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第19話 ニマニマと空白

 白いベッドの上に置かれた、見慣れた私服を見つめる。

 一週間ぶりに袖を通すシャツは、少しだけ湿気を含んでいる気がした。


「はい、あかりちゃん。これで荷物は全部ね」

 手際よくスポーツバッグのファスナーを閉めたのは、この一週間ですっかり顔馴染みになった看護師の斉藤さんだ。


 斉藤さんはバッグを床に置くと、両手を腰に当てて私を見つめた。

 その丸い目が、感嘆の色で細められる。


「それにしても、本当に驚異的な回復力ね。運ばれてきたときは自力で立つこともできなかったのに、もう普通に歩いて帰れるなんて。若いって本当に凄いわ」

「ありがとうございます。斉藤さんたちのおかげです」


 私は努めて明るい笑顔を返した。

 斉藤さんは「いいえ、あなたが頑張ったのよ」と笑い、私の肩を優しく叩いて病室を出ていった。


 その背中を見送りながら、私はそっと自分の左足を見つめる。

 スニーカーを履いた爪先を床に押し当てる。


 (瀕死の重傷から復活して強くなる私は、戦闘民族にでもなったのかな)

 内心でそんな自虐的な冗談を呟く。


 だが、胸の奥にはざわめきを感じていた。

 足の裏から伝わるのは、ただの健康的な回復ではない。


 床を踏みしめるたび、事故の前よりも強固な力が全身に漲る。

 自分の肉体が、自分ではない何かに変質しつつある──そんな不思議な感覚だった。


「あかり、忘れ物はない?」

 母さんが横の棚を開けて中を確かめながら、心配そうに声をかけてくる。


 私は慌てて笑みを浮かべた。

「うん、大丈夫。全部まとめたよ」


 母さんは「よかった」と胸を撫で下ろし、私の荷物を肩にかけた。

 その甲斐甲斐しい動作を見るたびに、退院できる喜びや、家族と一緒に家に帰れることに心の暖かさを覚える。


 病室を出て、静まり返った廊下を歩く。

 歩幅を広げるたび、左足は力強く地面を蹴り出した。


「あかり」

 ロビーの自販機前で待っていた真広と律が、私に気づいて手を挙げた。


 真広の頭からはすでに包帯が取れており、律の右腕を吊っていた三角巾もない。

 私たちは無言で頷き合い、こはるの個室へと向かった。


 扉を軽くノックして中に入る。

「こはる、入るよ」


「あかり! みんなも!」

 ベッドの上のこはるが、弾んだ声で私を迎えてくれた。


 だが、そのシーツの下にある両脚は、分厚く冷たいギプスで完全に固められている。

 自分の足でしっかりと床を踏みしめている感覚が、急に後ろめたく思えた。


 自分だけが日常に戻る気まずさが、胸をちくちくと刺す。

「退院、本当におめでとう! 二人も包帯が取れてよかったね」


 こはるは自分の状況など微塵も感じさせない、眩しい笑顔を浮かべた。

「ありがと。でも、こはるを置いていっちゃうみたいで、なんか……」


 私が言葉を濁すと、隣にいた律がふいと視線を逸らしながら口を開いた。

「置いていくっていうか……真広に関しては、毎日ここに来てるだろ」


「おい、律! 余計なことを言うな!」

 真広は血相を変えて律の肩を小突いた。


 ベッドの上のこはるは、一瞬で顔を真っ赤に染める。

「ち、違うよあかり! 真広くんは、その、リハビリのついでに寄ってくれてるだけで……!」


「そうそう! ついでだよ、ついで! 俺の病室から近かったし!」

 必死に弁明する真広も、耳の裏まで真っ赤にしている。


 私は思わず「はー……」と、胸の内でため息を漏らした。

 あまりに甘酸っぱいその空気に、私の耳まで熱くなっていく。


 気まずそうに視線を泳がせ、そわそわと爪先を動かしている律の様子も、可笑しくてたまらない。

 それでも、胸の奥でニマニマとした笑いが込み上げるのを止められなかった。


「あらあら、今日も随分と賑やかね」

 ドアを開けて入ってきた斉藤さんが、手にしたカルテで口元を隠しながら微笑んだ。


「本当に仲が良いんだから。こはるちゃん、これなら退院まで退屈しなくて済みそうね」

「斉藤さんまで!」


こはるが両手で顔を覆う。その顔が可愛い。

真広に渡すには勿体無い気持ちが湧き上がる。私どうした!?


病室を満たす温かい空気。


その中で、真広がふっと息を吸い込み、真顔でみんなを見つめた。

「みんな」


「え……?」

「俺、もっと強くなるよ。絶対にみんなを守れる盾になってみせるよ」


真広の真っ直ぐな言葉が、静かな病室に響いた。

「井戸のせいで、誰かが傷つく姿はもう見せない。……こはるのことも、次は俺が絶対に守るから」


嘘偽りのない、決意の滲む声だった。

こはるは完全に言葉を失い、静かに涙を流しながら、シーツの端を握りしめた。


「……待ってるよ、こはる」

私はそっと、こはるの手のひらに自分の手を重ねた。


「うん。絶対、すぐに追いつくから」

こはるは涙目のまま、力強く頷いた。


こはるの病室を出たあと、真広たちとは一階のロビーで別れた。

母さんが受付で退院の手続きを進めている間、私はベンチに座って待つことにした。


手持ち無沙汰になり、ポケットからORIGOの端末を取り出す。

復帰申請の手続きを終え、ふとアマテラス班の過去のミッションログをスクロールした。


違和感は、そこにあった。

班員リストの並び。


名前とIDコードが表示される枠の途中に、不自然な空白が存在していた。

システムエラーの表示すら出ない、綺麗に削り取られた不気味な空白。


それを見た瞬間から、私の胸の奥に冷たい風が吹き込み始めた。

誰かがいた。


そこには、確かに誰かのデータが存在していたはずだ。

私の隣にいて、いつも私の手を握ってくれていた、大切な──。


思い出そうとすればするほど、記憶のモザイクは細かく砕け、霧の中に消えていく。

顔も、名前も、声も、何一つ手繰り寄せることができない。


私だけは覚えていると、いつか強く心に決めたはずだった。

それなのに、その記憶の輪郭すら、今の私には見つけられない。


存在そのものを世界から消去されるということが、どれほど冷酷な現実であるか。

私は、自分自身の頭の中に空いた巨大な空白を通して、その恐怖を実感していた。


「あかり、お待たせ。行きましょうか」

手続きを終えた母さんが、私の肩を優しく叩く。


「うん……行こう」

私は冷たくなった端末をポケットにしまい、立ち上がった。


病院から出ると、自動ドアが背後で静かに閉まった。

鼻腔を刺していた消毒液の冷たい白さが、一瞬で消え去る。


流れ込んできたのは、夏の終わりのぬるい湿気と、夕暮れのアスファルトが放つ熱だ。

視界いっぱいに、茜色の空が広がっていく。


自分の足でしっかりと地面を踏みしめ、一歩を踏み出す。

その瞬間、世界が以前よりもずっと広く感じられた。


「あかり、大丈夫? ゆっくり歩きなさいね」

隣を歩く母さんが、私の腕にそっと手を添える。


「うん、平気だよ」

そう答えながら、私は前を見据えた。


こはるの笑顔、真広の決意、律の沈黙。

彼らと交わした温かい約束と、胸の奥の冷たい違和感が、同時に私の胸を熱くしていく。


感情が昂るのを感じる。

二度と、大切な仲間を奪わせない。


ふつふつと、井戸への激しい怒りと、それを殲滅してやるという強い闘志が湧き上がってくる。

私の左足は、その決意に呼応して、さらに力強く地面を蹴り出した。


前よりもずっと強い気持ちを感じる。

「あかり、本当に足、痛まない?」


坂道の手前で、母さんが心配そうに私の顔を覗き込む。

「うん、全然。むしろ、すごく軽いよ」


私は笑って見せた。

嘘ではない。


アスファルトの微細な凹凸や、砂利を踏みしめる感覚が、驚くほど生々しく足の裏から伝わってくる。


一歩を踏み出すたび、足の芯から跳ね返る過剰な力が漲っていた。

いまなら、こはると敵を潰した感覚が再現できる。そんな気がした。


見慣れたはずの家並みや、聞き慣れた踏切の音が、どこか遠い他国の景色に見えた。

「ただいま」


玄関の扉を開けると、いつもの匂いが鼻をくすぐった。


「さあ、着いたわよ。あかり、本当によく頑張ったわね」

一緒に玄関をくぐりながら、母さんの優しい声が響く。


 私はその暖かさに包まれながら、もう一度、自分の左足を見つめた。

 漲る力と、胸の奥の冷たい空白。


 その二つを抱えたまま、私は歪んだ日常の奥へと、足を踏み入れた。

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