第2話 世界は丁寧に裏返る
「降りるぞ」
黒瀬先生が言った。
返事をしたあとの何秒かが、いちばん長かった。
縁に立っている。
立っているはずなのに、地面と私の靴底の付き合い方が、いつもよりよそよそしい。
迷っている間に、足が一歩前に出ていた。
体が先で、頭が遅い。
縁の文字が、視界の端でわずかに揺れた気がした。
気のせい、と決めた瞬間。
世界が、丁寧に、裏返った。
落ちる、ではない。
ただ、私の前にあった黒い水面が、いつのまにか背後にあり、接続室の白は前方で消えかけていた。
誰かが几帳面にトランプを裏返したような、整った逆転だった。
◇
空気が、後から追いついてくる。
温度がない。
冷たい、ではない。
冷たい、と呼ぶには、比較する基準が、ここでは機能していない。
「全員、間隔取れ」
黒瀬先生が言う。
「索敵、天瀬」
「は、はい」
『環境照合中──』
──ORIGO、伸ばさないで。怖いから。
周囲を観察すると、天井はなかった。
代わりに、吸い込まれそうなほど暗い。
壁は湿った岩で、手のひらで触ると文字の削り跡がある。読めない。たぶん、誰にも読めない。
井戸の縁にあった、あの文字と似ていた。
床は石畳のようでもあり、ただの岩盤のようでもあった。継ぎ目が、ところどころ合っていない。
「変なとこだ」
右から、真広の声。
位置は合っている。なのに、声が私の右耳に届くまでに、半拍、空気がもたつく。
「いつもこんなふう?」
「いつもじゃない」
律。左ななめ後ろ。短い。
「降りるたびに違う。それを慣れたって言ってもいい」
──やめてよ、“慣れた”って言葉。
真広が奥へ一歩踏み出した。迷いがない。
「足場、信用していい?」
「信用してください」
こはるが胸を張る。
私も真広とこはるに続いた。
奥へ進むほど、空気の温度が変わっていく。
冷たいんじゃない。
温度ごと、別の場所の温度になった、という感じだった。
匂いがする。
湿った石。古い水。それから、何かの灰。
学校じゃない。
学校の地下でも、ない。
『同期、再構築中』
『環境照合中──』
ORIGOの腕輪が、井戸の縁よりさらに冷たくなった。冷たい、というより、温度が抜けている。
奥から水音がする。
ぽたん。
ぽたん。
不規則。
「祠みたいだね、ここ」
こはるが小声で言った。
「祠かよ、ちゃんと見たことないな」
真広が歩きながら苦笑する。
通路は緩く下っていた。
五歩進んで、振り返る。
──五歩、ぶん、あった?
来た方向の通路が、私の感覚より一段奥にあった。
五歩降りたつもりが、もっと降りていた。
『距離計測:不安定』
「……私もそう思う」
線香に似た匂いが、歩くたびに濃くなる。
ここで誰かが祈っていた、と思った瞬間、背中を嫌な感じが走った。
井戸は、還元されなかった祈りや恐れが溜まる場所だ。
祈っていたのは、誰だ。
何を、祈っていた。
『概念密度:低位レンジ。安定』
安定、という言葉が、なんで安心できないんだろう。
◇
奥で、何かが割れた音がした。
「止まれ」
黒瀬先生の声。
止まる前に、私の身体は止まっていた。動かなかった、と言った方が正しい。
──いる。
姿は見えない。
でも、いた。
壁と床の継ぎ目に、影がいつもより少しだけ濃く溜まっていた。
それが、剥がれた。
地面に落ちた瞬間、また割れる音がした。
私の背丈よりも大きく、黒く、平たい、薄い、何か。
鏡の大きな破片だった。
ただし、黒い鏡だった。
表面が乾いていて、湿った地面の上で、湿っていない。
──影、霊。
授業で見た言葉が、頭の中で勝手に名前を貼った。
『反応:複数』
黒い鏡の破片が二枚、空中で立ち上がった。
──立った。
平たいものが、薄い面のまま、地面と垂直に立った。
鋭い縁が、こちらを向いていた。
呼吸を忘れる。
見えている。
全部、見えている。
左に一枚、右に二枚。後ろの壁際にも一枚。
数も、距離も、角度も、見えている。
◇
「あかり、下がれ!」
真広の声と、真広の身体が、同時に来た。
真広の手の甲から、淡い障壁がぱあと展開した。透明だがはっきりとした壁が、私の前に開いた。
破片が一枚、障壁にぶつかって、乾いた音を立てて滑った。
真広の声に、痛みが混じった。
──痛いんだ。
障壁は、真広自身に、まだ繋がっている。
そう見えた。
見えたのに、何も言えない。
「散らせる」
律が、すれ違いざまに、空中に手を払った。
白銀の線が、空気の中に張られた。ぴん、と糸が張ったような、音にならない音がした。
立ち上がった破片の一枚が、その線にふれた。
裂けた。
割れるんじゃない。
裂けた。
裂け目から、煤に似た黒い気体が抜けていった。
戦況が、動いた。
◇
私の足が、戻ってきた。
戻ってきた、というより、思考と身体が、ようやく同じ秒数の上に並んだ。
「――右、二体!」
声、出た。
「了解!」
真広が振り返らずに身体を右へ捻った。
右壁から立ち上がろうとしていた二枚の破片が、障壁にぶつかって滑った。
「線、足す」
律の声。
白銀の線が、もう一本、私と破片のあいだに張られた。
「あかり、もういっこ!」
こはるが叫んだ。
「後ろの壁際、一枚! まだ立ってない、地面に張り付いてる!」
「了解ぃ!」
こはるの足元から、岩盤がぶわっと盛り上がった。
盛り上がった岩が、後ろ壁を、地面ごとこちらに寄せた。壁が動いた、というより、私たちの足元が壁から離れていた。
地面に張り付いていた破片が、壁ごと離されて、宙に取り残された。
取り残された瞬間、律の線が、すうっとそこに届いた。
裂けた。
黒瀬先生の手が、腰の短い杭を抜いた。
投げたようには見えなかった。
次の瞬間、上方の壁際の黒い破片が乾いた音を立てて砕けた。
「一枚、抜けてたぞ」
◇
十数枚目の破片が、地面に落ちた。落ちて、もう立たなかった。
「……まだいる?」
こはる。
「いない。今は」
律。
「右、もう来ない?」
「来ない。動きを止めてる」
「……あかり、見えてる?」
「見えてる」
声が、思ったより落ち着いて出た。
膝が、笑っていた。膝は、私の意志を聞いてくれない。
黒瀬先生が、班の三歩先で止まっていた。
ずっと、こちらに背を向けていた。
通路の、もっと奥を見ていた。
「先生」
真広が呼んだ。
黒瀬先生は、振り返らない。
「……奥に、何か、いる」
私が言った。
言いたくて言ったわけじゃなかった。口が、先に言った。
通路の奥に、一点、視線が滑る場所があった。
そこに、何か、ある。
あるのは分かる。
形は、わからない。
見ようとすると、視線がそこから逸れる。
逸れるのに、確かに、いる。
『反応:──』
『──』
『照合不能』
通路の壁の継ぎ目に、ふと、傷のようなものが見えた。
傷では、なかった。
継ぎ目だった。
ここと、ここではない場所の、継ぎ目。
私の目にだけ、それが見えていた。




