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第3話 見えない退路

「行くな、天瀬」


 黒瀬先生の声が、落ちた。


 ──行くな、なんて言うほどの距離じゃない。私の足、まだ動いてないし。


 でも、その「行くな」が、いつもの先生の声より、一段、低い。

 一段だけ。一段だけだから、よけいに、こわい。


『反応:──』

『──』

『照合不能』


 ORIGOが追いつかない。

 何回目だ、照合不能。


「先生」


 真広が、私の前に半歩出た。背中が、私の視界の半分を埋める。


 ──ありがたい。ありがたい、けど。こういう時に守られて、ありがたいって思う自分が、いちばん、嫌だ。


 黒瀬先生は、左の袖を捲った。細い帯のようなAI端末が、薄く点滅している。


『判定:異常なし』


 ──え。


「いま、なんて、言いました」


 口より先に、思考が滑った。


「異常なし、だ」


 黒瀬先生は、抑揚なく、口に出した。読み上げた、と言った方が、たぶん、正しい。

 信じている声では、なかった。


 ──ふざけんな。

 いや、ふざけんな、じゃない。先生は読み上げただけだ。

 でも、読み上げた声が、信じてる声じゃ、なかった。

 信じてない声で読まれた『異常なし』が、いちばん、たち悪い。


 私はORIGOの腕輪を見た。

 冷たい。冷たいけど、震えている。

 震える、なんて表現、機械に使っていいのか分からないけれど、確かに震えている。


『照合不能』


 奥の何かは、形がなかった。

 ある、とは分かる。

 分かるのに、見ようとした瞬間、視線が、滑る。

 雪面に靴を取られたみたいに、視線だけが、つるっと、別の場所にずれる。


 ──いる。

 ──触れちゃ、いけない。


 私の頭の奥にだけ、警告が走る。


「天瀬」


 黒瀬先生が、私を呼んだ。


「お前のは、何を出してる」


「……『照合不能』、です」


「判定外、だな」


「はい」


「了解した」


 それだけ。

 それだけだったのに、先生が、半歩、前に出ていた。

 私の前。真広よりさらに前。


 ──大人だ。

 判定の外側を、信じる側に、立ってくれた、大人だ。


 胸の奥が、じん、と、一回鳴いた。

 鳴いたのに、すぐに、冷えた。


 なぜなら、後ろで、音が、していたから。


    ◇


 砕けた破片が、地面で、震えていた。


 立たない。

 今度は、立たなかった。


 代わりに、地面を、這った。

 ずり、と、岩盤の上を、滑る。

 滑って、隣の破片に、ぶつかる。

 ぶつかった瞬間、ぴたっ、と、貼りついた。


 ──くっついた。


 二枚が、三枚に。

 三枚が、五枚に。

 這って、探して、貼りつく。


 ぞわっと、背中が冷えた。


「あかり」


 こはるの声。


「あれ、自分で、戻ろうとしてる?」


「戻ろうとしてる」


 私は答えた。


「左の二枚、右の三枚、奥の壁際の四枚。全部、中央に、集まりに行ってる」


 数を、見ていた。

 位置も、見ていた。

 集まる順番まで、見えていた。


 集まる順番が、見えるって、何だ。


 ──やめろ、私。

 ──そこまで、見えるな。


 見えるな、と命じても、見える。

 止められない。


「中央に、もう一回、立つ気だ。一枚じゃない。もっと、大きい、一枚に、なる」


 なぜ、分かるんだろう。


 分かりたくない。


 なのに、口が、勝手に動く。


「律」


「来てる」


 律はもう動いていた。白銀の線を、空中に、張る。

 中央。集まる前に、断つ。


 線にふれた破片が、ぴし、と、震えた。


 裂けない。

 今度は、裂けなかった。


「先生」


 律の声に、初めて、わずかに、棘が混じった。


「線、通らないです」


「……は?」


 こはるの声が、半オクターブ上がった。


「あれ、線で止められない!」


「足場、上げます!」


 こはるの足元から、岩盤が走った。私たちの足場が、ぐん、と一段、持ち上がった。


 下に取り残された破片が、それでも、集まる。

 集まる。集まる。集まる。


 七枚に。

 五枚に。

 三枚に。

 一枚に。


 ──やばい。


 私の背丈の二倍ほどある、黒い、一枚の、鏡。


 それが、足場の、下に、立った。

 立った、というより、生えた。


 縁が、こちらを、向いた。


「先生! 駆除より、撤退!」


 言葉が、自分でもびっくりするくらい、はっきり、出た。


 黒瀬先生が、一拍だけ、私を見た。それから、奥を見て、それから、足元を見た。


「退く」


 声が、また、一段、落ちた。

 一段だけ。

 一段だけだから、よけいに、聞いた。


「退く。先頭は俺だ。後尾、白石」


「了解」


 律が、一番後ろに回る。線を、置きながら。


「真広、天瀬を中央。三枝、足場は残せ」


「はい」


「了解!」


 ふと、誰かに、呼ばれた、気がして、振り返った。


 振り返って、しまった。


 鏡から、白い手が、伸びていた。


 中心から、鏡が、無数に、割れた。


 破片が、激しい風を纏いながら、舞い出すのが、見え──た。


 目線を、戻し、


 私は、走った。


 膝が、また、笑った。

 膝の言うこと、私はもう、聞かない。


    ◇


 来た道は、来た道、だった。

 降りた通路を、上がるだけのはず。


 なのに、匂いが、違った。


 灰の匂いが、薄くなっていた。

 代わりに、湿った土の匂いがしていた。

 深い土。井戸の底、というよりは、雨上がりの裏庭の匂い。


 ──こんな匂い、来た時、した?

 ──してない。

 ──してないよ。


「先っ生」


 私は息切れしながら呼んだ。


「ここ、来た道、ですか」


 黒瀬先生は、答えなかった。

 答えなかったということが、答えだった。


 壁を見た。

 削り跡の文字。

 来た時と、同じ位置に、ある。

 ある、けれど。


 ──向きが、違う。


 文字の角度が、私の記憶より、わずかに、傾いていた。

 わずかに、というのが、いちばん、気持ち悪い。


 足元を、見た。

 岩盤の継ぎ目。

 継ぎ目の数が、来た時と、合っていなかった。


 数え直した。

 合っていない、で、合っていた。


「あかり」


 こはるが、隣に来た。端末を握っている。

 小さい、赤いマニキュアの爪。

 それだけは、朝と、同じだった。


「ねぇ、これ──」


 言いかけて。


 こはるが、黙った。


 ほんの、一瞬。


 他の三人は気づかなかった。

 真広は前を見ていた。律は線を置き続けていた。先生は退路の先に注意を割いていた。


 私だけが、聞いた。

 こはるが、言いかけて、黙った、その、一瞬を。


「……ごめん、なんでもない」


 こはるが、笑った。

 朝、購買の前で見た笑い方とは、違う笑い方だった。


『差異:許容範囲内』


 ORIGOが、落とした。


 ──許容って、何を、許容してるんだ。


 私は、口を、開かなかった。

 開けなかった、が、たぶん、正しい。


 通路を、上がる。

 足音が、五人分、響くはずだった。

 響くはずだった、のに。


 ふっと、音が、消えた。


「……えっ」


 こはるの声、だけが、聞こえた。


 私の足音も。

 みんなの足音も。

 私たちの、呼吸の音も。

 全部、消えた。


 通路の後ろから、這う音が聞こえた。


 ひとつ、ふたつ。


 大きな多足生物が這いずる音が。

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