞ!」

 先生の合図のほうが、遅い。


 律の白銀の線が、空中に走る。

 真広の前、私たちと手のあいだに。


 手が、線に触れ——なかった。


 一体が別の一体を横へ押しのけ、その隙に、線の上を越えた。


「は……?」

 こはるの声が、裏返った。


 続く先生の杭も、律の追撃も、手は避ける。

 避ける、というより——線の在る場所を知っていて、跳んでいる。


 一体が、真広へ向かった。


「真広さん!」


 ——声が、出た。やっと、私の声が。


 真広の手の甲から、膜が開いた。

 淡い、透き通った壁。


 手が、その膜にぶつかって——ぶつからなかった。


 指が、食い込んでいる。


 真広が、息を詰めた。


「っ——」


 めり込んだ指は、そこで、動きを止めた。

 真広の膜に、縫い止められた。


 でも、真広の腕が、震えていた。

 膜と指の押し合いの負荷が、ぜんぶ、真広に来ている。


「律、その手! 動き、止まってる!」

「もらった」


 律の線が、止まった手の手首に、薄く入った。

 裂けて、霧散する。


 真広の膜から力が抜けて、たわんだ膜が、戻る。


「……っ、ふー」

 真広が短く息を吐いた。

「一体。あと、何体いんだ、これ」


 手が、また跳ねた。二体、真広へ。


 一体は先生が杭で落とす。

 もう一体は、真広が膜で受けて、また食い込まれる。


「真広さん、足場っ!」


 こはるの声と一緒に、真広の足元の岩盤が、半歩ぶん、せり上がった。

 真広の身体が、少しだけ、高くなる。


 獲物の位置が変わって、ほかの手の追撃が、一瞬遅れた。


 その隙に、律の線。

 また、裂く。


 真広の膝が、わずかに折れた。

 折れた膝を、すぐ戻した。


    ◇


 見ていた。

 真ん中で、見ているしかなかった。


 だから——見えた。


 手の動きには、法則がある。

 一見、無秩序。


 でも私の目には、人形劇の糸が見える。


 糸の可動域の限界。引かれるタイミング。

 それが「合図」に読めた。


 私たちが攻撃するための、「合図」に。


 ——読める、と感じた瞬間、強烈な吐き気が、口まで上ってきた。


 ——だめだ。口を、動かせ。


「……こはる、足場! 律の線の手前、一段上げて!」

「どこまで!」

「手が跳び越えられない高さ! ……律、その上に線。二本、並べて!」

「了解!」


 こはるの岩盤が、せり上がる。

 律の線が、その上に、二本。


 見えない糸に引かれた手が、跳んだ。

 岩盤を越えて、二本の線を越えて——越えた先が、一か所に、決まった。


「先生、右斜め上。今っ!」


 黒瀬先生の杭が、私の声より、ほんの少しだけ遅れて、飛んだ。

 遅れて、当たった。


 手が、砕けた。


「——もう一体、同じ所! 半拍、後!」

「了解した」


 杭。砕ける。


 こはるの足場。律の線。私の声。先生の杭。

 四つが、私の声を芯にして、噛み合っていた。


 声が、繋がっていた。


 さっきまでの吐き気が、消えていく。


 通る。

 私の声が、通る。


 ——支援科は後ろで突っ立ってるだけ、って言ったやつ。今の、見てた?


 視界が、手の群れに、絞られていく。


 手の握り。跳ぶ向き。次。その次。


 真広は、視界の端にいた。

 端に、いるだけだった。


 視界の隅を、何かが、ちらりと光って、横切った。

 風に乗った、鏡の、ひとかけら。


 ——気のせい。あとで。


『反応——』


 ORIGOが、何か、落とした。


 ——後で。後で、聞く。今は、手だ。


 律の線が、低く走る。

 跳んだ手が、脚を取られる。

 先生の杭が、来る。


 最後の一体が、黒い粉になって、通路に、舞って、落ちた。


    ◇


 静かに、なった。


 這う音が、消えた。

 今度の「消えた」は、さっきの無音とは、違った。


 ただ、終わった音だった。


「……はー」

 こはるが、その場にしゃがみ込みかけて、踏み止まった。

「あたし今、絶対、人に見せらんない顔してた」


「してた」


「即答しないでよ!」


 こはるが、ようやく、笑った。

 ほんの少しだけ。


 でも、笑った。


 朝、購買の前で見た笑い方に、ちょっとだけ、似ていた。


 倒した。

 手の群れを、全員で、倒しきった。


 膝が、ようやく、自分の膝に戻ってきた。


 真広が、膝を、ついた。

 今度は、戻さなかった。


 片膝を岩盤につけたまま、肩で、息をしていた。


 黒瀬先生が、真広の横についた。

 真広の腕を、自分の肩へ回させる。


「立てるか」

「……立たせて、ください」


 先生が、真広を引き上げる。


 ふいに、先生の杭が、空中で何かを弾いた。

 乾いた、高い音。


 ——黒い破片。


 その音で、視界が、手の残像から、剥がれた。

 目が、真広に、落ちる。


 真広の右、ふくらはぎ。

 制服の布が、横一文字に裂けていた。


 その下から、赤いものが伝って、岩盤に、線を引いていた。


 いつから。


 いつから、流れてた。


 ずっと、見ていた。

 手の握りを、跳ぶ向きを、次の一体を、その次を。


 真広は、視界の端にいた。

 端に、いたのに。


 いちばん近くで、いちばん長く、私を守っていた背中の——その足の血だけ、私の目は、映していなかった。


 ORIGOが、さっき落とした『反応——』。

 後で聞く、と、私は思った。


 その「後で」が何だったのか、もう、思い出せない。


「っ……」

 真広の顔が、苦痛に歪んだ。


「真広!」


 黒瀬先生が、真広を抱え直して、半歩、前に出た。


 通路の奥から、乾いた風の音が、する。

 とても、鋭い音。


 ——さっきまで、聞こえていなかった。


 奥の暗がりで、何かが、きらきらと反射している。


 違う。


 鏡の破片を無数に纏って、風を巻きつけて、高速で回転する、何かだ。


 足場の下に生えた、私の背丈の二倍の、あの一枚の鏡。


 割れて。

 舞って。

 風を着て。

 戻ってきた。


『反応——』

『再構成。同一個体』


 回転が、ぐるりと、こちらを向いた。


 見なきゃ、いけない。

 あれを、見なきゃ、いけない。


 ——真広の血を、見落としたこの目で。

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