第16話 深淵からのレスポンス
――幕間・灯真
呼吸が喉の奥で引き攣れる。
俺は病院の廊下を、足音も構わずに走っていた。
母さんから「あかりが入院した」と連絡を受けたのは、放課後の部活が始まる直前だった。
頭が真っ白になって、カバンを掴んでそのまま飛び出してきた。
姉さんのやつ、何やってんだよ。
心臓が耳のすぐ横で、うるさいくらいに脈打っていた。
三階の角にある病室。
プレートに『天瀬』とあるのを確認し、勢いよくドアを押し開ける。
「姉ちゃん!」
肩で息をしながら、俺はベッドへ駆け寄った。
白いシーツの端から出ている姉さんの腕や、首元を慌てて見回す。
包帯や、ひどい傷跡がないか、心臓が跳ね上がるのを抑えながら必死に探した。
だが、見つかったのは、口の端からだらしなくよだれを垂らした寝顔だけだった。
規則正しい寝息が、静かな室内にすー、すー、と響いている。
「……全然平気そうじゃん、これ」
俺はベッドの横の丸椅子に座り、深く体重を預けた。
張り詰めていた肩の力が抜けて、長い息が喉から漏れた。
病室のドアが開き、母さんが入ってきた。
「あら、灯真。来てくれたのね」
「母さん! 姉ちゃんなんともないじゃん。入院したなんて、大げさだよ」
俺は口を尖らせて、持ってきたカバンを床に置いた。
「姉ちゃんの命に別条はないって、さっき看護師さんが教えてくれたわ」と母さんは言った。
心配して損した。
ただ無防備に眠っている姉さんの顔を見ていると、胸の奥の塊が溶けていくのがわかった。
だが、母さんの表情は暗いままだった。
「あかりは無事だったけど、引率の先生が、右手首を失う大怪我でまだ集中治療室にいるの」
「え?」
「一緒に行動していた同じ班の人たちも、みんな怪我をして入院しているのよ。その中にこはるちゃんもいて……少しひどい状態みたいなの」
「こはるさんも……?」
俺は言葉を失った。
「お母さん、お医者さんに呼ばれてるから、少し外すね」
母さんは俺の肩に手を置き、病室を出て行った。
静まり返った病室で、俺は姉さんと二人きりになった。
ベッドの横に立ち、姉さんの手元に目をやる。
いつも手首にあるはずの白銀のバンドがない。
視線を移すと、外されたORIGOがサイドテーブルの上で、赤く点滅していた。
その時、姉さんの口元がふっと動いた。
口角が、両端に向かってゆっくりと持ち上がっていく。
寝ぼけているのだろうか。
だが、その笑い方には得体の知れない違和感があった。
姉さんが昔から、心配をかけまいとして笑ってごまかす時の、あの不自然な顔。
その歪さが、さらに剥き出しになったような、完璧に左右対称な機械的な笑顔。
俺の背筋に、氷を押し当てられたような冷たい汗が流れた。
怖くなって目を瞬かせた。
次の瞬間には、姉さんの口元は元の寝顔に戻っていた。
気のせいか? いや、確かにさっき笑っていた。
脳裏を掠めたのは、あのブログに書かれていた、消えた家族の記録だった。
誕生日。好きだった味噌汁の具。そんな何気ない日常の記録の最後に、あの一行だけが残されていた。
『最後の数日、目だけが、こちらに近づいてきた気がする』
さっきの姉さんの笑顔が、その言葉と重なって見えた。
俺はポケットから端末を取り出し、あのブログの「管理人にメッセージを送る」フォームを開いた。
以前保存した、計測誤差のスクショを添付し、文字を打ち込む。
『突然のメッセージで失礼します。ブログを拝見しました。
私の家族が、あなたの記事に書かれている状態と同じではないかと感じています。
眠っているときの笑い方が、ひどく不自然なんです。
何か知っていることがあれば、教えていただけないでしょうか』
送信ボタンを押し下げる。
画面に「送信完了」の文字が浮かんだ。
「……俺は一体、何やってるんだ」
送信した画面を見つめながら、急に冷静さが戻ってきた。
姉さんは無事なんだ。ただ寝ているだけなんだ。
なのに、こんな怪しげなブログの主に縋るなんて、どうかしている。
俺は端末をサイドテーブルの上に置いた。
それから、眠っている姉さんの顔をじっと見つめた。
姉さんらしい寝顔。
やっぱり、ただ眠っているだけだ。俺はもう一度、深く安堵の息を吐き出した。
俺の端末が、音もなく明滅していた。




