第14話 笑え、安定の檻の中で
黒瀬先生の右手首だった切り口から、白い粒子が、崩壊する砂山めいてさらさらと零れ落ちる。
私は息を呑み、ただその光景を凝視した。
言葉の続きは、固く結んだ唇の隙間から、掠れた吐息となって消える。
羽を広げた白い人型の背後で、長い光の羽がうねり、周囲の空間を巻き込む形で深くのたうち回った。
無数の光の粒子が、大気を削り取る鋭い刃となって、私たちへ殺到する。
「下がれ!」
真広が叫び、私たちの前に割り込んだ。
膜展開補助具を両手で構え、二重、三重に障壁を重ねて展開する。
激突した瞬間、半透明の障壁が悲鳴を上げて軋み、端から削り取られていった。
「──破られてたまるか……っ!」
真広の咆哮が響くが、盾を支える右手の指先は強張り、爪の隙間から滲んだ血がグリップを赤く濡らしていた。
限界の負荷によって、真広の顔が赤黒く充血していく。
光の粒子と半透明の障壁がぶつかり合い、猛烈な斥力が白い壁面を軋ませた。
だが、押し寄せる光の刃は、真広の障壁を紙細工めいて容易く引き裂き、侵食していく。
さらに敵は、もう片方の手からも別方向の光刃を放ち、真広を左右から挟み撃ちにした。
「きさまっ……、──あああああッ!」
律の、普段の静寂からは想像もつかない怒号が、白い円柱を震わせた。
焦点具を軋ませる指先が強張り、裂けた喉から放たれた白銀の閃光が、白い円柱と冷たい石床を鋭く跳弾し、敵の右腕を肩口から叩き切った。
だが、その切断面から、吹き出した白い粒子が逆流する。
切断されたはずの右腕は、一瞬で元通りに再生した。
即座に回復した敵から、内側へ凝縮された猛烈な粒子の波が放たれる。
それは真広の障壁を無慈悲に押し潰し、さらに別軸の衝撃が、離れた位置で焦点具を構えていた律をも強引に巻き込み、二人を同時に吹き飛ばした。
真広と律の身体が、冷たい壁から床へと叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
白い礼拝堂に、重い衝突音だけが残った。
そして一瞬、完全な静寂が落ちた。
真広の力なく投げ出された右腕が、床の上で小刻みに震えている。
すべての音が敵の羽の振動に塗りつぶされ、無響室じみた静寂が空間を支配した。
黒瀬先生が、残された左手で空間固定の黒い杭を放つ。
しかし、杭はうねる光帯に阻まれ、虚しく弾き返されて消滅した。
「やめてえええ!」
こはるが悲鳴に近い叫びを上げた。
指先が残像を描く速度で、端末の画面をフリックする。
敵の周囲の空間そのものを絞り込む形で、強引な圧縮の力が放たれた。
その余波として、周囲の石畳や壁が身をよじる形で隆起し、中央の敵へ向けて一気に絞り込まれていく。
こはるの鼻から、たらりと赤い鼻血が零れ落ちる。
「──潰れろおおお!」
しかし、圧縮が敵の身体に達する瞬間、巻き込まれていた石材が粉々に消え去り始めた。
空間を押し戻される凄まじい反発が、こはるの肉体を襲う。
こはるの身体はガタガタと細かく震え、その口から胃液が激しく吐き散らされた。
さらに過負荷による激しい虚脱に襲われ、その両足が力なく崩れ落ちていく。
鼻血と涙で視界をぐちゃぐちゃに濡らしながら、私の知性は、その瞬間に完全に瓦解した。
「こはる! 諦めるな、負けないで! いけえええええ!」
私は、奥歯が砕けるほど強く噛みしめ、裂けた喉からありったけの絶叫を絞り出した。
その崩れ落ちる小さな身体を、ただ強く抱きしめて支える。
その瞬間、手首のORIGOから、脳内へ強烈なノイズが走った。
『同期完了。──▒▒▒■■■■──』
『対象:▒▒▒▒▒▒▒▒──強化』
ノイズ混じりのログが脳内に流れ込み、私の「先取り」の視界がこはるの概念操作と接続される。
遠近感が、一点へ引きずり込まれる。
私の視界に、こはるが捻じ曲げようとする空間の圧力が、漆黒の等高線となって視覚化された。
その歪みの中心、敵の核へ向けて、一本の巨大な黒い亀裂が食い込む。
隆起した石壁は完全に消滅したが、こはるが放った圧縮の力そのものは止まらない。
敵を包み込む空間全体が、その中心へ向けて陥没する形でグニャリと収縮を始めた。
こはるの眼球の裏に血が走り、指先が端末の画面を血で濡らしながら強張る。
「あ、が……あ、あああああああッ!」
その限界の負荷が私自身にも逆流する。
全身の神経が焼き焦げる熱量が走り、私の口からも絶叫が漏れた。
その瞬間、背後から大きな手が伸び、私たちを力強く支えた。
右手首を失った黒瀬先生が、残された左腕で私たちの背中を押し支えている。
「押し通せ!」
先生の叫びが響く。
接続された二人の概念が、限界を超えて噛み合った。
空間そのものが無音のまま収縮し、敵の核を、空間ごと平坦に押し潰す。
──音も、意味も、そこから消えた。
光の羽も、賛美歌の合唱も、すべてがその歪みに吸い込まれて消滅した。
礼拝堂の空間全体が、内側へ向けて一気に潰れ、消失していく。
直後、視界が白い光に包まれた。
感覚が完全に遮断され、私たちの意識は白い虚無の中へと沈んでいく。
気がついたとき、私たちは冷たいアスファルトの上に倒れ込んでいた。
崩壊した空間の反動で、地上のゲート外へ強制的に吐き出されたのだ。
ゲートの鉄柵と、騒がしい医療班のサイレンの音が、平坦に響いている。
わき目で捉えたゲートの奥では、あの巨大な光の井戸が、小さく霧散する形で消えかけていた。
私たちは生きて帰ってきたのだと、その時初めて確信した。
担架が運ばれていく中、私は芝生の上に倒れているこはるの元へ這い寄った。
こはるの足元では、駆け寄った医療班が、過負荷で激しく痙攣する足に冷却固定用のギプスを当てている。
その少し奥では、担架に乗せられた真広と律が、弱々しくも互いに声を掛け合いながら救急車へと運ばれていくのが見えた。
泥と鼻血にまみれたこはるが、弱々しく私の手を握り返してくる。
「勝った……? 勝ったよね、あかり……」
「うん。勝ったよ。私たちの勝ちだ」
握りしめたこはるの手の温かさを感じながら、冷え切っていた私の掌に体温が戻る。
「……全員、いるな」
担架に横たえられた黒瀬先生が、残された左の拳を握り、掠れた声でそう呟いたのが聞こえた。
歪む視界のなかで、私は笑った。今度の笑顔は、きっと、本物だった。
しかし、感覚のない私の左足は、芝生に触れている感覚すら伝えてこない。
手首のORIGOは、壊れたままで、私の頭の奥に『表情出力:安定』とだけ、冷たく落としていた。
──うるさい。私は、笑えたんだ。




