第15話 災害浸食区域
――幕間・侵食災害
都市の中央に、それは穿たれていた。
空には、星空のように美しい文字が刻まれている。
直径数十キロメートル。
かつて高層ビル群が並び、数百万の生活が息づいていた空間が、まるごと一つの傷口に変わっている。
空を真っ二つに切り裂く漆黒の陥没。その淵から、この世のものではない何かが這い出していた。
光の羽を幾重にも重ねた、巨大な人型。
泥めいた影の翼と、捩じれた角を持つ、禍々しい異形。
それらはただそこに在るというだけで、周囲の現実を均等に崩壊させていった。
咆哮も、爆音もない。
ただ、絶対的な沈黙のなかで、人間が消滅していく。
直接触れられることすらない。
歪んだ空間の縁を掠めただけで、人々の身体は厚みを失い、平坦な断片となって消えていく。
物理的な質量や法則など、最初から存在しなかったかのごとき、等しい消去。
変質は、それだけに留まらない。
倒れ伏した群衆のなかから、ある者は黒い泥の皮膚を纏って悪魔へと変じ、
ある者は白い光の粒子に溶けて半透明の天使へと変貌し、
またある者は、石化したがごとく無機質な幾何学的立体へと姿を変えていく。
その光景を、跪いて見上げる狂信者たちの群れがいた。
両手を天に掲げ、血の涙を流しながら、降臨した絶対者を崇め、賛美の声を張り上げる。
だが、その喉もまた、音を失った瞬間に美しく削り落とされていく。
防衛線は一瞬で無効化され、救急車の列も、装甲車も、すべて幾何学的な平面へと平坦化された。
国家という枠組みが、文字通りこの大穴の周囲で解体されていく。
逃げ惑う人波のなか、一人の人物が立ち尽くしている。
名前も、年齢も、誰も知らない無名の市民だ。
その人物は、パニックを起こすこともなく、ただ静かに自分の右手を持ち上げた。
指先が、透明に削り取られている。
痛みはない。血も流れない。
ただ、初めからそこに存在しなかったかのごとく、存在の輪郭を失っていく。
消滅が手首に達する直前。
その人物の口元が、ぴくりと動いた。
両側の口角が、同時に、等しい角度で吊り上がる。
感情の痕跡すら存在しない、完璧に左右対称な、機械的な笑み。
まるで、世界全体の表情を統制しようとする、見えざる力に引き絞られた、空っぽの笑顔。
それを最後に、その人物は頭のてっぺんまできれいに霧散した。
◇
規則正しい、電子音が耳の奥を叩いていた。
ツンとした、薬品と塩素を思わせる消毒液の臭い。
肌を撫でる冷たいシーツの感触が、自分が今、清潔なベッドの上にいることを伝えてくる。
静かな病室。
あかりは、シーツのなかで微かに指先を動かした。
手首には、画面がひび割れ、沈黙したままの白銀の腕輪が、冷たく嵌められている。
ベッドの脇では、灯真が椅子に座り、薄暗い画面の端末を見つめていた。
画面の反射光が、その険しい表情を青白く照らし出す。
窓の外。
重く垂れ込めた灰色の空の下で、遠く低いサイレンの音が、絶え間なく響き渡っていた。




