第17話 繋がる手のひら
ゆっくりと、まぶたを押し上げる。
白く無機質な天井が、ぼやけた視界の中に広がっていった。
「あかり、気がついたのね」
横から聞こえた母さんの声に、私はゆっくりと首を傾けた。
心配そうに覗き込んでくる母さんの顔を見て、私は自分が病院にいるのだと理解した。
起き上がろうと身じろぎした瞬間、全身を強烈なだるさが襲う。
特に、下半身が重い。
自分の足であるはずなのに、感覚が遠く、布団の中で左足の指先に必死に意識を向けた。
ピクリ、と微かに爪先が動く感覚だけがあった。
麻痺はしていない。だが、どれだけ力を込めようとしても、そこから先が動かなかった。
ベッドから脚を下ろし、床に足をつけようとした瞬間、膝が砕けた。
「あかり!」
母さんが慌てて私の身体を支え、ベッドへ戻す。
「まだ、歩かないほうがいいわ。お医者さんには大事ではないけれど、安静が必要だと言われたの」
結局、私は病室に用意された車椅子に乗ることになった。
その時、病室のドアが静かに開いた。
「よう、生きてるか」
頭に白い包帯をぐるぐる巻きにした真広が入ってきた。
その後ろから、右腕を三角巾で吊った律が続く。
「大丈夫か」
律が車椅子の手すりを強く握りしめた。その手のひらが、微かに震えている。
「マジで死ぬかと思ったわ」
真広はいつもの調子でおどけて見せたが、ドアの枠を掴む指先は白く強張っていた。
「二人とも……本当に、生きてるんだね」
私の掠れた声に、真広は力なく笑い、律はただ静かに頷いた。
お互いを讃え合う言葉など出てこない。
ただ、まだ死の冷たさが体に張り付いているような、歪な安堵が病室を満たしていた。
「こはるのところ、行こう」
律が静かに言い、私の車椅子を押し始めた。
廊下を進み、少し離れた個室のドアをノックする。
「失礼します」
ドアを開けると、こはるがシーツの上に横たわっていた。
その両脚は、冷却固定用の厚いギプスでガチガチに固められている。
「あかり……! みんなも!」
こはるは私たちを見て明るく微笑んだ。
「こはる、足大丈夫?」
私の問いかけに、こはるはギプスの上の脚を見つめた。
「大丈夫だよ。ちょっと、力を使いすぎちゃっただけみたい」
「すぐに良くなるって、お医者さんからも」と、こはるは明るく微笑みかける。
「私も大丈夫。ちょっと動けないだけ。こはると一緒だよ」
私は努めて明るい声で言った。真広と律も、それに合わせて強気の笑みを浮かべる。
笑顔を返すこはるの、ベッドの下で分厚く固まったギプスを見つめ、私は車椅子の手すりを握りしめた。
「黒瀬先生……」
真広がおもむろに呟いた。
「面会謝絶なんだ。どうなっているかも、俺たちには教えてもらえない」
真広の説明に、こはると私は息を詰まらせた。
右手首を失い、最後まで戦ってくれた恩師。
「……」
律が拳を強く握りしめ、床を睨みつけていた。
「黒瀬先生の様子、ちょっと見てくるわ」
真広がそう言うと、こはるは静かに頷いた。
私たちは病室を後にし、黒瀬先生がいる集中治療室へと向かった。
重々しい扉の前にたどり着いたものの、やはり中に入ることはできない。
ガラス越しに静まり返った廊下を見つめていると、後ろから足音が近づいてきた。
「君たちは、アマテラス班か……みんな無事だったか、よかった」
振り返ると、眼鏡をかけ、背筋をすっと伸ばした男性の姿があった。黒瀬先生より少し年上の、落ち着いた風貌──いつも学校で黒瀬先生と一緒にいる、宗方先生だ。お見舞いに来たのだろうか。
「宗方先生……お見舞いにいらしたんですか?」
「ああ、黒瀬が重体だと聞いてな。君たちは無事だったようで安心した」
宗方先生はそう言って、私たちの顔を順番に見つめた。眼鏡の奥の穏やかな目が、私たちの包帯や三角巾の上をそっと辿る。
「黒瀬のことは気にするな。あいつだって覚悟のうえで戦っていた」
「先生は私たちのために……」
食い下がる私に、宗方先生は静かだが力強い目線で語りかけた。
「あいつも、君たちが無事なら本望さ。そういうやつだ」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「私はそろそろ行く。君たちもつらいだろうが、井戸の侵食が多くなっている。また、君たちには駆除をお願いすることになる。今はゆっくり休んでくれ」
宗方先生はそう言って、歩き出す。
去り際に、先生は眼鏡の奥の目を優しく細めた。
「もし、今後一緒になるときは、よろしくな」
先生の背中を見送りながら、私は再び集中治療室の扉を見つめた。
ふつふつと、井戸の恐怖をかき消すように、怒りが胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
井戸。
あんなものは存在してはいけない。
あんなものは──。




