第1話 鏡の中の私が、ほんの少しだけ先に笑った
何歳だったか、覚えていない。
たぶん、四歳とか、五歳とか。
姉と、二人で、公園にいた。
姉は、私の手を、握っていた。
何をしていたのか、よく、覚えていない。
ただ、いつも私を守ってくれる握られた手が、温かかったことだけ、覚えている。
「お姉ちゃん」
私が、何かを、言いかけた。
何を、言いかけたのか、思い出せない。
姉が、振り向いた。
振り向いて、笑った。
──薄くなった。
紙に、水が、滲むみたいに、姉の輪郭が、ぼやけた。
握っていた、手の中の、姉の指が、消えた。
握っていたはずの感触が、なくなった。
私の指は、何も握っていない指の形のまま、宙に、あった。
姉は、まだ、笑っていた。
顔だけが、最後まで、残った。
「お姉ちゃん」
二度目は、声が、出なかった。
母が、駆けてきた。
私を、見て、姉がいた場所を、見て──
泣いた。
私の名前は、呼ばなかった。
お姉ちゃんの名前を、呼んだ──叫んでいた。
父が、来た。
父は、母を、見なかった。
私を、見なかった。
お姉ちゃんがいた場所を見た。
「イドの、せいだ」
お父さんが、低い声で、言った。
それから、私の前に、しゃがんで、私の、右の手首に、何かを、巻いた。
白銀の、腕輪だった。
冷たかった。
「お前だけは」
お父さんは、それだけ、言った。
その日から、母は、お姉ちゃんの名前を、口にしなくなった。
お父さんも、口にしなくなった。
弟は、最初から、知らない。
私だけが、覚えている。
お姉ちゃんの、笑い方を。
──イドが、お姉ちゃんを、消したんだ。
その時、私は、はっきりと決めた。
姉を奪った井戸を。
絶対に許さない。
支援科を選んだ理由を、誰かに訊かれたら、私は、笑って「役に立ちたいから」と答える。
半分は、本当だ。
半分は──イドを許す気が、ない。
必ず、姉を取り返す。
ORIGOの腕輪は、いつも、冷たい。
あの日、お父さんが、私に、巻いた、銀と、同じ、色だ。
◇
◇
◇
鏡の中の私が、ほんの少しだけ先に笑った。
息が止まる。
見間違いで片づけるには、あの笑い方はあまりに私すぎた。
『表情出力:安定』
朝一番で、それを言うな。
洗面所の灯は白い。
曇った鏡も、寝ぐせのついた前髪も、全部いつも通りだ。
なのに今、鏡の中の私は、私が笑うより先に笑った。
「……うわ」
声が漏れた瞬間には、もうただの私に戻っていた。
寝不足だ。きっと、それだけ。
そういう日に人は変なものを見る。
そう思わないと、朝からまともに立っていられない。
頬を軽く叩く。
右手首の白銀の腕輪が、ひやりと冷たかった。
『対人応答:維持』
「まだ誰ともしゃべってないんだけど」
耳で聞く声じゃない。
言葉だけが、頭の奥へ直接落ちてくる。
ORIGO。私の相棒。
そして、たまに私より先に私を決めつけるやつ。
「朝から何してんの、姉さん」
洗面所の外から、呆れた声が飛んできた。
「AIとの信頼関係を築いてる」
「片思いじゃん」
弟の灯真は、朝からきっちり制服を着ている。
同じ家で起きているのに、寝ぐせひとつないのが腹立つ。
リビングへ入ると、味噌汁の匂いがした。
焼き鮭と卵焼きもある。
世界がどれだけ壊れていても、朝ごはんの匂いだけは平然としている。
「今日、訓練だったわよね」
母の美香が言う。
「うん。D-井戸」
「安全なやつ?」
「訓練用だし、かなり安全寄り」
そう答えてから、私は少しだけ胸を張った。
「しかも私は支援科の有望株だから」
「初耳なんだけど」
灯真が即座に返す。
「願望を実績みたいに言うなよ」
「未来込みの評価です」
半分は冗談。
半分は本気だった。
「無理しないでよ」
灯真が何でもない顔で言った。
「してないって」
「姉さんの"してない"は信用できない」
「ひど」
「笑ってごまかすから」
箸が止まった。
「……ごまかしてないし」
「今もしてる」
言い返しかけて、自分の口元に気づく。
別に面白くもないのに、少し笑っていた。
空気を重くしたくなくて、勝手にそうなっていた。
母が立ち上がる。
「はい、そこまで。二人とも遅れるでしょ」
玄関へ向かう時、母が私の襟を整えた。
「ちゃんと帰ってくるのよ」
「それ、毎回言う」
「毎回言いたいの」
私は笑ってうなずいた。
たぶん私は、こういう人たちの前で笑うのがいちばん上手い。
◇
学校への坂を上がると空気が変わる。
住宅街の生ぬるさが薄くなって、校門の向こうから管理された冷たさが流れてくる。
通学路の街頭モニターには、今日も公共表示が流れていた。
> 井戸反応や浸食区域に取り込まれた人を見かけた場合は、速やかに通報してください
> 旧式AIの無許可使用は法令により禁止されています
見慣れていること自体が、おかしい。
井戸は、近づくなと教えられる。
でも、放置すれば付近を侵食する。
だから結局、誰かが入って抑制しないといけない。
校門ゲートに生徒が一列に並ぶ。
旧式AI反応、浸食因子付着、簡易バイタル。
学校に入るだけでも、無事ですと機械に証明しなきゃいけない。
「あかり、おはよう」
列に並ぼうとしたところで、声をかけられた。
三枝こはるだった。
小柄で、緊張するとAIのバンドを握る。
今もそうだった。
「おはよ。どうしたの、緊張してる?」
「今日の訓練、ちょっとやな感じして」
「そういうこと言うのやめてよ。怖くなるじゃん」
「ご、ごめん!」
「冗談だって」
そう返してから笑うと、こはるはすぐには笑わなかった。
「……今、わざと笑ったでしょ」
「え」
「ほんとは、ちょっと怖い時の顔してる」
ばれるのか、と思う。
家族でも流せる時があるのに、こはるには妙に見抜かれる。
私たちの二人前で、列が少しだけ詰まった。
一年生らしい男子が、通行証を落としてしゃがみ込む。
その左踵だけ、影が妙に濃かった。
『局所浸食因子:低濃度』
『付着位置:左踵』
『接触拡大予測:中』
考えるより先に声が出た。
「待って、そのまま入らないで!」
列が止まる。
男子がびくっと顔を上げた。
係の先生がすぐにこちらを見る。
「どうした、天瀬」
「その子の左踵、黒いの付いてます。泥じゃないです」
先生の顔が変わる。
「動くな」
短い声と同時に、先端の細い処置具が伸びた。
男子の靴紐の根元。
そこに、濡れた煤みたいな黒い筋が絡んでいた。
つまみ上げられた瞬間、細く震える。
周囲の空気が、ほんの少しだけ冷えた。
「旧排水路の縁を踏んだな」
係の先生が吐き捨てるように言う。
「ゲートの中まで引いてたら列ごと止まってた。よく見た」
一年生の顔が青くなる。
「す、すみません……ありがとうございます」
ありがとう。
その一言だけで、胸の奥が少し熱くなる。
斬ったわけでも、守ったわけでもない。
でも、見えたから止められた。
私の番が来る。
ゲートをくぐると、表示が一度だけ黄色く点いた。
> 旧式AI反応:検出
> 研究登録特例:確認済
係の先生は私の手首を見て、それから一度だけうなずいた。
「よぅ、天瀬」
わざとらしいほど明るい声に振り向く。
攻撃科の男子が二人、こちらを見ていた。
腕章の色だけで、実技上位組だと分かる。
「今日の班、白石と日下部だろ」
「じゃあ観測は後ろ固定か。昨日の模擬と同じで」
「楽でいいよな、支援科」
聞こえないふりをすれば、よかった。
「楽じゃないですよ」
口が先に動いた。
「ね、ねえ、あかり」
「言わなくていいんじゃない」
隣のこはるが袖を引いてくる。
引っ張った手の爪に、小さい赤いマニキュアが乗っている。
「昨日の合同模擬で、戦線崩しかけたログ、残ってますけど」
「……は?」
「提出しましょうか? 後ろで突っ立ってた人が、誰の指示で立て直ったか、ちゃんと書いてあるやつ」
男子の顔が、半秒だけ固まった。
私はにっこり笑った。
営業用じゃない。
詰めの笑顔。
「しかも私、支援科の有望株なので。未来込みの評価で、言ってもらえます?」
こはるが横で、「うわぁ……」と小さく漏らした。
休み時間、購買の前で自販機を見上げた。
「あかりさー」
「なに」
「さっきの、めちゃくちゃ怖かった」
「事実言っただけだよ」
「事実、人を刺すよ」
こはるが両手でほっぺを押さえて笑っている。
怒られている、はずなのに、温度が温かい。
「ねえ、ひとつ提案」
「うん」
「初任務、終わったらさ、あの白いミルクティー、買おうよ」
自販機の上から二段目。
中身の見えない白い缶。
ずっと気になっていたやつ。
「初任務終わってからって縛り、何」
「ご褒美感、欲しくない?」
うん、欲しい、と即答しかけて、こはるが私の顔を覗き込んできた。
「ていうかさ、あかり」
「ん?」
「さっき、笑ってたけど」
「笑ってたよ」
「目、笑ってなかったよ」
「……失礼な」
「失礼な、って言うときも、目、同じだよ」
返す言葉が出なかった。
代わりに、こはるの肩を軽く小突いた。
こはるが「いたっ」と言って笑った。
廊下の向こうから、大きい影が手を上げた。
「おー、今日よろしくな」
日下部真広。背が高い。
腕の輪郭が制服から浮いている。
日に焼けている。
「真広さん、よろしくお願いします」
「お、敬語。やめろやめろ、年なんかすぐ取るぞ」
ほどけた。この人は、こういう人だ。
教室に戻る途中、もう一人と目が合った。
教室の端、窓際、白銀寄りの髪、姿勢がいい。
白石律。
何も言わなかった。
私が会釈した。
律はゆっくり目を伏せて、それで終わりだった。
ただ、見ていた。
私のことを、見ていた。
◇
最後の授業が終わる少し前に、案内放送が入った。
『アマテラス班。十三時に接続室へ』
教室を出て、階段を、地下へ。
一段降りるごとに、壁の質感が変わる。
タイル張りの廊下が、無機質な打ちっぱなしになる。
窓が減る。
蛍光灯の色が、白から、もっと冷たい白に変わる。
ここから先は、学校のふりをした管理空間だ。
二重扉。
ロック解除の電子音。
『接続室A 進入許可』
押し開けると、空気が肌を一段こすった。
接続室は、白い。
床も壁も天井も、医療施設みたいな白さ。
清潔で、人工的で、たぶん何度も拭かれている。
生活の匂いが、いっさいない。
その中央にあるものだけが、徹底して黒い。
通称、井戸。
遠目には五、六メートルほどの黒い水面がうっすらと見えるのに、近づくほど水らしさが消える。
周囲の透明な縁に、読めない文字が刻まれていた。
読めない。
たぶん、誰にも、読めない。
井戸だけが、この清潔な部屋に「合っていない」。
班員は、もう揃っていた。
真広が腕を組んで壁にもたれている。
こはるが端末をいじっている。
律は腕を後ろで組んだまま、井戸を見ていた。
黒瀬先生が、私が入ってきたのを目だけで確認した。
「揃ったな」
「いいか。D-訓練向き、と言っても、安全じゃない。安全と、死ににくい、は別だ」
「行動の優先は、駆除じゃない。生き残ることだ。撤退判断は、おれが出す。出たら、議論はなしだ」
「はい」と、四人の声が重なった。
黒瀬先生がうなずいて、井戸の方へ顎を向けた。
私は深呼吸をして、井戸の縁に近づいた。
縁の文字が、視界の端で揺れた気がした。
気のせい。
水面はなかった。
井戸の中は、黒い。
底が見えない。
空気が冷たい——けれど、その冷たさは、外で感じたどの冷たさとも違う。
空気じゃなくて、空間そのものに拒否されている、感じ。
身体が半歩、後ろに下がろうとする。
下がる前に止めた。
負けたくない。
『同期確認。接続良好』
『環境照合中──』
井戸の黒の中に、何かが映った。
水面はないはずなのに、映っていた。
私だ。
鏡の中にいた私と、同じ顔だった。
——いや、違う。
鏡のときより、はっきりしていた。
怯えた顔じゃない。
見つけた顔だった。
向こう側にいる私が、こっちの私に手を伸ばしたくてたまらない顔をしていた。
『表情出力:安定』
頭の奥に、冷たい一文が落ちた。
——安定?
これが?
「あかり、行けるか」
黒瀬先生の声が、遠かった。
「……はい」
声は普通に出てしまった。
井戸は、おかしい。
ORIGOも、おかしい。
そして、いちばんおかしいのは——たぶん、もう、私だ。




