第12話 甘やかな消失
「警戒しろ!」
黒瀬先生の鋭い警告が、白い礼拝堂の空間に突き刺さる。
床の真ん中で顔を上げた白い人型が、滑らかにこちらへ踏み出してきた。
無音だ。
その全身から、穏やかな白い光の粒子が立ち上っている。
それを見つめた瞬間、私の頬の筋肉が、また勝手に緩みそうになった。
羊水の中に溶けていく泥濘む快楽。思考を甘く痺れさせる安寧が、肌の裏側を侵食する。
──やめろ、私。
奥歯をきつく噛みしめる。
床を蹴り出そうとした瞬間、左足の裏が、石ではなくただの空気を踏んでいる感覚で軽かった。
つま先を丸める命令が、神経の途中で吸い込まれて消える。
「あかり、大丈夫!?」
こはるが私の制服の袖を、ちぎれんばかりに引いた。
その手の強さに、意識が急激に引き戻される。
『表情出力:安定』
手首のORIGOは、無機質な文字列を脳裏に落とした。
どこが安定だ。私の心臓は全力疾走しているというのに。
背中の皮膚が粟立つ感覚すらなく、ただ、指先から熱だけが引いていく。
白い人型が、その両手をこちらに掲げた。
その掌から、白い光の粒子が激しく吹き出す。
霧のような光が、猛スピードで私たちへ向かって押し寄せてきた。
「俺が持つ!」
真広が叫び、一歩前に出る。
膜展開補助具を突き出し、強固な半透明の障壁を空間に展開した。
白い粒子が、真広の障壁に激突する。
激突の瞬間、無音。光の粒子は障壁の表面を滑り、ただ貪欲に迂回ルートを探って周囲へ流れていく。
「止まってはいる……けど、手応えがねえ! 軽いんだ!」
真広は右手の指で盾のグリップを強く握りしめた。
盾も真広の手も消えていない。
しかし、白い霧は執拗に障壁を回り込もうとする。
障壁の脇をすり抜けた白い霧の先から、人の形をした五指が伸び、真広の剥き出しの肩先をかすめた。
「──真広さん、下がって!」
叫んだ私の目の奥で、熱い模様が走る。
私の視界の中で、真広の肩の境界線が滲み、大理石と同じ白さで削り取られていくのが見えた。
「え? いや、痛くもなんとも──」
真広は不思議そうに自分の肩へ手を伸ばしかけたが、私の必死の形相に押され、本能的に後方へ弾け飛んだ。
しかし、白い霧は執拗に私を目がけて流れてくる。
「させない!」
こはるの指先が、端末の画面を激しくなぞる。
私の目の前で、大理石の床の一部が隆起し、防壁となって割り込んだ。
だが、隆起した大理石に白い粒子が触れた瞬間、無音のまま、石が崩れて無へ帰した。
最初からそこには何も存在しなかった事実だけを残し、完全に消滅する。
「うそ……」
こはるの喉が引き攣った。画面上の操作を完全に拒絶され、その指先が端末の上でぴたりと止まる。
それを見た真広の指先が、盾のグリップを握り潰さんばかりに軋んだ。
「マジかよ……俺の障壁、本当に大丈夫だったのか?」
防げたはずの障壁が信じられないのか、真広の目が大きく見開かれていた。
真広の表情が、凍りついたように青ざめていく。
白い人型が再び粒子を吹き出すべく、その手を前に突き出す。
「退いて」
律の冷徹な声が響く。
すでに白銀の焦点具は、空間に鋭い「線」を張り巡らせていた。
律は白銀の線の終端を、大理石の床へ縫い付けるように引き絞る。
白銀の光線が走り、敵の「粒子を吹き出している両手首」を的確に切断した。
しかし、切り離された敵の手首から、白い粒子が尋常ではない勢いで暴走し始めた。
吹き出た粒子が、近くの床に倒れていた先行隊の死体に降り注ぐ。
まだ消え残っていた隊員の上半身が、白い霧に包まれた。
一瞬だった。
隊員の身体が、服も装備もろとも、大理石の床から完全に消え去った。
何も残らない。ただ、最初から誰もそこにいなかったはずの、平らな床があるだけだ。
それと同時に、私の視界に、不気味な光景が映し出された。
切断された白い人型の断面から、蠢く光の触手が幾本も伸びている。
その触手は血管めいて脈打ち、切り離された両手首を引き寄せ、再結合しようとしていた。
「再生する……?」
律の奥歯が、ギリ、と鳴り、その瞳がかすかに揺れた。
切断したはずの手がゆっくりと元に戻ろうとする様子に、焦りがにじむ。
触手が手を引き寄せ、もうすぐ元の形に戻ってしまう。
感覚のない左足に無理やり力を込め、床を踏みしめようとした。
だが、自分の足ではない異物感に身体の軸がぐらりと傾く。
倒れかけながらも必死に端末の照準を敵の結合点へ向け、震える指でマーカーの投射ボタンを叩いた。
「先生、そこ! 断面に杭を!」
黒瀬先生の眼鏡の奥で、静かな焦点が私を飛び越し、敵の結び目へ吸い付くように固定された。
弾かれたように踏み込み、空間を固定する黒い杭をその空間へと叩き込んだ。
ガキン、と、この空間に来て初めて硬質な音が響いた。
杭が打ち込まれた瞬間、伸びていた光の触手が不自然にねじ切れ、動きを止めた。
切り離された両手首は、結合を阻害され、床へと落ちて透明に溶けていく。
再結合は防いだ。
けれど、手首から先を失った白い人型は、倒れるどころか、さらにこちらへ踏み出してくる。
その動きに、躊躇は一切ない。
背骨の裏側を、冷たい氷の針でなぞられたような悪寒が走る。
先ほど暴走した粒子によって、先行隊の死体が消え去った場所。
その床から、新たな白い光の粒子が、泥めいてじわりと沸き立ち始めた。
沸き上がった光は、宙をうねりながら、目の前の白い人型の核へと集積し始める。
敵の白い身体が、その光を吸い込んで、さらに膨張しながら歪みだした。
だが、それを見つめる真広の肩には、先ほど削り取られた場所に、血も痛みもない、ぽっかりと空いた白い穴が残されていた。
私の左足は、依然として床を踏む感触を返さない。




