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第18話 罪の切断面

――幕間・黒瀬


 白く無機質な天井を、どれほどの時間見つめていただろう。

 視界の端がかすかにぼやけ、光の輪郭が歪んで見える。


 泥のような悪夢の残響が、いまだに頭の奥へこびりついて離れない。

 意識が混濁し、時間の境界が曖昧になっていた。


 じわじわと、感覚の抜けた隙間へ、冷たい思考の輪郭が戻ってくる。

 そうか、俺は。


 「あ……気がつかれたのですね」

 ベッドの脇から、息を呑むような声が滑り込んできた。


 青い制服を着た見回りの看護師が、そこに突っ立っていた。

 その視線は、俺の顔ではなく、シーツの上に投げ出された右半身のほうへ釘付けになっている。


 「すぐに先生を呼んできます。動かないでください」

 看護師は慌ただしい足音を残し、背中を向けて病室を飛び出していった。


 再び、重苦しい静寂が部屋を満たす。


 自分の右手を確認しようと、右腕に意識を向けた。

 上がらない。


 痛みすらなかった。ただ、そこにあるべき右腕の「厚み」だけが世界から丁寧に削り落とされたような、脳が接続を拒絶する奇妙な軽さだけがある。

 少し首を持ち上げ、自分の右半身へと視線を落とした。


 俺は、微かに目を見開く。

 手首だけではない。


 手首からさらに二十センチほど上、前腕の半ばから先が、完全に消失していた。

 包帯の巻かれていないその切断面から、白い光の粒子が、ほのかに舞い上がっている。


 粒子は虚空でゆっくりと渦を巻き、失われた手のひらの輪郭を象りながら、静かに震えていた。

 持ち上げていた頭を、ゆっくりと枕に戻す。


 天井を見つめ、大きく、ため息をついた。

 俺も、ここまでなのか。


 脳裏の底から、冷え切った過去の光景が染み出してくる。

 日本各地で、あの井戸の災害が始まった頃、地下の研究施設で起きたあの事故の記憶。


 「仁、これ以上は定義が持たない。システムを遮断しろ」

 「いや、まだだ。あと一秒で、核の構造を記録できる」

 そう言って計測機に齧りついていた相棒の顔が、フラッシュバックする。

 直後、警報の赤色灯が回り、無響室のコンクリートの床が泥と化してうねり始めた。


 概念の歪みに呑まれかけた相棒の手を、俺は確かに掴んでいた。

 肉の温かさもあった。引き上げようと、力を込めた。

 だが、強く引かれる。そいつが黒い粒子を纏い、人間のそれだったものが消える。それと同時に、侵食はそいつを瞬く間に書き換えていった。

 掴んでいた手首が、節くれ立ち、粘着質な角質で覆われ、人間ではないみにくい化け物の肉へと変質していく。

 顔はのっぺりと潰れ、関節はあり得ない方向へと折れ曲がっていく。

 その異形へ変わり果てていく相棒を掴み続ける恐怖と嫌悪に、俺の指先が負けた。

 自ら、その手を離したのだ。


 離した直後、ハッチを抉じ開けて突入してきた特殊部隊の銃声が、狭い部屋に吠え狂った。

 だが、概念の渦は彼らをも容赦なく捕食していく。

 防護服を纏った隊員たちが、銃を構えた姿勢のまま、次々と醜い化け物に変異していく地獄絵図。

 肉体を引き裂き、四肢を異形へと歪ませた彼らが、まだ人の形を保っている仲間を押し潰し、貪り食う。


 その血飛沫と硝煙の奥で、眼鏡をかけた一人の男が、冷徹な目で異形たちを殲滅していく姿があった。

 男は眉ひとつ動かさず、変異して迫るかつての部下や同僚を、容赦なく撃ち殺し、排除していく。

 眼鏡の奥の鋭い目が、床にへたり込む俺と、化け物になって消えていく相棒を、ただ静かに射抜いていた。


 凄惨極まる殲滅と変異のただ中で、俺はただ、自分の離した手が残した空虚を見つめていた。


 あの掴めない消失のさなかで、なんとか一戦を退けた時のこと。

 あの時と同じ、温度を奪い去る冷たさが、今、自分の切断面からゆっくりと脈打ちながら、二の腕に向けて遡上し始めているのを、俺はただ見つめていた。

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